第七十話 その青色
ふと、かすかな物音を感じた。目を開けないままそっと自分が横たわっているものの感触を確かめる。サラサラのフェイクレザー。テレビの前のⅬ字ソファだろう。真菜と川上がすぐそばにいるようで、何かゆったりと話し合っていた。雪本が起きたことにはまだ気が付いていないらしい。二人の声はとても小さく、窓から入る遅くてぬるい風にも、ともすれば紛れてしまいそうだった。
テレビの方からも、かすかに音が聞こえていた。はっきりとは聞き取れないので内容までは把握ができないが、英語が聞こえたような気がする。しばらくすると音楽が流れだし、そこで、川上のプレゼントに購入したDVDの映画だとわかった。見ている途中で眠ってしまったのだろうか。しかし、この音楽は冒頭で流れるもののはずだ。今眠っては全く追いつけなくなってしまうのに、二人は雪本を起こす気配をまるで見せない。
なんだか変に意地になって、雪本は二人が起こしてくれるまで眠ったふりをすることにした。しかしこの音楽が終わって、次の場面に入ったら、それでどうしても映画の続きが気になってしまったら、特別に二人を許して、起きあがってしまおう。そう決めているうちに、音楽が遠ざかり始める。雪本はなんだか変に息をひそめて、じっと次の音を待った。
紙をめくる音が聞こえた。真菜と川上の声は聞こえず、音楽もなく、風はずっと涼しい。またもう一枚紙をめくる音がする。本を読む音だった。目を開けそうになったのを、もう一度固く閉ざしなおす。
しばらく待てば、また、二人の声と、音楽が聞こえてきた。真菜と川上はやはり、何を話しているのかわからず、眠る雪本を起こそうともしない。また音楽が途切れれば、真菜も川上も黙り込む。頑なに目を閉ざして、雪本は待った。何度でも音楽は流れた。真菜も川上も、柔らかく心地いい声で何かを話し、笑っている。しかし二人の声が雪本を呼ぶことも、二人の会話が雪本の耳に正確に入ることもない。なぜ二人が笑っているのかもわからず、映画は始まったばかりの位置を何度でも繰り返した。
ひそめる息が徐々に詰まって、喉を締めていくようで、思い切り吸い込んだ。
白い天井に、揺れるカーテンの影が映った。雪本は行儀よくまっすぐに、白すぎるベッドの上であおむけに横たわっている。首に触れて包帯が巻かれているのを確認すると、咄嗟に窓に背を向けた。一人でないことは起きてすぐに理解していた。誰がそこにいるのかも。
真っ白な病室がすぐに歪んで見えなくなる。椅子を引く音、窓が下ろされる音、カーテンが閉められる音。背後の音を隠れ蓑にして、雪本は存分に息を整えることができた。だが自分でも、涙にむせているのか、悲しんでいるのかわからない。ただ首の筋が引っ張られて痛かった。
落ち着くと、暫くして、背後の物音も止んだ。
雪本は振り返りざま、声をかけた。
「ごめん、今起きた」
そこには榊がいた。カーテン越しにも眩しすぎる日差しと、雪本の間を取り持つようにして、窓際近くに座っている。
「おはよう」
「おはよう。……わ、もう、三時?」
雪本がそう声を上げると、榊は時計の存在に初めて気が付いたように、ああ、と鷹揚な声を上げた。
「そんな時間か」
「ごめん、寝すぎた」
「寝られるならそれに越したことはないし、一信さんにも許可はとってある」
「大分待っただろ」
ごめん、と雪本が繰り返すと、榊は閉じた文庫本を指でなぞりながら、首を横に振る。
「本を読んでただけだから、そんなに謝られた方が困る。逆にもしこの後、用事か何かあったなら、申し訳ない。顔色も悪かったし、休ませたほうが良いと思って」
「ううん。何もないよ」
「ならよかった」
榊はどこか本気で安堵したように肩を竦めて、椅子から立ち上がった。雪本はつい笑いそうになった。その極力音を立てまいとする見慣れた動作は、こうして見ると、彼の祖父である一信に倣ってのことなのだ。それが何だかやたらとおかしくて、雪本は笑いを枕に隠さなければならなかった。
榊は、紙袋をサイドテーブルに置いた。
「なにそれ」
枕に半分埋もれたまま尋ねる。変に体の力が抜けていた。榊は榊で咎める気配もなく答える。
「着替え。一信さんがお金を預けてくださったから、午前に買ってきた。昨日着ていたものも洗濯して、入れてはあるけど、どっちの方が気分がいいかわからなかったから」
「うそ、ありがとう。見ていい?」
榊は手際よく、紙袋からいくつかの衣類をベッドの端に出していった。
