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第六十四話 嘘

 白い白い景色のうちに、柔らかい橙色の光がともった。それは炎のようにゆらゆら揺れて、細かく影を刻んでいく。視界いっぱいを埋め尽くしていた白い光は、その小さな揺らぎの中で、少しずつ呑み込まれていった。

 風が頬を撫でたのをきっかけに、ようやく雪本は、目の前の景色の輪郭を再びとらえなおした。すっかり薄暗くなっている部屋、視界の左側からカーテンがその裾を浮かび上がらせ、窓から穏やかな夕暮れが見える。

 あっ、と、男性の声がした。

「目が覚めたかな」

雪本がその声の方角に視線を向けるよりも早く、一人の女性が歩み寄ってきた。清潔な、白い半そでの服装をしていた。履いているズボンも真っ白で、髪はしっかりとまとめられている。女性はニッコリと笑った。

「おはようございます。吐き気や痛みはありますか?」

「……いえ……」

 混乱する頭をどうにかまとめて返事をする間に、男性の方も、女性の四歩後ろくらいの位置まで近寄ってきた。

 女性は自分の名札を示しながら続けた。

「私、担当の品原愛里と申します、お名前伺えますか」

「——雪本直哉です」

「ありがとうございます」

品原はまた落ち着いた仕草で会釈して、男性の方に振り返った。

「大丈夫そうです」

「うん。みたいだね」

男性は品原と入れ替わるようにして、雪本の近くにおいてある椅子に腰かけた。

「ここがどこかわかります?」

「病院、ですか?」

「そう。あたりです」

その男性の声質に、どことなく聞き覚えがあることに気が付いた。

 品原が部屋の蛍光灯をつけ、白い部屋の様子がよりはっきりと浮かび上がり、男性の顔にぼんやりとさしていた陰が消え、その造形がくっきりと表れた。

 そこでピンときた。

「あの、もしかして」 

「あ、わかるかな?」

男性は、ことのほか嬉しそうに声を弾ませて答えた。

「榊知義です。息子がお世話になってます」

「やっぱり」

雪本は嘆息すると同時に、わけもなく笑ってしまった。

「だって、そっくりだもん」

知義は息子によく似た三白眼をありったけ見開いて前のめりになった。

「本当?」

「はい、言われませんか?」

「いや、一度も言われたことがなくて」

知義は調子よく声を弾ませると、品原に振り返った。

「聞いた?似てるってさ、品原さん、今聞いたよね」

「聞きましたけど、でも、目だけでしょう」

品原は心底納得できなさそうに首をひねった。随分若年の看護師に見えるが、口ぶりには一切の容赦がなかった。知義も大して気にした様子なく興奮気味に続ける。

「目が似てるなら大体似てるようなものじゃないかな」

「まあ、それはそうですけど」

「ね?いや、嬉しいよ雪本君、ありがとう、本当、似てない似てないってずーっと言われてるんだよ。家族からまで言われるんだ。家族だけならともかく榊家は親戚も多いからしょっちゅう食事会とかをするんだけど……」

 品原はこっそりと雪本に視線を合わせて、首をすくめた。

 その間にも知義はペラペラと、息子と似た雰囲気の声音で悲喜こもごもな話を繰り広げ、息子とほぼ瓜二つと言っていい目を忙しなく動かしている。本当の意味で『似ていない』人間だった。榊の母親もかなり若く見える人物だったが、知義もなかなかどうして高校生の息子がいるようには見えない奇妙な若々しさがあった。線の細い逆三角型の顎の持ち主だが、顔全体には凹凸があまりなく、厚みのなさそうな白っぽい肌でくるりと覆われている。細身ながら骨ばってはいないしなやかな体つきがいよいよもって洋服向きで、ブルーグレイを基調としたクレリックシャツをきちんと着こなしていた。

