第七十三話 オンリー
「ごめんなさい坊っちゃん、暑いですか?窓閉めてクーラーにしましょうか」
榊が腕をまくったのを見て、新島がすぐに気を回したが、榊は首を横に振った。
「いや、昨日練習で転んだので、その傷が残ってるか気になって。紛らわしくてごめんなさい」
「あら。今も痛みます?」
「いいえ。傷もないし……」
そういいながら裏返し、今度は掌から肘裏までをかざすようにして確認する。
「もう治ったみたいです」
ふと視線をあげると、バックミラーには、榊が視線を伏せているのがちょうどはっきり見えた。雪本自身の視線も、ちょうど見えた。逆に言えば榊からも見えただろう。
「こう見ると結構、このひと月で焼けたな」
と、榊は夕日にあえてかざした手を下ろし、興味無さそうにつぶやく。雪本も素知らぬ顔で、
「そう?でも、そんな酷くないよ。肌強いね」
と乗っかった。
「強い?」
「うん。なんとなく。」
しばらくすると車が曲がり角に差し掛かり、日光がちょうど榊の全身を照らす形になって、雪本は彼の袖を元の位置に戻してやった。
「……こないださ、沙苗さんと一緒に学校近くの寿司屋行ったの」
すると榊は、すぐにピンと来たようで
「ラーメンの店の横の?」
「そう。常連なんだってね、聞いたよ。榊んちが来る時がいちばん賑やかだって」
「恥ずかしい」
本当に恥ずかしそうな言い方だった。雪本はそれを見て、愉快に笑った
「実際、お会いして、本当におしゃべり好きなんだなーって。頭の回転も早いからかな、話題も多いし、面白いし」
「面白がって貰えたぶんには良かったけど」
「うん、もちろん。あとみんな、家族の話をすっごいするんだよね。それが一番不思議って言うか、新鮮だった。うちだとさ、聞かれないと学校の話しないし、聞かれないと仕事の話しなかったから」
そこまで話して、真菜と川上と接する時はそうとも限らなかったと、不意に思い返した。
「なんでだろう、わかんないけど。多分うちの親は、一番好きなことを仕事にしてるんだよね、二人とも。だから仕事の話をするのは、本当は楽しいんだと思うけど、自分にとって楽しすぎる話題だから遠慮するっていうか」
「ああ、なるほど」
「だから会う度、俺の学校のこととか聞こうとしてくれるんだけど」
「うん」
「俺は学校、別に好きじゃないからさ?」
「だろうな」
榊が思わずと言ったように軽く笑った。雪本もそれにつられて笑う。
「自分にとって楽しくないなら、相手にとっても楽しくない話題だろうから、結局、遠慮するんだよ」
バックミラーに映った自分が見えた。それが目が合いそうで窮屈だった。窓際に頬杖を着いて体を傾げ、鏡から避難する。
「榊の家の人って、みんなお互いの話を沢山するでしょ。看護師さんとかお客さんもみんな榊んちの話がわかる。安心感があるっていうか……なんだろうな」
雪本は窓に顔を向けたままでいた。長い信号待ちだった。
「……本当に親族だけなんだね」
「なにが?」
「下の名前で呼ぶの。病院の誰も、呼ばなかった」
榊は何も返事をしなかった。雪本は心底自分が嫌になって暫く目を瞑る。信号が青になったのか、車が再び前進したのを感じると、口が勝手に動いた。
「今日沙苗さんに電話した時、お母さんって呼んだんだ。結構、反応良かったんじゃないかな。沙苗さんって呼ばれるのが嫌だったわけじゃないはずだけど……」
歩道には下校中の小学生がチラホラ見えた。分かれ道で、また明日、と、後ろも見ずに声を張る。
「でも、母さんって呼ばれたら、それはそれでなんか、安心したみたい」
「雪本は」
「うん?」
向き直ると、榊と一瞬目があう。榊は直ぐに、痛そうに逸らした。
「母さんって、呼んでみてどう思った」
「変な感じ」
すぐに答えた。
「でも、沙苗さんって呼ぶのも、変だなって思っちゃったんだ。何でかわかんないけど、急に、その時だけ嫌になっちゃって、母さんってのもその時だけ呼ぶつもりで──」
「雪本」
榊が静かに腕を伸ばして、雪本のベルトをまた浮かせた。ベルトがいつの間にか首筋に触れてしまって、包帯がかすかに押し付けられていた。
「悪い、さえぎって」
「全然大丈夫。ありがとう」
雪本は笑みを浮かべてまた体を移動させる。しばらく笑みを浮かべていなかったことに、はじめて気がついた。
「──榊のおじい様からさ、榊家でしばらく面倒みれるよって、言って貰えてたんだ。実際、ちょっといいなって思ってた。新島さんの料理とか、もし貰えるなら凄く嬉しいし、気になるし。榊の人の雰囲気って、馴染みやすくて──なんか──沙苗さんって言う時に、モノマネしてるみたいな気分になって」
「──うちの?」
「うん。凄い……なんて言えばいいかな。榊んちの雰囲気って楽しいし、居心地良くて、あんまり無理せず話せるんだ。俺が沙苗さんに沙苗さんって言うのは、前からそうなんだけど。榊のおうちとはそこだけかぶっても、いるから。だから、慣らされてるみたいな感覚になって。──ちょっと、ごめん、何言ってんだかよくわかんなくなった」
「全然」
「失礼だし──本当にごめん。榊んちがどうこうってんじゃなくて。俺が、単に、自分でしっかりしてないだけっていうか……勝手によくわかんなくなって、色々見失っちゃっただけで。石崎とかの時もそうだったけど、ホント、こういうとこ直んないんだよなって、今回思った」
信じられなくなった瞬間、切り落として逃げ出して、しばらくしたら同じことを繰り返す。いちいち傷ついていられるのが我ながら不思議だった。
「ごめん、いい加減ちゃんとする」
「しなくていい」
青信号が点滅した。焦ればギリギリ通れそうだったが、車はゆっくりと減速し、そのうち黄色信号になった。
「申し訳ない」
榊は静かに、しっかりと雪本の目を見て話した。
「知義さんや、一信さんや、榊家の人間は、基本的にとてもタフなんだ。そして自分にとって1番に必要なものを手にしている」
「うん」
「人にすぐ心を開くし、人にも心を開かせるのがうまい。人となんでも共有する。実際共有出来てしまう。当たり前に。でもそれが全てではないはずだし」
榊はそこで言葉を切って、表情を淀ませた
「あの人たちの、そういうところだけが、どうしても好きになれない」
雪本が黙って頷くと、榊は不意に、新島に向かって
「新島さん、信号、青ですよ」
「ああ、すみません─」
新島は珍しく、本当に慌てたような声を出した。車が発信してからしばらくして、榊はゆっくりと呟いた。
「ごめんなさい」
「いいえ」
新島もそう答えた。
そこでやっと、退院した実感が湧いた。




