第六十六話 見舞い客 二人目(前編)
泉美が病室を出て行った後、雪本は、暫くの間、空になった椅子を見つめていた。
泉美の気づかいは確かにありがたい。しかしつりあうようなものを自分が抱えていると思えなかった。泉美が的外れというのでなく、雪本自身が軽薄だという事でもなく、ただただ状況の全容がつかめない。どれだけ説明されてもどこかに違和感が残り続けるのだ。首が切れて怪我をしたという事実。それ以外のなにもかもが軒並みぼやけている。
そもそもその事実にさえ実感を持てない。ちっとも痛みを感じない。麻酔か何かがきいているのだろうか。
これで真菜や川上に、少なくとも今日会いに行くことはできなくなったことは確かだった。家を出てから二十四時間以上が経過している。これ以上遅くなると、連絡がつかなくなるかもしれない。
ずっと前の話ではあるけれど、石崎だってそうだった。こじれた時ほど、離れ離れになった時ほど、まず連絡をつけなければいけない。
体を起こして、ジーンズのポケットからスマートホンを取り出す。メッセージのアプリを開くと、想像をはるかに上回るような量で連絡が届いていた。沙苗からも、一時間前から連絡が来ていた。既に連絡を受けていて、今すぐに病院に向かうとあった。
そんな中、未だに新しいメッセージが届き続けているのが、一番上に表示されたグループトークだった。初めの投稿は、八月三十日の午後一時を回ったあたりで、雪本があの家を出て行った直後になっている。
『雪ちゃん、今どこにいますか。とにかく連絡を下さい』
真菜だった。まぎれもなく真菜のメッセージだった。その後、一分とおかずに川上からも連絡があった。
『嫌なら会わなくても構わないから、話だけでも聞かせて下さい』
そう言っておきながら、そのあとさほどの時間も置かずに
『もしよければ会ってください』
とメッセージが届いている。力が抜けた。やっと呼吸が帰ってきた気がした。
『雪ちゃん、見てますか』
新しくメッセージが届く。雪本が今読んだことを察知しての反応だった。
『どこにいますか』
『会うのは嫌ですか』
体に血が巡り、首がずきずきと痛んだ。顔も腹も心臓も全て熱い。指が震えて言うことを聞かない。
『今どこにいる?』
榊医院にいると説明したほうがいいだろうか。しかし絶対に来させる訳には行かない。沙苗はともかく二人とは別の場所で話したい。それに事情を詳しく説明すれば、雪本の心身を傷つけたと、二人の方から離れていくかもしれなかった。
どうせ軽傷だ、嘘をつこう。しかし嘘をつくのなら、今この時刻まで連絡をつけなかった理由をどう説明しよう。
すると、つい先程送られてきたメッセージが消えた。どうして消したのかはわからない。何を訂正するつもりなのか、そもそもすべて消してしまうつもりなのか。 何か返事をしなければならない。感覚の消えた手から端末が滑り落ち、再起動させるとさらに充電がなくなっていく。ロックナンバーを開けようとしても手が動かない。開けた瞬間グループごと消えてしまっていたら、自分は次は、何をどうしたらいいのだろう。
「雪本さん」
品原の声に、ノックの音が続いた。
起こしていたはずの体はシーツに横たわっていて、持っていたはずの端末もない。
「雪本さん?……お休み中かな」
「すみません、大丈夫です」
声を上げて体を改めて起こすと、足首に柔らかい繊維の感触があたる。あからさまな入院着だった。ジーンズとは似ても似つかないうえ、ポケットにはスマートホンなど当然入り込んではいない。
「東井さんがお見舞いにいらしていますけど」
「通してください」
雪本がそう言うと、程なくして、疑うような足取りで東井が病室に入ってきた。雪本の姿を視界に入れるや否や、目を強張らせる。
「お前」
「ごめん、変なことになって」
「いや、ごめんっていうか……何、大丈夫なの、お前」
東井が気持ちに急かされるようにして椅子の方まで歩いてくると、その頬から血の気が引いているのがより一層はっきりと見えた。
「うん。平気。今のところ痛くない」
「痛くないって」
「なんか、気づいたらここにいて。起きてからは全然、なんにも痛くない」
東井は制服姿だった。
そういえば、文化祭の仕事を片付けていた東井はともかく、泉美の方は昼で部活動が終わってそのまま帰っていたはずなのに、なぜ制服姿のままだったのだろう。帰路の途中で連絡を受け、引き返したのか。では、雪本が目を覚ますまでの数時間、いったいどこにいたのだろう。
