第六十八話 見舞い客 三人目
運ばれてきた夕食は暖かく、優しい味わいで美味しかった。内臓に異常があるわけではないからか、病院食とはいえ通常の夕飯とほとんど変わらない。
雪本はもう一度、今が本当に現実なのか、それとも今の方が夢であるのか、これまでの記憶を総ざらいして考えようと試みて、すぐにとりやめた。
夢だからいまいち真剣に考えが回らないのだと思った。夢かもしれないと思っているから泉美や東井からの厚意をうまく消化できないのだと、先ほどまではそう考えていた。しかしよくよく考えれば、どちらが夢か、現実かは大した問題ではなかった。夢ならいつか覚めるだろう。覚めなかったとして、それは現実と区別のつかない何かであって、それはそれで問題にならない。
結局、今この瞬間自分が何を思っているか、それだけが肝心であるはずだった。重要なことは何も変わらない。真菜のところに帰りたい。川上のところに帰りたい。退院をしたらすぐにでも。
「失礼」
ノックと同時に、落ち着いた静かな声がして、雪本は目を開けた。いつの間に閉じていたのか覚えていないが、しかし今度は眠ってはいなかった。
「はい」
「入ってもいいかな?」
「はい、どうぞ」
扉が開いた。ほとんど音が立たなかった。背筋の気持ちよく伸びた長身の男性が、白衣を軽く揺らしながら部屋に足を踏み入れる。
白衣の下はダークグリーンの病院着で、患者が着るそれとは少し違っている。筋張った首回りや鎖骨や肩のあたりの褐色の肌はつやがあり、やや癖のある髪の毛は一本残らず芯から黒い。
彼が誰であるのか、雪本は既に察しをつけていたが、予想されうる年齢から考えると、信じられないほど若く見える。乾燥気味の手の皺と指先の荒れだけが、唯一、年齢相応と言える気配があった。
彼はその指先を雪本に向けた。
「えっと。直哉くん?」
声は深いが、口ぶりが乾いていた。
「雪本直哉くん、だっけ?」
「はい」
「あー良かった。ごめんね、うろ覚えで」
「いえ、俺は気にしないです」
「そうか、ありがとう」
男性は大きなタヌキ目をしなやかに細めながら、ベッドのフレームに軽く手を置いて笑った。
「どうも。榊一信です。知理のおじいちゃんをやっています」
「こちらこそ、今回はお世話になりました」
「いやあ、お構いできませんで」
一信は快活な笑い声をあげた。
「まあ治療中なんだからちょっとはそっとしといたほうが良いんだけど、それにしたって今の今まで顔を出せたのは知義くらいなもんだろう?本当は新島さんがいたらもっとよかったんだけど、美祈は美祈で出張中であと三日は戻らなくって……まあ、美祈がいないのは、むしろ良かったのかな、いたらいたで今頃どうせ大騒ぎだ」
滑舌に関して言えば、声質の関係もあって孫や知義と比べると明瞭さに欠けたが、一音一音柔らかく耳触りがよく、聞き取りづらいということはない。早口でもないのに、いつの間にか聞き終えて、すべて頭に入っているような不思議な話し方だった。
「知義と話した?」
「はい。あの人は、お医者さんじゃないんですよね?」
「うん。美祈は医者だけど、知義は違う。実は、『これ』っていう役職についてないんだ。看護師の勤務の調整だとか、待ってるお客のさばきだとか、病院の建物の点検だとか……あと、全部じゃないけど、資産の運用もやってもらってるね」
「すごい」
「実際助かる。あいつがいることでスムーズになることがたくさんあるし。それでいて連絡も報告も律儀にしてくれる。なかなか使える人間だよ。本人には言わないけどね」
「ええ、どうして」
「決まってるだろ」
一信は楽し気に目を瞠った。
「十七、八の一人娘をあっという間にとってかれた。それもあんな、とびきり可愛い素直な子をだよ。……これ以上いい思いなんて、絶対にさせてやるもんか」
雪本が思わず笑うと、一信はまた目を細めて別の話題を切り出そうとした。しかし何かに気が付いたのか、素早く窓辺へ歩み寄る。脱力している割にとにかく物音が立たない。一貫して優雅だった。
「雪本君、ちょっと、歩ける?」
「はい、多分」