もののよさそうなジーンズが一本と、柄の無いTシャツが二枚。Tシャツの方は、それぞれ色が異なっていて、青系統のものと、明るい灰色のものだった。
「いいの、二枚も」
「色の好みも多少あるかと思って。要らない方は俺が貰っとくのでも構わないし」
「いいね、遊ぶ時とかオソロにならないようにしないと」
「じゃあ悪いけど二枚とも受け取ってもらう」
「わかったって、選ぶから」
雪本はやっと体を起こした。時期的に秋物だからか、半そでと長袖の中間くらいの袖で、着丈もやや長い。襟周りの縫製もしっかりしている。裏地側に手を入れてみると、軽くて柔らかい生地の割に、手の色が透けることもない。
「すっげえ使いやすそう」
「ならいいけど。あまり店を多く知ってるわけじゃないし……」
「いいと思う。地味に半袖じゃないのもありがたいし」
雪本がつい、そう言うと、榊はかすかに睫毛を震わせて
「どうせこれから寒くなるし」
と言った。雪本は何食わぬ顔でうなずく。
「いやあ。俺、半袖あんまり似合わなくて」
「暑いだろ」
「お前がそれ言う?」
「確かに」
黒い十分丈のTシャツを着た榊が静かに笑った。偶然か否か、左腕の袖口をそっと押さえていた。
雪本はまず、この場において最も鮮やかな色を手に取った。榊が今朝選んで来てくれたTシャツのうちの一枚、明るい、グレーがかったブルーで、どことなくグリーンも交じったような柔らかい色だった。手にとってまじまじと眺めると、光の角度や、あてがう先の色味に合わせて、暗くも明るくも見える。一目見ても気に入っていたが、見直せば見直すほど、つくづく綺麗だった。
「この色いい」
「そう、色をいくつか用意しようと思いはしたけど……」
榊は少し自信なさげに首をひねった。
「好みじゃないなら意味がないし、でも雪本は……いや……申し訳ないけど、白か黒かその間かみたいなものしか着ている印象が無くて」
「悪かったな」
「白か黒以外で見たことのある色が、それくらいしか」
「え?……ああ!」
雪本はやっと腑に落ちた。落ちた分、病室だというのに、つい声のトーンを上げてしまった。
「着てたね、花火大会で。あのカーディガンか」
言われてみれば、確かに、これと似た色をしたロングカーディガンを着て、花火大会の集合場所に向かった。川上に選んでもらったものだ。二人と暮らした家に置いてきてしまっていて、再び着られるかは分からない。
「榊、よく覚えてるね」
「珍しく色鮮やかだと思ったから」
「そりゃそうだ、俺だって一人でだったらあの色買ったかわかんないもん」
雪本は妙におかしくてならなかった。
「そうかお前、俺が白黒以外のもの着てるの、あれしか見てないんだ、なるほどね」
榊は慎重に頷いて、
「少なくとも、夏休みはあの日しか会ってないし」
と言った。雪本も大きい仕草でうなずく。
「なるほど。はー、そっかそっか、やたら良い色だと思ったけど、俺よっぽどこの色気に入ってんだな」
雪本はようやく笑いが収まってきて、変に熱くなった体を手であおいだ。
「あー、ごめん。ちょっと面白かった。うるさくしちゃった」
「次やったら叩き出す」
「ごめんって。やんないから」
「今もう煩い」
「はい」
雪本は二枚のTシャツを並べて手にした。
「さー、どっちにしよっかな」
もう一つの色は灰色だった。爽やかな淡い灰色だ。
沙苗がよこしてくれる服にある灰色とはまた系統が異なっていて、これはこれでもらう甲斐がある。どちらの色も雪本の手持ちのものと相性はいい。
「ああ、悪い」
榊が不意にそう言って、ブルーの方を取り上げた。
「糸のほつれがあった」
「え?」
「こっちでもらっておく」
「榊」
「もう一つの方は?着られそうなのか」
「うん、だから悩んでたけど」
「そう。じゃあ悪いけど、そっちを」
「いや絶対ほつれてないって」
咄嗟に榊の腕を強く掴んだ。よりによって左腕だった。榊はほとんど動じなかったが、掴まれた一瞬だけ酷く強張った。
雪本もすぐに手を離しながら、なおかつ焦りでつっかえながら、なんとか訴えた。
「ごめん。でも、さっきちゃんと見たよ、ほつれてないから平気だって」
榊は一瞬だけブルーの布地に視線を落とすと、すぐにおだやかに笑った。
「本当だ。なにかと見間違えてた」
「やっぱり」
雪本も笑って返す。自分が笑う時には目を合わせてこなかった榊が、雪本が笑った時には視線を上げていた。雪本の笑みを確かめてそれに自分も合わせている。雪本が榊のそうした変化を見て取った瞬間、榊は流れる様に窓を眺めて、顔ごと雪本の視界からそらした。
