第六十三話 痕
翌、八月三十一日、午後一時を少し回った。
雪本は自宅のマンションで、着替えの服を選んでいた。
沙苗が一昨日新しいものを何着か持ってきてくれていた。もともと真菜のマンションに持って行っていない服もいくらでもある。いくらでもあるからか、己の心が乱視か何か起こしているのか、妙な時間のかかり方をしていた。何度合わせても、どう見直しても、バランスが取れていない気がして仕方が無い。暫く不毛な比較を繰り返した。
しかし、さらに二分ほど経ったとき、気が付く。真菜や川上と共に暮らし始める前のパターンを再現さえすればいい。それで元通り、見れはするものになるはずだ。一番左端にあったトップスとボトムスを一つずつ引き抜いて、脱衣所の棚に持って行った。そのまま、今着ている服を脱いで浴室に入る。昨日の朝、沙苗とともに掃除をしたまま、今の今まで一度も使われなかったその空間は、夏場でも寒々しく乾燥している。
雪本はシャワーの蛇口をひねった。できるだけ弱く、大きな音がしないように心がける。チャイムの音を万が一にも聞き漏らしたくなかった。
昨日、道端で振り向いた時、川上も真菜もいなかった。
家から走り始めてまだ大した距離は走っていなかった。仮に雪本が、来た道をそのまま引き返せば、徒歩でも五分かからずたどり着けてしまう程度の距離だった。
やっとのことで立ち上がった後、走ることもままならず、駅まで歩くほかなかった。その間も誰かから呼び止められはしなかった。
そのまま地下鉄に乗って自宅までたどり着き、玄関で膝を抱えた。二人が尋ねてくることも、二人から電話がかかってくることも、どちらも恐ろしい。だからこそその瞬間を、雪本は逃せなかった。耳を澄ませ、目を凝らし、肌の感覚を研ぎ澄ませ、あらん限りに震えをおさえつけて、息を殺して、待っていた。
一時間、二時間、何時間、住み慣れたその部屋の中では、ただ陽が落ちて部屋の影の面積が広くなっていった以外に、何の変化も起こらなかった。
雪本はいつからともなく、片方の目を自分自身に向けなおして、そもそも何から逃げようとしたのだろう、と考え始めた。外に向かって力みながらも何一つ得られない神経を、半分だけ使って、自分自身の中身を深く深く探っていくと、少しばかり体が楽になったような気がした。そのまま何時間も何時間も、ゆっくりゆっくり、考え続けた。
川上は、雪本の作ったビーフシチューを確かに楽しみにしていた。真菜はそもそもビーフシチューを自分でリクエストしたわけではないから、映画中だろうが、夕飯だろうが、きっと大差のない判断をしていただろう。そして二人とも、雪本との一日越しの再会を喜んでいた。
「だったら」
雪本は浴槽につかり、水面のあたりに視線を漂わせた。
「なんで来ないんだ」
何度も通り過ぎた問いでまた立ち止まり、目を閉じて息をついた。また、何度も導き出した回答を覗き込む。
理由など、いくらでもそれらしいものを挙げられる。
未成年の雪本を無理に引き止められないかもしれない。
雪本の行動にショックを受けて、いまだに対応を悩んでいるかもしれない。
自分たちには何もできないと、罪悪感から足踏みをしているかもしれない。……罪悪感がもしあるとして、それは何に対する、
「ーー」
頭を振って、最後の思考を取り消した。川上や真菜の内心を推し量っても、当たったにしろ外れたにしろ、実際の話を聞けない以上はどうにもならないことだった。
「戻らないと」
髪を掴んだ。
真菜や川上が望んでいるにしろ、仮に望んでいないにしろ、戻ることだけをまずは最優先に考えなければならない。
あの家から、一瞬でも逃げ出したいと思ったことを、なかったことにはできないが、だからと言ってその感情を今正確に把握できているとも限らない。この時点で何よりも確実なのは、早く二人のもとに帰りたいと思っていることだけだった。その希望を叶えるところから始めなければ、どうしようもない。
そう思って入浴し、身なりを整え、昨日きた道をまた戻ろうとしているのだ。
「戻る」
繰り返し呟くうちに、浴室に響く自分の声がより明瞭になってきた。湯船につかった体を見ると全体が少し赤らいでいる。それを何かの合図のように見なして、雪本は浴槽から立ち上がった。
