第七十二話 行先と居場所
新島は後部座席の窓を少しだけ開けた。夏の夕方の、やや涼しい風が入ってくる。榊家の木々の葉が波打って、大らかな音を立てていた。
「大旦那様から伺いました。泊まりになるかもしれないって」
「まだ分かりません、却って雪本に負担がかかるようなら、早めに帰りますし」
「俺、大丈夫だよ」
「一応、様子を見て判断する」
雪本の咄嗟の言葉を、榊は否定せず、頷きもしなかった。新島も公平な態度で頷く。
「出過ぎたことかもしれませんが、私もその方がいいと思いますよ、雪本さん。もしあれだったら、私、坊ちゃんのお着替えとかお泊まりセットとか色々お届けに参りますので、まあ十二時前後までにご連絡いただけたら」
「わかりました」
雪本が頷くと、新島は空になったコップを素早く回収しながら尋ねてきた。
「さ、どちらに行かれますかね?一旦ご自宅に行かれますか?それとも商店街の辺りでお止めした方がよろしいですか?」
「……商店街だと、高校の知り合いに捕まるかな?」
目配せをすると、榊は頷いた。
「ちょうど下校のタイミングと被りそうだし、外に出るにしてももう少し時間を遅らせた方がいいだろ」
「だよね。サボってると思われちゃう」
「そう……」
「じゃあやっぱ家かな。榊はそれでいい?」
「構わないけど──いや、新島さん、ごめんなさい、待ってください」
会話を聞きながらエンジンをかけ始めた新島を、榊が何故か、片手まで上げて鋭く制した。
「ごめん、何かあった?」
「──この駅の商店街は行かない方がいい、それはその通りだとして」
榊は言葉を過去にないほど慎重に選びつつも、真っ直ぐにこちらの目を見据えて言った。
「それ以外で、行った方がいい場所があるなら、そこに行ける」
「え?」
「同行をするのでもいいし、もちろん近場まで車でつけて、雪本一人で行くのでも問題ない。なんでも都合に合わせて判断してくれていいけど」
「………」
「自分で行くのに、ハードルが高い場所があるなら、今これから、運ぶくらいはできる」
あまりに思いがけない言葉すぎて、まじまじと目を見つめ返してしまった。思いがけない言葉だが、言われたあとだと、何より榊らしい言葉かもしれないとも思った。
声よりも、表情の方に緊張が滲んでいるのが、なお榊らしかった。確かにある緊張を押さえつけながら、榊はじっと雪本の言葉を待った。
「もし、何か御用があるならおっしゃってください。道が混んでたら時間はかかりますが、今日はそうでもありませんよ」
新島も力強くそう言った。事情は何も聞いていないはずだ。榊の行動を信用しているから、そして榊が今、あまりに真剣だからすぐに順応したのだろう。
これから雪本がどこに行くのであろうと、それをサポートしたい榊の真剣さに付き合おうとしているのだ。
このまま頷き、住所を告げて車に揺られていれば、帰ってしまえる。
榊の言わんとするとおり、もし今から、川上と真菜の家に帰るとして、榊も新島もその見届け人としてはかなり適任だ。
今は心理的な負担も比較的少ない。
なぜ“少ない”のか自分でもよく分からないが、クッキーを食べたせいか、紅茶が良い出来だったせいか、体全体が心地よい「普通」を保っているような気がした。
「そうだな、せっかくだったら、申し訳ないけど、一人はきついから……」
雪本の迷い迷いの言葉に、榊は静かな動作で頷く。その動作を見て『やっぱり育ちのいい子なんだ』と場違いなことを思う。
気がつくと首を横に振っていた。
「いや。やっぱいい。俺の家に行く」
呼吸に合わせて、シートにどっぷり、体が沈む。
ぼんやり窓を眺めると、先程よりも日光に赤みが差していた。
「疲れちゃったし、榊も疲れてるだろうし。今日はもう、遠出はいいかな。自分の部屋に戻る」
「新島さん、お願いします」
榊は新島に声をかけ、新島は返事をしながらクッキーの包みと紙コップを受け取る。やっと空になっていた。
「食べられた?」
「もちろん」
頷きながら、榊はやや大きい「しめますよ」という動作でシートベルトをしめた。雪本もそれにならった。
「いたっ」
うっかり首に当たるようにベルトをしてしまうと、榊がベルトの端の方の空間に手を差し入れて甲を滑らせ、雪本の身体とベルトの間に隙間を作る。
「座る位置、ずらせるか」
「うん。ありがとう榊」
位置を調整してやっと落ち着く頃、新島が榊に声をかけた。
「坊ちゃん、奥様、明日の午後三時にお帰りになるそうです。それまでに戻れれば、なんでも大丈夫だと思いますよ」
榊は黙って頷く。新島は笑って
「きのう今日、奥様がいらっしゃらなくてよかったわ」
と放言し、そのまましっとりとレクサスを発進させた。
「聞いていい?」
「何?」
「お母さん、そんなに怖いの」
声を低めて尋ねる。
榊医院に入院してからこっち、美祈がいなくて良かったと言う言葉を何度も聞いた。雪本は1度しか彼女にあったことはない。明朗で上品である他は、若すぎる美貌の印象があるばかりで、厳しい人物には見えなかった。
「いや─」
榊は静かに首を傾げる。
「怖い人ではないし、無駄な締めつけをする人でもない。どちらかといえば甘い方の親だと思う。ただ、子供の変化には過敏というか、慎重なんだ。変化に反対すると言うより、変化をきちんと把握しようとするというか」
「ああ、うまい言い方ですね」
しんみりと呟く新島に対し、榊はかすかに眉をひそめながらも続けた。
「美祈さんは、十七才で知義さんと知り合って、十八才で結婚して、十九才で出産……だからつまり、私を産んだ。今となっては笑い話でも、当時は本当に、冗談にならない大騒ぎになったらしいし─」
「ああ、榊もそろそろ、十七だもんな。お母さん、余計気になるか」
雪本がそう言うと、榊は強ばった視線を伏せた。
花火大会の日、榊が頑なに俯いて、人の視線を避けていたのを思い出す。
誰に見られることも無い袖口の内側で、榊自身の腕に爪を立てていた。しがみつくかのようだった。
一体、いつから自分の腕に痣を刻んでいるのだろう。学校だけでなく、家でも、見られないよう気をつけ続けてきたのだろうか。
その時、榊が自身の左腕の袖を肘までまくった。
手の甲から一の腕までがむき出しになる。傷跡は全くない。




