第六十七話 見舞い客 二人目 (後編)
雪本は質問を重ねた。
「文化祭の準備、うまくいきそう?」
「ああ、うん。今日行っておいてよかった。何人か暇な人が集まって、ちょっとずつ進めてくれてたみたいでさ」
「え、嘘」
「大丈夫。ほんと、暇な奴が思い出した時に集まってただけだし。もともとの予定的にも二学期から準備開始で全然間に合うから。単純に、文化祭が楽しみだから、なんとなくやれること進めてるって感じだった」
「そう?」
「てか、お前、もうクイズは作ってくれたじゃん。ちゃんと見やすいように送ってくれたし。もう仕事終わってるだろ」
「ああ。まあ、そうだけど」
「そう、そうだよ」
東井は雪本の手を遠慮なく叩いた。
「そうだそうだ、クイズ、凄い良かった」
「本当?」
「良かったよ。今日手伝いに来てたメンツに見せてみたんだけどさ、みんな凄いって言ってた。面白いって。もともと決まってた分より多めに作ってくれたじゃん、だからそれも助かるねって」
丸い目を瞬かせながら、東井の手は時々力んだ。誇らしげな声だった。
「お前、凄いね。よくあれだけ作ったよ」
「うん。楽しくて」
「やる気じゃん」
東井は雪本に栄養を与えようとしていた。首の傷を治すためでも何でもなく、ただ、一年前の文化祭の分までかけがえのない時間を取り戻させようとしているのだ。それも雪本が自分で蒔いた種から、勝手に実っていた物を、わざわざ届けてくれたようなもので、だからこそ暖かかった。
「そう。頑張った」
雪本は東井に報いたくて、あるだけの嬉しさを笑顔に込めた。
「本当は、接客も手伝っちゃおうかなとか思ってたんだけど」
「いや、でも、クイズ担当じゃん」
「そうだけどさ、手伝いたいなって思って。作ってるうちに楽しみになって、当日も参加したいなって」
「お前さ、珍しく本当に体壊してんだから、いまくらい休みなよ」
「ああ、そっか」
「そっかじゃねーよ馬鹿」
「ごめん」
軽い忍び笑いを響かせあって、またその波が引くと、あるだけの嬉しさはあっけなく尽きてしまった。勢いで残った笑みだけが、みるみる軽くなりながら浮かんでいる。
「でも、本当、どうしようかな」
「だから、無理すんなって」
「怪我、すぐ治るかもしれないし。治ったらどうしようって。手伝おうかな」
「なんか気になってることでもあんの?」
雪本はうん、とうなずいて、
「二人、来るかもしれなくて」
東井が聞き返してくるのを待ち構えてでもいたかのように答えた。
「え?約束したの」
「うん。でもなんか今、簡単に言うと別れたみたいな状態でさ」
東井は何も返事をしなかった。ただ雪本を見ていた。雪本は自分が発した正確ではないその文章に、心の底から戦慄した。
「あ、違う、別れたっていうか」
一度家に戻っただけ。一度家を飛び出しただけ。今たまたま離れているだけ。少し喧嘩をしているだけ。
「えっと」
「距離、置いてるって感じ?」
東井は、表情を動かさないまま助け舟を出した。
「そう、そうそう。実際、もう一緒には住んでないから、本当に距離置いてるって感じ」
「うん」
「俺の方からこう、なんとなく出て来ちゃってて」
「ああ……だから、文化祭は来るかもしれないし、来ないかもしれないしって感じなのか」
「そう」
「そっか。確かにそれじゃ、ちょっとどうなるかわかんないよな」
東井のせっかくの頷きに、雪本は首をひねって笑った。
「……いや……」
別れた、と口に出してから、本当に別れたと言えるような気がして仕方がなくなってきた。
「……俺、文化祭は」
「別に、今ここで決めなくたっていいじゃん」
東井の静かな声が遮る。
そのくせ、雪本の手を握る指先は、すっかり固くなって震えていた。
「今は取り敢えず、怪我治す、だろ」
雪本は自分の首の包帯に触れた。やはり痛くなかった。しかし包帯があるからこそ、まずこの包帯を外せるようにならなければいけないと確信できた。いわば包帯に怪我を教えてもらっているようなものだった。
人も同じだ。誰かが庇うから自分の擦り減りに気が付く。庇われれば庇われるほど自分の痛みを知ってしまう。また庇われたくなる。庇われてまた痛いと思って、ますます庇われようとしてしまうだろう。
東井はそのあたりの塩梅を、知ってか知らずか、正確に見極めていた。
「わかった。治してから考える」
「うん。そうしな。首のケガとか、何があるかわからないし」
大げさだと笑おうとした。首のケガは、意外と軽く済むこともあるものだ。首を軽く絞められたり、少し噛まれたくらいでは、数日で傷は消えてしまう。首のケガが治るまでは、真菜や川上の事について考えなくていいのだとして……そういう猶予がまかり通るとして、それはあっという間に潰えてしまう猶予だった。
東井はその後も、文化祭の話や、バスケ部の練習であった話、家族の話など、なんという事のない話をして、十数分後に病室を後にした。やはり、東井にしては落ち着きすぎていて、らしくないと言えばらしくなかった。
それでも言葉の一つ一つ、しぐさの一つ一つ、表情の一つ一つに、命を削って研いだような決死の気遣いが見え隠れしているのが余りに東井らしくて、「まだ夢の続きかもしれない」なんて疑いを向けるのが、申し訳なくなるほどだった。