東井は椅子にかけながら少しむせた。
「走ったの?」
「え?」
「汗びっしょりだから」
「ああ、学校から」
「走ったの?夏だよ?」
雪本は手で東井をあおいでやった。
「だって近いし、走るよそりゃ」
近いと言っても十分はかかる道だ。風こそあるが、八月の最終日の昼下がりはまだまだ暑い。
雪本が小さく笑うと、東井は目を丸くした。
「何」
「ううん。ありがとう」
「え、何が?」
「ううん」
東井の清々しさが嬉しかった。笑っている場合ではないと眉をしかめるのが、より一層眩しかった。
「どうしたの、首」
「うん。自分で髪切ろうとしてたんだけど、うっかり切っちゃってたみたい」
「何それ、あぶな」
「でも全然、大丈夫だって」
東井の率直さに答えるように真っすぐに目を見ながら、人から聞いただけの話を考えるより先に口にする。
「そうか。なら、いいけど、でも、気ぃ付けろよ、首なんて」
東井もすんなりそう頷いた。
雪本は、首を切って気絶して記憶も飛んでいるのに『重傷でない』とは、どういう理屈かと考えていた。どうにも何か見落としている気がしてならない。ケチが付くことが多すぎる。それともケチの付け所を、自分で探しているのだろうか。
「雪本、大丈夫?」
冷静な声に呼びかけられて、呼吸がやや乱れた。というより、呼吸を止めていたのに、呼びかけられて初めて気が付いた。
「ごめん、何?」
「何じゃなくて……大丈夫?」
東井が雪本の手の甲に触れた。真剣すぎるほどの眼差しでこちらの目を見つめている。
「顔色悪い。手、冷たいし」
「あ、ごめん。ちょっと、ボーっとしてて」
「体キツイ?」
「いや、ううん」
雪本は返事をしながら、どこまでまともに返事をしようと悩んでいる自分にも気が付いた。
「……いや、身体は平気なんだけど、変な夢見てさ、実は」
「夢?さっき?」
「うん。ちょっと、東井が来た時寝ててさ。すっごい生々しい夢で、だからなんかちょっと、混乱してる」
東井は、そっか、と、当たり前に返事をした。
雪本は自分の言葉を反芻する。生々しい夢。……今もその続きなのではないか。口に出してからより一層そう思えてきた。むしろ今が夢だという証拠を積極的に探しているようでもあった。もし今目の前にある状況の方が夢なのならば、自分が置いてきてしまった現実の世界では、今この瞬間にも、真菜と川上がメッセージをすべて消してしまったところかもしれなかった。沙苗はもうすぐ到着する頃かもしれなかった。どこかにあるはずの『現実』の方に思いをはせながら、夢かもしれない今この瞬間の価値を一秒ごとに安く見積もっていく。その感覚がどうにもならず気持ち悪い。
「雪本、これ見て」
「うん?」
東井に不意に手を叩かれ、咄嗟に頭を上げると、東井が掲げたスマートホンの画面に自分と東井が映っていた。そのままシャッターが切られる。夕焼けの色がほんのりと差し込む白い病室と、そこで同じくカメラを見つめる自分と東井の写った写真が出来上がった。東井は笑った。
「なんだよ、お前表情ばっちりじゃん」
東井の言う通り、写真の中の雪本は、まるで待ち構えていたかのように見事に笑ってカメラに視線を合わせていた。一生のうち何千回、何万回と繰り返してきた作り笑顔だったが、雪本には今、そんな笑顔を浮かべた覚えすらなかった。
「今日寝て、明日起きて、この写真あったら、夢じゃねーんだなってならない?」
「確かに、そうかも」
「まあ、普通にスマホ新しくしたから、はしゃいでるだけなんだけど」
東井は軽口をたたきながら端末をしばらく操作して、眉をひそめた。
「榊、やっぱ見てねえな」
そう言って端末を雪本の方に差し出す。
榊と雪本と東井の三人で作っているなじみのトークグループの画面は、東井の方から送信されたいくつかのメッセージが、他2人から一切何の反応も得ないまま蓄積されていた。
「俺の端末、どこ行っちゃったんだろ」
「さあ……彼女さんちじゃないの」
「いや、ちゃんと持って帰ってきてたんだけどさ」
雪本がそう言うと、東井は、一瞬だけ表情に迷った。実に東井らしい表情だった。どうも生々しく、夢で描けるような代物ではないような気もする。一方で先ほどまでの落ち着いた振る舞いはむしろ東井らしくなかった。




