第七十一話 ”榊家”の空間
紙袋をサイドテーブルに置いて初めて、椅子に置かれたままの文庫本に気が付いた。表面にはカバーがかかっていて、一枚開くと見返しには、「森鴎外」「山椒大夫」「高瀬舟」と書かれている。
森鴎外もそういえば医者だった。医者だったという事しか知らないくらいだ。高校で使用している教科書では彼の作品が掲載されておらず、資料集で代表作の説明や来歴をパラパラと目に止めたことがある程度で、表紙に記載されている二作品についても名前を知っているだけだった。
教科書に掲載されている小説は勝手に読み進めてしまうが、有名作品は抑えておこうというような心がけもない。
文庫本を眺めているうち、ノックの音がした。
「はい」
「雪本くん、入っても平気かな」
一信だった。
「はい、どうぞ」
返事をすると、一信はまたも、物音を立てずに入ってきた。直前に孫を見たからか、一信もまた孫によく似ていることがわかる。少し浅黒くハリのある肌や、逸らしがちな視線の使い方などが特に印象深い。
「いやあ、よく寝たね」
嫌味っぽいのに底の方が柔らかいのもよく似ている。
「はい、ごめんなさい」
「昨日は寝られなかった?」
「そんなことも無いはずなんですけど……」
「まあ、ぐるぐるぐるぐる考えて、疲れちゃったんだろう。首見してくれる?」
雪本は頷き、ベッドの端に腰かけた。一信は椅子に座ろうとして、文庫本を手に取る。
「新品の本だね」
「それ、榊が——えっと」
榊家で下の名を呼ぶのは家族だけ。とはいえ、息子さん、は固すぎるだろうか。
「知理ね。わかってるから大丈夫」
一信が見かねたように笑った。雪本もその笑みに甘んじる。
「はい。あいつが、多分、暇つぶしで読んでたのかな」
「珍しいな、あの子が忘れ物なんて」
一信はささやかに笑いながら、雪本がついさっきしたように、表紙を捲って見返しを覗き込んだ。不意に笑みが消える。
「——雪本君、これ、読んだ?」
「すみません、タイトルだけは見ました。でも中身は」
「そう、ならよかった」
「どうして?」
「いや。疲れてる人にはちょっと刺激強いなと思って。退屈しのぎにはいいだろうけど」
「でも榊は、疲れてるでしょ」
「そのはずだけど……どちらかというと、だからこそ買ったって感じな気がするよ。まあいいや、私が返しておく」
一信はまた椅子に文庫本を置いた。
「あの」
「うん?」
「俺、その本読まないほうが良いですか?調べたりとか——」
「それを聞いちゃダメだろ」
雪本が言い切る前に、一信はけらけら笑った。
「だって聞いた時点で無理だろ、君」
「そうですね」
雪本も笑った。
「特に読みたいわけでもないだろ?」
「はい」
「だったら、たまたま読む機会に巡り合うか、あの子があらすじを自分で話してくれるようになるのを待つのが、『雪本君として』一番楽だろうね」
一信はそう笑いながら、手際よく包帯を剥がした。
「痛みが出始めたって聞いたよ」
「はい」
「かなり痛いの?」
「時によりますけど、チクッとする程度の時もあるし、カッターで指切った時みたいな、それこそ、刃物で切った時みたいに、すっごく痛くなることもあります。ズキズキしたりしなかったり」
「……でも、傷自体は良くなってそうだな。容態的には、退院で問題ないよ」
「よかった」
「今も痛い?」
「少しだけ」
「そう。無理はしないように。はい、できた。じゃ、こっちも見せて」
右腕を指で示され、Tシャツの袖をまくる。朝から更に腫れが収まってきていた。
「この後、知理と出かけるんだってね」
「出かけるというか、まあ、ゆっくり話ができればなって」
「ああ、なんだ。行く場所が決まってるわけじゃないのか」
「はい。どこか、ゆっくりできれば。今のところ、俺の家とかにしようと思ってます」