「……あのさ、どっちも気に入っちゃったんだけど、せっかくだから両方もらっていい?」
「そっちがそれでいいなら」
「やった」
雪本が目を覚ましてからこっち、榊はほとんど動揺を示さない。それでいて冷淡ではなく、ちょうど雪本との会話を通して一定の温度を保つ。それでも昨日、彼がうっかりつけてしまった痣は事実として残り、今もまだ温い。
可能性がゼロでないなら、知理はそれを無視できないんだ。
一信はそう言っていた。
青いカーディガンを誰と買ったのか、そんなことは榊が知る由もないけれど、一人でだったらこの色を買わなかったかもしれない、と自分が口走った時点で、榊は可能性をいくつも考慮し始めてしまう。『この色が雪本にとって大切な人間との時間を想起させるものである』ことも『その人間と今会える状態ではない』ことも含め、無数に思いついてしまう。
いっそ、話せる範囲では隠さず、正直に示した方が良いかもしれなかった。
「実はさ、今日、傷が急に痛くなり初めて」
「いつから?」
「今日の八時ちょい過ぎくらいかな」
「……逆に、それまで痛みは?」
「なかったんだ。変な話なんだけど」
榊はやや目を揺るがせながら、軽く首をかしげて雪本の包帯を覗き込んだ。
「傷が開いているような跡はない。多分退院は問題ないと思うけど……」
「今まで痛くなかった方が、問題?」
肩をすくめると、榊も不器用に頷いた。
「こういうのもなんだけど、そもそも、痛くて当然の怪我だったし」
「そっか。……あれかな、混乱してたのかな、ぶっちゃけ」
「それは十分あり得ると思う」
「やっぱりそうだよね。今もちょっと、変な感じ」
「一信さんから、他の病院を紹介されたって」
「うん。念のためって。今のところ、特に行く予定はないんだけど、今度場所くらい確認してみる」
「それがいいと思う」
「うん。……あのさ、榊ってこの後、時間ある?」
「この後?」
「俺寝ちゃってたからあれなんだけど、本当は、お前と話したいなって思ってて」
「今聞けるけど」
「今ここででもいいっちゃ良いんだけど、なにかこれを話したいってのが決まってる訳でもなくてさ」
「……それは……」
榊は珍しく、要領を得ないような顔で首を傾げた
「要は、人と話したい気分ってことか。だったら東井にも連絡できるけど」
「ううん。二人じゃないと話せない話とかもあるし。東井とは結構夏休み中話せたからさ。出来れば時間気にせずダラっと話せたらなって感じなんだ」
「ああ、そういう」
「そう。お前の話もまだ聞けてないし」
「なにが?」
「なにが、は無いでしょ。花火大会の時に話しかけてたこととか」
「……」
「近いうちに話すって言ってた」
「今日はいい」
「うん、俺も今日話せとは言わない。今日聞けるよってだけ。俺も重たい話しちゃうだろうし。俺ん家でも、どっか行くんでもいいから。どうかな?」
榊は少しの間考える素振りを見せた。何を案じているかは、表情からは読み取れないが、頷く頃には迷いはなかった。
「わかった。連絡しておく。一旦外すから、その間に着替えなりなんなり済ませておくと楽だと思う」
「了解」
「包帯を巻き直したがってたから、多分退院前に一回、一信さんが様子を見に来る。それで退院が出来そうか最終確認をしてもらって、大丈夫なようなら、一階におりてきてくれ。ロビーにいるようにするから」
「OK。ありがとう」
榊は紙袋を丸ごと雪本に預け、病室を後にした。
紙袋の中には、また別に袋があって、そこには昨日雪本が着ていた黒いジーンズとTシャツとインナーが綺麗に畳まれて入っていた。紙袋にはさらにもうひとつ小さい包みがある。何かと思って開けると、新しい下着だった。個包装タイプで一旦洗う必要のないものだ。それでも抵抗があったらということで、昨日履いていた分を洗って入れて置いてくれたらしい。この細々した気遣いが医者向きなのか医者向きでないのか、しかし少なくとも雪本にはありがたかった。
せっかくなのでと新品の方にした。ジーンズはジャストサイズからやや長めだ。
着てみると、Tシャツは襟ぐりがやや広く、着る時に首の包帯に触れないのがありがたかった。袖はどちらかといえばボックスシルエットに近いが、全体的に幅がやや広く、腫れている腕でも通しやすい。八分か七分の長さの袖に対し、裾は十分よりやや長く、どう動いても腹が見えることはなさそうだった。
色は灰色の方にした。