「そうだ、雪本君」

知義はその三白眼を、不意に雪本にまっすぐ向けた。

「もしよければ伺いたいんだけど」

「はい」

「君は、今日の事をどのくらい覚えているかな?」

「今日ですか。……今日、今って、八月の三十一日、ですよね。それとも、一日になってたりしますか?」

「三十一日だよ」

知義は優しくうなずいた。しかし、目は緊張を帯びはじめ、ますます息子に似てきた。

「三十一日の、夕方の五時過ぎ」

視界の端で、品原がそっとペンを握りなおす。

「一時くらいに、お風呂に入ってました。三十分もしないくらいで、上がって―そこから身支度して、えっと」

「ハサミを使わなかった?」

雪本は、自分の首にガーゼが巻いてあることに、そこでようやく気が付いた。

「……髪を」

「うん」

「髪を切ろうとしてました」

「あー、なるほど」

「このあたりが、伸びてるから」

「うんうん、そうか、じゃあ多分それでかな」

知義は両肩を一度回しながらパイプ椅子の背もたれによりかかった。そして自身の首に手を当てながら笑う。

「なんか、切れちゃってたみたいだよ」

「ハサミで?」

「うん。僕は治療できる立場の人間じゃないし、現場を見てもいないから、『みたい』としか言えないんだけど……切ったときの覚えって、あるかな?」

「ないです」

雪本はすぐに首を横に振った。横に振ってなお、痛みもつっぱりもない。本当に切ったのかと疑わしいくらいだった。

「そうか……」

知義は軽く目を伏せながら、首をさすった。綺麗な襟が半ば形を崩しても気にならない様子で、何かに警戒している気配がした。しかしすぐ品原に笑いかけて告げた。

「ちょっとだけ記憶が飛んじゃってるところはあるみたい。一信さんにそう伝えてください」

「わかりました」

品原は頷くと、すぐに病室を後にした。知義は依然、フラットな笑みを浮かべたままで続ける。

「君のケガを治療したのは一信さんなんだ。一信さんって、知理のおじい様ね。それでも、深い傷になったりとか、そういうことはないみたいだから安心して」

「はい。あの……」

雪本は半ば答えを予期しながら尋ねた。

「俺は、誰に見つけてもらったんです。あの時、一人だったけど」

知義も、その質問をされることに準備があったようで、すぐに答えた。

「知理だよ」

「……」

「君に確認しておきたいことがあったとかで、一日前くらいから連絡をつけようとしてたらしいんだよね。……で、君と連絡が全くつながらなくて、ちょっと不思議だったから、部活終わりにおうちまで行ったんだって。そこでもう、君は倒れていて……」

 玄関から続く廊下を、まっすぐ行った突き当りに現れるのが脱衣所だった。普段は当然ドアを閉めている。しかし今日は開けっ放しにしてあった。万が一にも真菜と川上が来た時に、すぐ確認できるようにしておきたかったのだ。

 きっと榊は、玄関に入って一秒と経たず雪本を目にしただろう。

「あの子はすぐに一信さんに連絡をつけた。一信さんが救急車で駆けつける間に、止血もしてたみたいだよ。一信さんが着いたころにはとっくに血も止まってたって。そもそも、そんなに深い傷ではなかったらしいんだけどね。頸動脈ってあるじゃない」

「はい」

「頸動脈は、全然切れてなかったんだってさ。だから軽く傷をふさいで、念のため様子見ってことでここに」

 ここに、と知義が示したこの病室は、小ぶりではあるがれっきとした一人部屋だった。大した怪我ではなく、雪本は痛みも感じていない割に、個室をあてがわれて、じきじきに話をされている。

 心配をされているのだ。息子の友人であるという以上に、体調や痛みといった観点とは全く別種の心配をかけられている。

 試すように雪本は尋ねた。

「榊は?」

「え?」

「すみません、息子さんは大丈夫ですか?」

「ああ、それも大丈夫。全然平気」

知義は景気よく笑った。

「念のため明日の始業式は休ませるけど、でもそのくらいさ、君が心配することなんてなんにもないよ」

「そうですか。申し訳ないけど、よかった」

雪本はそう返すしかなかったが、知義は嘘をつくのがどちらかと言えば下手だと思ったので、これ以上深く聞き込むのが却って申し訳なくなった。

 息子とは大違いだ。


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