第六十九話 覗き込む
翌、九月一日。気が付くと朝だった。いつ眠ったのか定かでない。一度目を閉じて、開けたら朝になっていたと言いうように、本当に眠ったのか疑わしいくらい、あっさりと朝になっていた。空は磨かれたように深い青で、太陽が狭い病室いっぱいにクリアな陰影を描く。
「雪本さん、早いですね」
品原は扉を開けてすぐ、溌剌と笑った。
「よく眠れましたか」
「はい。とっても」
雪本がそう返事するのに頷きながら、歩みを止めずに、窓を開ける。運ばれてきた朝食の香りが、朝の風に少しだけさらわれて、病室にある分は半分になった。出来立ての食材から立つ湯気はそれでも途切れず、また穏やかな風がそれをゆっくりかき回す。鳥の声が聞こえた。
品原はその風を存分に味わうように目を細めながら尋ねた。
「いいお天気ですね、眩しくないですか?」
「大丈夫です」
「カーテンだけでも閉めましょうか?紫外線は避けたほうがいいって伺いましたが―」
雪本は曖昧な笑みが口に浮かぶのを、隠すようにして首を横に振った。
「これくらいなら」
本当は、少し日差しが強すぎると思っていた。しかし無性に、その明るい光に耐えてみたくなった。
品原は食事を雪本の傍らに寄せると、失礼します、と、雪本の右腕をとり、貼り付けていた湿布を剥がしながら笑った。
「まだまだ熱いですね」
「はい。腫れは少し引いたんですけど……」
昨晩、一信は、雪本の右腕の痣に湿布を貼っていった。貼ってから眠るまでは冷たく感じていたが、今は温くなっていた。そこに新しい湿布を当てながら、品原はいじわるに笑って言った。
「昨日は、院長先生ともお話しなさったんですね」
「え?」
「財布が……あれは、院長先生のでしょう?いつも自慢してるからわかるんです」
「ああ、はい」
「おしゃべりな人ですから、お疲れになったんじゃないですか」
「楽しかったですよ。俺は孫の事しか知らないから、ちょっとびっくりしたけど」
「あはは。今日は大丈夫です。あの人たちもそんなにはウロチョロしないと思うので。……ああ、ただ、お昼の十一時過ぎ頃には『お孫さん』がお見舞いに来るみたいですよ」
「わかりました」
雪本が頷くと、品原はまた手際よく出て行った。
病室にかけてある時計を眺める。朝の七時。沙苗の仕事が始まる八時半までに連絡をつけた方が良いだろう。朝食のプレートに手を合わせ、ポトフに口をつける。昨日よりも一口で食べられる量が心なし増えた気がした。
ちょうどその一時間後、沙苗と電話がつながった。
『はい、雪本ですが』
「はい、雪本直哉です」
『あれ、直ちゃん』
沙苗の声が不思議そうに裏返る。
『どうしたの?携帯電話に連絡したけど……携帯、見てる?』
「ごめんなさい、ちょっと、見れてなくて」
『ああ、そうだったの。じゃあ今言わないと。私ね、今、九州にいるのよ』
「あ……」
雪本はつい言葉を呑んだ。
「そうだったんですか、てっきり、東京かと」
『私もそのつもりだったけど、急に呼ばれちゃって。……あれ?でも今日、始業式なんじゃないの?』
「あ、はい、本当はそうだったんですけど……今、実は榊の病院にいて」
『病院?入院してるの?』
朝の八時台であることからか、沙苗は素早く状況を言い当てた。
「そうです。昨日からなんですけど」
『どうしたの』
「倒れちゃって」
『わかった。すぐ戻るね。急げば今日の夜には』
「大丈夫」
咄嗟に一言、そう言った。
「大丈夫です、もう、今日退院だから」
『でも』
「だって、まだ仕事はあるでしょう?」
予想通り、そこで沙苗は沈黙した。
「処置もしてもらったし、十分休ませてもらったし、俺は本当に大丈夫。沙苗さんの方こそ働きづめで疲れてるのに、九州からここまで往復させられないです。心配かけてごめんなさい」
『直ちゃん』
「今、電話かけたのは、昨日連絡できなかったからって言うのと……あと俺、写真のモデルやろうと思って」
『佐原さんの?』
「そう、どっちかって言うと、それを言いたくて」
口から出まかせとまでは言えなくても、思い付きの発言ではあった。しかし実際、写真のモデルはやれたら嬉しいと思っていた。佐原が来るのは今年の冬だ。真菜と川上に意見を聞きたいと思っていた。しかし雪本には、今年の冬までに真菜と川上とこの話ができる未来が浮かんでこなかった。最悪、土壇場で断ってもいい。
すると沙苗は、口ごもった。
『それなんだけど、直ちゃん。佐原さんが来てくれる日取りは決まったんだ。今年の十二月二十日から、一週間。でもね、私がその日に合わせられるか、直前までわからなくなっちゃって。もともと希望していた仕事が、今更空きが出ちゃって……そこだと休みがなかなか……でも、交渉次第ではその辺で休みが取れた人もいるっていうから、ぎりぎりまで粘ってみるね』
「そんな、無理しないで」
『無理だなんて、違うよ、私たちが言い出したことなんだし。休みの交渉なんて、日常茶飯事だもの』
