第七十四話 日の差さない踊り場で
自宅マンションの傍らの道路で車は止まった。
「じゃあ雪本さん、ご用があったら、なんでも連絡してくださいね」
「はい、ありがとうございます。新島さん」
新島は車を走らせ、角を曲がって見えなくなった。
とりあえず榊に、マンションの外壁にある自動販売機を指さす。
「買っていく?一応家にお茶くらいはあると思うけど」
榊はゆるく首を横に振った。
「一度荷物を置いて、それからでいい」
「わかった。鍵は持ってくれてるんだよね?」
「今、渡そうか?」
「ううん。大丈夫」
エントランスに入ると、ちょうどエレベーターが降りてきた。
榊が視線を向けてくる。
人が降りて空になるエレベーターを通り過ぎ、その奥の階段を登り始めた。榊は雪本のすぐ後ろを何も言わずについてきて、静かに周囲に視線を配り続けた。
初めの踊り場に出ると、建物が多くて、日が遮られていた。その代わりにジメジメと至る所が蒸している。真菜のマンションのあった地域とは、こうしてみると、かなり地形が違う。あそこはもっと高低差があって、その分少し歩けばどこにだって日が差した。
立ち止まると、榊もすぐに立ち止まった。
「榊、ちょっと、急にハードな話になるかもだけど」
「何?」
「俺、死ぬつもりだった」
榊は静かに、雪本の目を正視して頷いた。雪本はそらすようにして笑う。
「気づいてた?」
「なんとなく」
「そっか」
「考える間もなく、咄嗟に助けはしたけど」
と、榊は目を見たままで、ゆっくりと首を傾げた。
「同棲先から、帰ってきてるんだなと思って」
「うん」
目を逸らしたまま頷いて、それでも、今浮かぶ言葉を探しながら続ける。
「今は、死のうとかどうとか、それこそ考えられない。なんだかんだ、ちゃんと思い出したら、すっごい痛かったなって。だから平気。何かあったら、榊のおじい様から教えて貰った病院のどっかに行く。その方が──」
下の階で数名の人が話しながら廊下を渡ってくる音がして、雪本は咄嗟にまた階段を登り始めた。榊は静かにそれについてくる。どんなに雪本の歩みが遅くとも、雪本より先に来ることはなく、淡々と、雪本の数段後ろを慎重に歩んだ。
また踊り場に出た時、榊が心持ち抑えた声で言った。
「雪本」
「うん?」
「これが、いい表現かは分からないけど、少なくとも、死にたいと思うことがそれほどの大事件のようには、俺には思えない。……いや、うちは病院だから、死が身近すぎるのかもしれないけど」
榊は少し呼吸を整える。かすかに瞳の奥が震えていた。
「東井だとか、沙苗さんだとか——それこそ、お前が同棲をしていた人たちだとか。お前が死んで悲しむ人間は多分、それなりにたくさんいるとは思う。でもだからって、お前が何がなんでも生きなきゃいけない理由はない」
そこまで言って榊は、皮肉っぽい苦笑いをうかべた
「もちろん、死んだら死にっぱなしになるから、ご利用は計画的に、とは、言っておきたいけど」
「それは、そうだね」
「どちらにせよ焦って決断するようなことはなにもない。気長に構えて、ダラダラ考えていけばいいと思う。そんな究極な結論を出せる体力が、今この瞬間のお前にあるとは思わない」
「……そうだ。本当に」
今まででいちばん重たく、腑に落ちて染みていく結論だった。あらん限りの勇気を以て、榊の目に焦点を合わせる。
「ありがとう」
雪本のその言葉に、榊はわずかに目を細めて笑った。
そのごくわずかな笑みは、今まで目にした榊の表情の中で、最も彼の本心に肉薄しているような気がした。優れた知性のさらに奥に、柔らかく豊かな情がある。花火大会の時、その感情の豊かさにあれだけ苦しみ俯いていたその目は、今はただ、静かに雪本をありのまま映している。
雪本は反射的に笑みで返して、すぐ背けて階段を登った。
かなわなくて、気後れして、芯が震えた。
その踊り場から部屋までの残り数階分を登りきるまでは、どちらからも話さなかった。
部屋の鍵を榊が開けて、扉は荷物を持たない雪本が開く。
内開きの扉を押し込むと、中に籠っていた夏の空気が、対流を作って夕暮れ時の空気に逃げ出した。
「悪い、先に荷物を置いてくる」
「うん、どうぞ」
榊はきちんと靴を揃えて部屋に上がると、リビングの方に入っていった。そう言えば、彼もつい昨日来たばかりなのだ。部屋の構造はおよそ把握できているのだろう。
雪本もそのすぐあとに続いて入った。
すると、テーブルに置かれたままの、携帯電話が目に入った。
「……」
起動させれば、勿論、真菜や川上からの連絡を確認できる。
確認できてしまう。
まだ、二日と経っていない。けれどもう、今更の話になってはいないのか。
今更でなくても、二人からどんな言葉が、どんな量来ているのか、来ていないのか。
そもそも自分が逃げ出したのだ。
川上と真菜から、二人と作った生活から逃げ出した。三人で来る日も来る日も話しに話して作り続けた生活から。けれど結局、思い返せば一か月くらいなのだ。一か月くらいの生活から、自分から逃げ出した雪本を、二人は少なくとも、走って力づくで捕まえたりはしなかった。
二日前の時間から止まったままの端末を、どうやって受け止めよう。
「榊さ……」
考えるより先に、なぜか呼びかけていた。自分でも何を言おうとしているのかわからない。
しかし榊は、すぐに振り返った。頼めば何でも、いくらでも顔色ひとつ変えずに承諾してくれそうな態度だった。
そしてそれが、急に怖くなった。
「なんでもない」
クラスの連絡はメールでも行えるようになっている。当面はPCでやり取りをすればいい。
それで、日々は過ごしていけるはずだ。