一信が手招くのに従って、窓辺まで歩み寄る。外はもう真っ暗で、明るい病室の景色が鏡のように映っていた。一信は病院の裏手にある茂みの方を指さした。
「あそこが、私たちの家なんだけど」
「はい」
「車が出るのが見えるかな?」
一信の言葉通り、まさに今、その茂みからライトを灯した黒い車がゆっくりと顔を出し、道を曲がって消えていった。
「新島さんの車だ」
「そう、よくわかるね」
「前に乗せていただいて、なんとなく、そうかなって」
「ああ、なるほど。その時に美祈とも会ったんだっけ。……今のはね、新島さんが泉美さんをご自宅まで送っていく、の図だよ」
「えっ」
「じいちゃんは見た」
一信は両目の周りに指で眼鏡のような丸を作った。
「なんで泉美さんが……こんな時間に」
「彼女、ここに来たろ?」
「はい、五時ごろ」
「そもそも三時ちょっと前には来てたんだ」
「……来てた?」
「うちに、知理の様子を見に」
やんわりと一信に背を押されながら、雪本は窓を離れた。それでも頭の働き同様、足先まで衝撃の余波を受けおぼつかなかった。
「本人も、泉美さんなら部屋に入っていいっていうから……ざっともう、五時間だ」
時計を確認して、一信はカラカラ笑った。
「いや、こうなっちゃうと本当に、美祈が留守でよかった」
「……大丈夫ですか」
「安心して。新島さんを廊下に常に設置してたから」
「そうじゃなくて」
一信は依然として笑っていた。二重の黒目がちなぷっくりとした目が、押し上げられるようにして笑みを描いている。
雪本は再びベッドに腰かけて尋ねた。
「俺を、治療してくださったんですよね」
「うん」
「この病院まで、運んで」
「うん。知理から連絡を受けてね」
「……あいつは、大丈夫でしたか」
「全然ダメだったよ」
一信はすぐに答えた。
「うちに帰ってきてから、ずっと部屋にこもってる」
「ごめんなさい」
「悪くないことで謝るんじゃない。そういう癖がつくと後々面倒な男になるよ」
「でも、大したけがじゃないのに申し訳なくて」
「『大したけがじゃない』だって?」
微笑んだままの一信の声が、神経質に震えた。
「どんな基準で判断した?」
雪本は黙り込んだ。言葉の力に押されたというより、容姿も声も似ていない一信から孫の面影を感じ、声ごと呑み込まれたのだ。
「まあ、確かに。いっちばん大事な動脈は、切れてなかったからね。切れていたのは首の表面の血管の方。ただ、それだってかすり傷とは言えない深さだ。―あと君、お風呂か何か入ってただろ」
「はい」
「血行が良くなってたから、ドバっと派手に血が出た。おまけに寝不足で食事もほとんどとってなかったろう。長いこと眠っちゃってたのは、それが理由」
一信はそこでようやく椅子に腰かけた。
「普通に、危ないよ。今日はよく食べた?」
「はい。おいしかったです」
「そりゃ何より。じゃああとは、よく眠るように」
「はい」
雪本は咀嚼するようにうなずきながら、ずっと考えていたことを口にした。
「あいつは、俺が自分で死のうとしたと思ってるんですか」
「あの状況だけ見たら、誰だってそう思うさ」
「……そうなんですか」
「でも、違うんだって?」
「はい」
「……あのさ、腕、痛くないかな」
「腕? 首じゃなくて?」
「腕」
一信は自身の左腕を掴んで、その後右腕に持ち替えた。
「えっと、右かな。……うん、そうだ。右だ」
雪本は言われたとおり、自分の右の腕を見た。紫色の痣ができていた。
「え、気づかなかった」
「どうも、止血だなんだしてる時、知理が掴んじゃってたみたいで。無意識のうちに力を入れすぎたらしい」
痣に触れると、そこだけ内側からカイロでも仕込まれたように不自然な温もりがあって、雪本はくすぐられたように笑ってしまった。
「うわ、すごい」
「思ったより腫れてるな。手を離させるときに、痺れて指が取れなくなってたくらいだったから。後で保冷剤を持ってくるね」
「はい」
なんだか嘘のように力が抜けて笑いが止まらない雪本に、一信は心得たような微笑を向けて尋ねた。
「さて、どうしようね」
「はい?」