「うんうん。特にうちは、門限があるわけじゃないから、いくらでも好きなだけ捕まえてて構わないよ。君さえよければ、泊りでもいいくらい」
「いいんですか」
「どうせ美祈もいないし。時間を変に気にするくらいなら、その方が気が楽なこともあるかと思って。君のケガの面倒もみられるし」
「本人に聞いてみます」
一信は慎重な手つきで新しい湿布を貼りながら、苦笑いしつつ言った。
「そういう意味じゃ、むしろ君が我が家に泊っていくのが、一番安心だろうけどね。部屋にいくつか空きはあるし」
「それもありがたいけど……でも、大丈夫です。退院するし」
「そう」
「俺の家にします」
「うん。そうだろうね」
新しい湿布の冷気が痣を覆う。袖を下ろせば、全く見えなくなった。雪本は改めて立ち上がり、一信に頭を下げた。
「ありがとうございました」
「いえいえ」
一信はしっかりと噛みしめるように首を緩く横に振った。
「大したこともできなくて申し訳ない。でも何かあったら、またすぐに来てね」
雪本は返事をしようとして、喉のあたりでつっかえた。そのあとすぐに一信が、お大事にと会釈したので、そこでようやく、はい、と返事をして立ち上がった。
榊医院の一階はロビーになっている。大きなソファベンチが置かれている開放的なブロックと、一席一席に間仕切りが存在しているブロック、キャスターのついたスツールを自由に動かして話の出来るブロックが存在し、かなり雑然としているが、通り道になるべき通路は色が分けられていて、そこでは立ち止まらないよう注意書きがしてあった。
フロア全体に穏やかな曲が流れていて、『お話は曲が聞こえる程度の大きさで』とも注意書きがしてある。
平日の夕方ということもあって、それほど客は多くない。松葉杖をついている小学生や、マスクをつけている主婦のような女性、検査に来ているらしい老夫婦や、やや膝を庇っているような中年の男性。荷物の少なさや物慣れた姿勢からして、皆このあたりに住んでいる常連客のようだった。そんな静かなロビーの中で、小さな小さな騒動が起きていた。
受付の前で、車いすに乗った上品な雰囲気のお婆さんが、誰かを引き留めてしきりに何か話している。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫ですよ、ありがとうございます、野中さん」
お婆さんと話しているのは榊だった。かがんで視線を合わせる榊に、野中と呼ばれたお婆さんはなお食い下がる。
「でも、やっぱりちょっと細くなってるわ。せっかくお父さんよりおっきくなったのに」
受付にいる看護師が皆こらえきれずに俯いた。榊の真隣で見守る知義が所在なさげに視線をうろうろさせる。それでも野中はいたって深刻な表情だった。
「坊ちゃん。本当に、無理だけはしちゃいけません」
「はい」
「若いうちこそ自分を大事にしておかないと」
「すみません、ご心配おかけして」
榊も真剣に申し訳なさそうに声をかける。
「ちょっと夏バテのようなもので」
「なら、新島さんに良いものを作ってもらって」
「はい」
「絶対ですよ」
「約束します」
「私、来週も検査ですから、その時ちゃんとお顔見せてくださいな」
「わかりました」
「私が坊ちゃんを診察いたしますから」
「はい」
ついに知義も耐え切れず笑った。それを榊が咎めるようにチラリと睨む。野中も本気なら坊ちゃんもいたって真面目だ。看護師も客もこぞって小さく笑い、雪本もこっそりとその中に混ざった。野中は周りの事などどこ吹く風で、満足したように帰っていった。
知義が雪本に気が付き、息子の肩を叩いて合図する。そこで初めて気が付いたのか、榊は雪本の顔を見るや否や、逃げるように早足で歩み寄ってきた。
「悪い、待たせた」
「ううん。楽しかった」
「うるさい」
「いいおばあちゃんだね」
「私が生まれる前からこの病院に通ってらっしゃる方なんだ。子供のころからしょっちゅうお世話になってる」
