第七十五話 バックドラフト
冷蔵庫を開くと、榊に出してやれるようなものがひとつもなかった。沙苗がかすかに買い足したらしいミネラルウォーターに、緑茶。後は冷凍食品のストックが辛うじてあるばかりだ。
「ごめん榊、なんもないや。やっぱり何か買い足しに行こう」
「わかった」
「荷物、置いてくれてありがとう。さっさと片付けてくるから、先に靴履いてて」
榊は行儀よく頷いてリビングを出ていった。
雪本は病院で受け取った衣服をタンスにしまって、一緒に貰った紙袋を鍵の着いた引き出しに入れた。
紙袋を取っておくなんて、それこそ、真菜や川上の収集癖に触れなければ、発想すらなかったろう。
二人に出会ってしまった今は、榊から貰ったものをTシャツやジーンズだけだと認識するのが、曖昧に心細かった。高さのない引き出しにシワにならないよう紙袋を入れるのが思いのほか難しく、それなりに時間がかかってしまう。
何とかしまい込んで玄関に駆け出ると、靴を履き終えた榊が待つともなく待っていた。
「ごめん、待たせた」
「焦らなくていいのに」
「だって暑いし……」
その時、伸びた髪が肩を掠めて、雪本はふと振り返った。
後ろの正面には、自分が自分で自分の首を切りつけた脱衣所がある。
当時は大量の出血があったと聞いているが、搬送の際に掃除をしてもらったらしく、汚れひとつないほど磨きあげられて、綺麗だった。
「あのさ、鍵って開いてた?」
「鍵?」
「俺が倒れた時」
「——ああ。開いてた」
榊は急にバツが悪そうに俯いた。
「行儀が悪いとは思ったけど。でも、万が一いたらと思って、ドアノブを引くだけ引いてみて……」
「あ、ごめん、責めてんじゃなくて……そうじゃないとみつけて貰えなかったわけだし。でも、そっか……それでか」
管理人が、マスターキーで開けた可能性もなくはないかと思ったのだ。しかしそれなら何となく、気がついた気がしなくもない。出血がおさまっていたなら尚更、意識は取り戻せたのではないかと、どことなく違和感があったのだが、初めから開けたままにしていたなら、榊が遠慮しいしい扉を開けた音くらい気が付かなくても当然だろう。
真菜と川上と生活をしていた時、自分以外の誰かが鍵を開けるのが新鮮で、音を聞きつけると毎回目を覚ましていた。自分以外の誰かが家にいるのが珍しくて、鍵を閉めない悪癖もまた、しみついていた。
一人暮らしでこんなことではいくらなんでも危険だろう。ここから先は鍵を閉めるようにしないといけない。いや。むしろ開けておくようにした方が身のためなのだろうか。自分が妙な気を起こした時、鍵が閉まっていたままでは今度こそ死んでしまう。しかし妙な気を起こしたのならそれを止めるために扉を開けておくなんて、それではいよいよどうにもならない、馬鹿のおこないだ。
それで今度は一体誰に助けてもらうつもりだろう。
「雪本?」
榊の声で、初めて自分が黙り込んでいたことに気づく。
「ごめん、——」
何か笑って話しだそうとして、息が吸いこめなくなった。
「ごめん、ちょっと待って」
雪本は榊の腕を掴んだ。榊の全身に力が入る。掴んだのが左腕だったと気づいて直ぐに離す。
背後から、あるはずのない分厚い血の匂いがのしかかってきた。噎せると首が鋭く痛む。
うずくまった雪本の肩を榊が支えた。
「首を見せられるか」
「うん」
首をそらすだけの仕草で激痛に襲われる。気づけば肩で息をしていた。
「血とか、出てる?」
尋ねる雪本の肩を宥めるように柔らかく叩きながら、榊が視界の外から答える。
「いや、出血はしてない。開いたわけじゃなさそうだから、それは安心していい。でも——」
その榊の声に重ねて、
「雪ちゃん」
ほんの近く、すぐ後ろから、真菜の声が聞こえた。あまりに尋常な声だった。
「雪ちゃん、大丈夫?」
大丈夫なわけがない。
苦しい。
この一秒を生きていられないくらい苦しい。
体が心臓に向かって引きずられた。熱という熱が引いていくのに、首から上だけどんどん火照る。
「雪本」
榊の呼び掛けに、雪本は項垂れるしか出来なかった。川上を、真菜を、今この瞬間にも見てしまいそうで怖かった。榊の賢さが雪本の目の奥から、ここにはいない彼らの姿を見てしまいそうで、それはもっと恐ろしかった。
「ごめん」
榊は動じず、
「いいよ」
とだけ答える。その言葉をそのまま飲んで、半分くらい落ち着きを取り戻す自分自身の、その品のなさがどうしても我慢ならない。
「ごめん、榊──」
今度は榊は、何も返事をしなかった。「いいよ」を繰り返したところで、雪本が必ずしも安心するわけでないことを、一往復のやり取りで勘づいていた。
力が抜けてくる。
榊の目をかいくぐることは出来ない。
そして多分、榊の目の中にすべて収まっている方が、自分にとっても榊にとってもいいのだろう。
こうして顔を伏せていることも、彼の手数を無駄に増やしているだけのような気がして、息の苦しさと首の痛みをそのままに、どうにか顔を上げる。
榊は雪本の表情を、呼吸を、顔色を目視して言った。
「だいぶ落ち着いてきた」
出会ってから今までの約一年半、最も多く目にしてきた、冷静で知的で何にも動じない、榊が得意な表情だった。
「ありがとう」
雪本は心からそう言った。今日でもう二回目だ。
榊の本心にも嘘にも、等しく世話になってきたので、どちらの感謝も等しく重たい。
「榊、俺さ」
呼びかけると榊はまた、目を真っ直ぐに向けてきた。その優れすぎた頭脳と感性が、ずっと均一な『百』を保ちながら、ただ、雪本の言葉を待っている。
雪本は、ほとんど自覚のないまま
「お前のこと、全部わかってるから」
とだけ言った。
吐き気を伴う分厚い沈黙が、閉じ込められて湿りを帯びた熱気を食って、足元に落ちる。
榊は何を言われたのか瞬時に理解し、呼吸を止めた。雪本は逆に自分が何を言ったのか理解できなかった。
何を言っているんだろう。
今まで必死で守ってきた秘密を、どうして今、なんの権利があって自分が、口にしてしまったのか。
榊の瞳は、その怜悧すぎる光をまっすぐに雪本の目に合わせ、またその光が跳ね返って榊自身を刺していた。毎回毎回違う場所に跳ね返し、繰り返し繰り返して、徐々に速度を上げながら──。
「榊」
声が震えた。痛みを押し流すように夥しい涙が頬を伝う。見える景色がすべてぼやけた。なぜ自分の方が泣くのか。彼の表情を真正面から見据えることもできないのか。逃げることだけ、こうして上手くなるのだろうか。無駄なこととわかっていてそれでも惨めで顔を伏せると、その動作をどう受け取ったか、榊が弾かれたように踵を返してドアノブに手をかけた。
「待って」
考えるより先に叫んだ。扉を内から体当たりして押し付ける。
「待って、榊」
「嫌だ」
「榊、ごめん」
「うるさい──」
「聞いて」
「放せよ」
ドアノブを榊の手ごと掴むと、彼はアレルギー反応のような勢いで腕を振り、払いのけようとした。しかし弾みで雪本の首に指先が当たりそうになると、ぎくりと固まってしまう。掴んだ手首は震えながら激しく脈を打ち、狂ったように熱くなっていく。