「でも沙苗さん、仮に休み取れても、その状況じゃバタバタしちゃうだろうし、それこそ倒れたりしたら大変だよ。大丈夫、俺から、父さんには言っておくから」
『…………じゃあ、一週間前までに休みが決まらなかったら、私はご遠慮するね』
流石に沙苗は、現実的に無茶なことを約束しようとはしなかった。
『でも、佐原さんは絶対に来られるから。絶対一緒にいてあげてね』
「はい。俺も楽しみだし、いっぱい良い写真撮ってもらう。沙苗さんも、俺に着てほしいものとかあったら何でも言って下さい」
『そうね』
沙苗は珍しく言葉少なに笑った。雪本はつとめて何気なく、
「もう、お仕事の時間じゃない?」
と言った。うん、と沙苗は答えたが、そのまま切るに切られないようだった。
「ありがとう、俺、電話できてよかった。声きけただけで安心したし―」
沙苗が電話を切ることができない理由を、雪本は承知していた。
沙苗が日本に帰国するのは、年に二回あればいい方だ。そのうちの一回である今、入院しているという雪本の側に、沙苗はいない。そして冬の再会も果たせない。家族としてのつながりを、もっとも感じられるはずのタイミングが逃げた。沙苗から見れば自分の仕事のせいでそうなったとしか思えないだろう。
雪本は、断じて沙苗のせいではないと思っていた。沙苗と佐原が激務に戻るきっかけを作ったのは、中学生の頃の雪本自身だ。二人とも好きなだけ働いてほしいなんてことを、本気で言ってしまったからだ。離婚を止めなかったのも、見舞に来てほしいと言わなかったのも、冬にどうしても会いたいと言わなかったのも雪本が決めたことだった。
嘘でも、一度だけでも駄々をこねていれば、仮にそれが叶わなくとも、沙苗はここまで心細くはならなかったのだろう。だからと言って、細く弱ってしまった感性に、いまさら重石を乗せたところで、何にもならない。本当にいまさらなのだ。
『ごめん、そろそろ時間ね、切らないと』
沙苗は本当に申し訳なさそうに、しかし、とうとうそうつぶやいた。
「沙苗さん、」
雪本は、突然、その自分の声が気持ち悪くなり、咄嗟に言いなおした。
「母さん」
『え?』
沙苗の声が少し大きくなった。驚きで弱さが飛んでしまったようだった。雪本に考える暇はなかった。
「母さん。無理だけはしないで」
『……うん……』
「俺も、出来るだけ予定空けれるようにしておくから、またすぐ父さんと、三人で会おう」
『うん』
電話越しでもわかるような、笑顔を伴う声だった。そのまますぐに電話は切れた。
母さん。
その場でつぶやいた。自分の母。お母さん。自分と離れて、海外で働いている、忙しい母親。肉親。間違いはない。しかしそれが、つい二日前、自分に直哉という名前の由来を語ってくれた人間と、同一人物であるように思えない。何が違うと言い切れもしない。
沙苗はしかし、喜んでいた。家族のつながりを薄く感じたところに、「母さん」なんて家族らしい振る舞いをしたのだから当たり前だ。
沙苗は今、何を思って仕事に向かっているのだろう。雪本からの連絡を、「息子からの連絡」として、胸に宿しているのだろうか。「直哉からの連絡」より、「息子からの連絡」の方が、より沙苗の胸中を満たして弾ませているとしたら。
少なくとも、こちらの感想とは正反対だということになる。
つかみどころのない思考が、あっという間に一周、二周と絡まりはじめる。振り払うように頭を振ると、つかみどころがないだけあって、あっという間に消えてしまった。そのまま二、三歩前に進んだところで、突然、不意に走った激痛に立ちすくむ。思考の消えた隙間を満たすかのような急激な痛みだった。
激しかったのは一瞬だけで、すぐにある程度弱まるが、二度と忘れさせないとでも言うように、無視はできない程の強さで、脈に合わせて訴えてくる。
同時に、昨日の昼過ぎ、怪我をしたその時の記憶を取り戻す。
嘘のようにあっけなく、一瞬のうちに鮮やかだった。
「雪本さん」
病院のロビーから見えていたのか、品原が慌てて駆けだしてきた。
「雪本さん、大丈夫ですか、傷が開いたんじゃないですか」
「大丈夫です。ちょっと立ち眩みしちゃって」
迷わずに嘘をついた。
自分は、どうしてこんなところで、どうしてあんなに穏やかに、沙苗に電話をかけることができていたんだろう。どうしてあんなに正面から、品原の気遣いを受け取れていたんだろう。
「病室まで付き添いましょうか」
「大丈夫です、ごめんなさい」
敢えて元気よく手を振ると、首の傷は正確に痛みを訴えた。それでも足早にロビーを横切り、病室への道を急ぐ。品原にも誰にも何も気付かれたくないと思った。扉を開き、ベッドに無理やり倒れ込んで、布団の中で息をひそめる。─そうだ、確かに、散髪用のハサミを逆手に持ち替えた。刃を握ったのか、持ち手を逆に握ったのか、どっちだっただろう。指を動かすうち首の痛みが強くなり、逃げるように目をつぶる。
死ぬために自分の首を刺したことを思い出した。