おそらくそんな常連が他にもわんさかいるのだろう。少なくとも今ここにいる客は全員、「坊ちゃん」が誰か、「お父さん」が誰か、把握しているようだった。
「雪本君」
知義が近づいてきた。
「お大事にね。何かあったらすぐうちに来て」
「はい。お世話になりました」
「いやいや。僕は何も」
知義は少し肩をすくめて、申し訳なさそうな顔をしながら声を潜める。
「本当に、ちょっとでも不調だったら来るんだよ。そしたら正真正銘、本物の診断書をいくらでも出すからさ」
「……」
頷くほかなかった。知義はそれ以上何か思うところは全くない様子で、猫の手のような握りこぶしで息子の肩を緩く小突く。
「ニセは困るよ、ニセは」
笑う知義を、榊は酷く曖昧な表情で首を傾げてあしらって、裏の勝手口への通路を歩き始めた。傍目には本当に心当たりが無いように見える。
嘘に見えない嘘をつく息子に対し、嘘をつけない父親は実に堂々とした態度で手を振って見送った。
勝手口から外に出ると、そこには駐車場があって、見覚えのある黒いレクサスが一台停まっている。榊が迷いなく乗り込むのに従うと、運転席の新島がにこやかに振り返った。
「どうも雪本さん。昨日ぶりですね」
「こんにちは、新島さん」
「お二人にちょっとね、渡したいものがあるんですよ」
新島は助手席の方に置いていたクーラーボックスから、透明の小さな包みを二つ取り出した。小さいクッキーが数枚入っている。
「雪本さん、お昼前に退院なさるって聞いてたから。ちょうどお腹がすくころだと思って作っておいたんです。おやつになっちゃったけど」
「いいんですか、今お腹ペコペコで」
「ええ。坊ちゃんもどうぞ」
「いえ、私は——」
榊はすぐに首を横に振った。新島は笑顔のまま、しかし珍しく困ったような声で
「でも坊ちゃん、朝も昼もでしょ」
と言った。そして榊が反応をとりきれない間に畳みかける。
「食べないと奥様に言っちゃいますよ、この二日間の事、ありのまま全部。ひと騒ぎになるでしょうね?」
「私がきちんと説明しますから、それは構いませんよ」
「あら、よろしいんですね。……じゃ、泉美さんがお見舞いに来てくださった事も? 私が車でお送りしたことも?」
「新島さん」
「いや、私はちゃんと承知してますよ。なんだったら奥様だって『そういう意味では』ご理解してくださるでしょう。でもこう言っちゃなんですが、泉美さんが綺麗で、信頼できるお人柄で、坊ちゃんをとても心配してくださったことは紛れもない事実ですから」
新島は人の悪い笑みを浮かべながら、それでも申し訳なさそうな声音で続けた。
「そう言う事実だけでも奥様が知ってしまうというのは、避けた方が無難でしょう。……ささ、一口くらい食べてください。味はばっちりですから」
「味は疑ってませんけど」
「食べないと俺も報告するよ。東井に」
「なんで」
「いや東井も何も無いのは疑わないだろうけどさ。そういう問題じゃないじゃない」
雪本は一枚口に放り込んだ。嫌味のない甘さがホロホロと崩れて溶ける。
「あ、ほんと美味しい」
「ありがとうございます、雪本さん」
「はい、一枚」
むき身のクッキーを榊の手に押し付ける。クッキーを取り落としそうになると、案の定、榊が反射的にそれを掴んだ。掴んでしまえば元に戻すのも雪本に押し付けるのも気が引けるのだろう。そのままクッキーをかじり始めた。
「雪本さん、紅茶は飲まれますか?」
「はい。好きです」
「もしよければどうぞ」
新島が水筒に入れた紅茶を紙コップに入れて渡してくれた。香りは高いが渋みはなく、飲みやすい。クッキーに持っていかれた水分がちょうど補給された。
そのまま誰に言われるでもなく、新島は榊にもいっぱい注いで渡していた。
今の榊は、一口大のクッキーの、その更に三分の一程のかけらも、水分がないと飲み込めない様子だった。