「一応、怪我の状況としては、明日退院もできるんだけど。でもどうせ一人暮らしなら、完全に傷が塞がるまでうちで面倒を見ることもできる。いくつか空き部屋もあったし。うちじゃなくても、病室もまだまだ余裕はある。もちろん、ご自宅に戻ってもらっても、連絡さえもらったらすぐ駆けつけるようにしておくよ」
雪本は右手についた痣の持つ熱で、左の指を温めながら答えた。
「明日退院します。それで、自分の部屋に行きます」
「そう。お大事に。……ああ、そうだ。君を運びだした時、扉を開けっ放しにってわけにもいかなかったから、一旦鍵を預かってるよ。明日になったら返す。本当は、携帯電話とかも持ってきて上げられたらよかったんだけど……もしどうしても連絡したい方がいたら病院の電話を使うといい。はい、これ、あそこの机の上に置いとくからね」
「そんな」
「三百円とかしか入ってないから。大丈夫」
そう言いながら、一信は机の上にがま口の小さな財布を置いた。小銭が控えめな音を立てる。
「この財布、美祈にプレゼントしてもらった奴だから、今年中に絶対返して」
雪本が無遠慮に声を上げて笑うと、一信は大層心外だという風に目を見開く。
「何笑ってるの、冗談じゃないよ」
「はい……いや、すみません」
「絶対返してくれなきゃ嫌だよ。約束だからね。君は約束を守れる子だよね」
「返します」
「万が一にもこの財布が無くなったら私は医者をやめる」
「わかりましたから」
ひとしきり笑うと触れている痣もまた熱くなったような気がした。かすかに自分の脈拍による振動を感じる。しばらくそうしているうちに、今ここにある風景こそが現実なのだと腑に落ちていた。
「痛くない?」
「大丈夫です」
「後から痛くなるかもしれないからね」
「はい、気を付けます」
暢気に痣を撫でる雪本の傍らで、一信は真摯な調子でつぶやく。
「こんなことじゃ困るんだけどな。医者志望が聞いて呆れる」
「でも、血を止めてくれたのはあいつなんですよね」
「それはちゃんとできていたけど。却って怪我をさせたら駄目だ。患者がまずい状況の時ほど、医者は冷静にならないといけない」
「でも」
「部屋にこもるのはいい。誰かにそばにいてもらったって全然構わないと思う。情けないなんて思わない。なんてったって、うんと可愛い知理の事だ。でもこれについては甘やかすもんじゃない。繰り返すようなら医者なんかやめといたほうがいい。悪かったね、雪本君」
雪本は、試しに痣に爪を立てた。熱い。熱いが、不思議なほど痛みはない。
「お医者さんの事は、わからないけど。俺はなんにも嫌じゃないです。後からどんなに痛くなっても、全然」
「そう?」
「あいつには、何度も助けてもらってる。今回だけじゃなくて、それこそ散々苦労を掛けてる。何も返せてないし、申し訳ないけど、返せる気もしないんです。だったらせめてこれくらいは……、他の誰が怒っても、俺が大目に見たい」
「……雪本君は知理の事、わかっているね」
「……」
言葉にも、声にも詰まり、ただ口許で笑ったようにするほかなかった。逆に一信はなにをわかっていないというのか。
沈黙する雪本の視界の外で、一信がポンと手を叩いた。
「そうだ、ごめんごめん。気づいていると思うけど、服を着替えてもらったから」
「あ、はい、ありがとうございます」
「血がどうしてもね、結構しっかりついちゃってて。そのままは色々よろしくないから。一応洗濯しちゃってるけどまずかった?」
「いや、全然。あいつの方こそ、制服は大丈夫そうでした?」
「ダメでした」
一信は大きく腕で×を作ってけらけら笑った。
「まあどうせ、背伸びてきてたし、買い替えちゃうよ。Yシャツとスラックスなんて百枚あってもばち当たらないんだから。新調ついでに、知理は一日二日休ませることにする。雪本君もゆっくりゆっくり休んだらいい」
雪本は時計を一瞥した。もう午後八時半ごろだった。
「榊は、今はどうしてますか」
「泉美さんのおかげで、最初に比べたらかなり落ち着いたみたいだよ。君の容態を気にしてるってさ」
「来たらいいのに」
「来ていいのかどうか、わからないんだよ」
「そっか。……そうだ。俺も俺で、榊に来てもらって、榊に迷惑かけないか、心配です」
「雪本君、どうしたい? 知理と話をしたい?」
「あいつさえよければ、明日、退院する直前にでも、ちらっと様子見たいし……向こうにも、こっちの様子を見てほしい」
「もう心配いらないぞって?」
「はい。本人が嫌がったら無理にとは言いません。本当にちょっとの時間でもいいんです」
「わかった。伝えておく」
一信は頷いた。そして、少しばつが悪そうに、一回だけ雪本の肩を叩く。
「雪本君は生真面目だね」
「そうでしょうか」
「ゼロか百かで生きているだろう」
「ああ……」
「知理もそうなんだよ。だからわかるっていうか、なんだかね。……あの子は最近、学校じゃ自分の事を『私』って言わないらしいね」
「たまには言いますよ」
「けど中学卒業まではね、どこだろうがいつだろうが、ずーっと『私』だったんだよ。どんなにからかわれても」
一信は視線を伏せた。その不器用な伏せ方が、皮肉なほど孫に似ていた。
「あの子は何事も百まで理解しているし、理解しようとする。その場その場で『五十』くらいに留めることもあるけど、それが『五十』でしかないことを決して忘れない。忘れられないんだ。『二十』や『三十』程度の言い分で、あの子の『百』をひっくり返すことはできない。そんなありがたい『百』の根拠に、私の存在を置いてくれた。優しい子だよ、本当に。あの子が仮に『私』って言わなくなってもそんなことは問題じゃない。小さいころからずっと、生真面目だし、優しいし、不憫なんだ」
雪本は、表情を変えないようにするのに苦労した。一信が孫を語る言葉には、端から端まで共感したが、それが快とも不快ともつかない。一信はそんな雪本を知ってか知らずか、わざとらしく頬杖をついた。
「知理ほど過激じゃないけど、雪本君も大体そんな風に見える」
「俺がですか」
「だって雪本君、明日あの子とあったら、『百』パーセント全快しましたっていう顔をするだろ」
「だって、実際痛くないし、心配するじゃないですか、向こうも」
「気持ちはわからなくないんだけどね。でも知理はきっと、君のそういう言葉を心のどこかで疑い続ける。君の言葉や態度のうち、ちょっとでも疑えるところがあったら、全部の可能性を『百』ずつ吟味していく」
「それは」
雪本はかすれる声を振り絞った。
「俺が自分で死のうとしたとか、そういう疑いも含めてってことですよね」
「勿論。君を疑いたいわけじゃなくても、九十パーセントまで信用していたとしても、可能性がゼロでないなら、知理はそれを無視できないんだ。……だからね、雪本君。ここから先は本当に私のわがままなんだけど、明日、知理と話すときに、多少はダメージが残っている風にしてもらえないかな」
「残っている『風』ですか」
「知理はね、当たり前のことだけど、君に全快でいてほしいんだよ。君が完璧に元気な素振りをしてたら、安心するし、嬉しいし、それを信じたくもなるだろう。それでも結局、あの子は疑うんだよ」
「そっか」
雪本は頷いた。
「それ自体がもう」
「そういうこと。だからね、ちょっと大げさなくらい具合悪そうにしておいてくれよ。ちょっと痛いなとか、ちょっと疲れたっていうだけの事を、いちいち言って、しこたま心配かけてやるくらいのつもりでいいから」
「わかりました」
「悪いね。あと、申し訳ないけど、一応これも受け取っておいてほしい」
一信は白衣のポケットから、名刺を数枚取り出した。
「いや、多分、いらないだろうってことは百も承知なんだけどね。ただうちは、首の外傷についてはいくらでも面倒見られるんだけど、精神科のノウハウは無いんだよ。さっきも言ったように、知理は結局、君が死のうとしたとかなんとか思ってるかもしれないじゃないか」
一信はおどけた仕草で、共犯めいた笑みを浮かべた。
「君がこの名刺を『念のため』もらっているっていうだけで、多少は安心できるはずだからさ。心配性のおじーちゃんが無理やり持たせてきたって、あの子に言って構わないから」
雪本は名刺を受け取った。どれも精神科を含む病院の物で、全ての所在地がここから十分以内で到着できるものだった。一信は、よろしくね、と頭を下げる。 そこで初めて、椅子がきしむ音が立った。