軽く体の水気を拭いて用意した服を身にまとう。玄関の方をうかがいながらドライヤーで髪を乾かす。鏡に映った自分の目元にはクマが浮き出ていた。昨日戻ってから今の今まで眠れていない。幾度か眠りにつこうとしても、瞼の裏の微妙な凸凹を眺めているうち、脳まで引っ張られていく気がして吐きそうになった。 眠気に襲われるのが億劫で、寝ないようにと玄関にうずくまっていたので、身体もところどころきしんでいたが、走り、歩き、真菜の家に帰りつくには十分だった。
髪を乾かし終えると、玄関に置いたままのリュックサックからスマートホンを取り出した。着信があったようには感じなかったが、通知が多少遅れていたりすることもあるだろう。
しかし取り出してみると、それ以前の問題が発覚した。充電が切れていて、そもそも電源が入っていなかったのだ。
既にメッセージや着信がいくつか届いているかもしれない。雪本はリュックサックからすぐに充電器を取り出し、コンセントにさして、首をひねった。
「いらないか」
川上の母の料理ノートには雪本の住所と電話番号を記してある。ダイニングテーブルに置いて、ページもそのままむき出しになっているのだから、今日には流石に気づいているだろう。スマートホンでつながらないなら家にかけてくればいい。家にはかかってきていないなら、どの道大したことではない。これから会うなら、なおさらだ。―しかし、家にかけると沙苗が出るので、そのリスクを避けたのかもしれないということくらいは、雪本だって理解していた。
「戻ろう、早く……」
雪本は首回りの髪を払った。邪魔だと思い始めてから未だに切りに行けていないので、傷のあたりに触れるといよいよ気分が悪い。
いっそ今切ろう。
自分の中で何か一つでも整えてから向かったほうが、まだしも身軽になれる気がした。もちろん時間をかけすぎて出発が遅れたりすれば、それは本末転倒なので、あくまでも首にあたって気持ちの悪い部分だけ短くしてしまおう。出来がよければ万々歳だし、出来が悪くても、会いさえすればちょっとした笑い話にはなるかもしれない。
唐突な思い付きだからこそ突き動かされる。馬鹿馬鹿しい些細な思い付きをすぐに実行できることが、どれほど楽しいか、この夏休みで存分に学んでいた。
もう一度鏡の前に立ち、買ってから一度も使っていない散髪用のハサミを開封した。この手のものは使えば使うほど切れ味が落ちるらしい。切れ味の悪いハサミで切ると、毛先が痛んで仕上がりが悪くなるという。これまで一度も使っていなくてよかったと思った。
慎重にやりすぎては時間が勿体ない、いよいよ鏡の前に来た。毛先から三センチほどの位置でハサミを構え、そのまま刃先ですくいあげるように、髪のひと房を持ち上げる。
すると、首筋に傷が無かった。
川上との旅行で着いた傷。半ば擦過傷になり、内出血もしていた首筋の傷が、いつの間にか消えていた。一昨日に真菜が噛みつきもしたはずの傷が、消えていた。真菜がメイクで隠してくれたその傷が、川上がつけたその傷が、どういうわけか、跡形もない。
逆の方向だっただろうかと、疑う余地すらなかった。雪本の首にはどこからどう見ても、左右上下前後のかかわりなく、一切合切何の跡もない。ただただずっと白いばかりだった。指で首をなぞった。感覚の記憶を頼りに、どのあたりを締め付けられたか思い出そうと躍起になった。何度か、このあたりではないかと思える時もあるにはあったが、ターコイズブルーのチョーカーの感触とまぜこぜにしているような気もした。そしてそのチョーカーも、今は持っていないのだ。あの家の鍵ですら、しまう前に真菜に抱き着かれて、リビングに引っ張り込まれて、どさくさで玄関に落としてきてしまっていた。少なくともリュックサックの中に戻す暇などなかった。沙苗のもとに行く為に、川上と真菜としばらく会えなくなるとわかって、それで自分は、真菜と川上にまつわる服をすべて置いて出ていった。真菜と川上が、川上の父親と会う前にそうしてくれたのを、そのまま返していたかった。今ここに残っているのは何もなかった。料理ノートもクイズをまとめたノートもシャープペンシルも、全て真菜の家にある。
「真菜さん」
名前を呼ぶ。
「真菜」
「川上さん」
思いつく限り、記憶を辿って、今まで呼びかけたものを、一つ一つ口にしていく。すると川上だけ一回しか呼べなかった。なんだか可哀想だと思うと、場違いに笑ってしまった。ふざけて良ちゃんと呼んでやろうとして、嗚咽に飲まれて何も口に出せなくなる。
「何、自分で切っちゃうの?」
俯いた視界の外で、余りにも普段通りの気楽さで、真菜が言った|。
「どうせなら私がやってあげようか」
「髪質が違うんだから、本人がやる方がまだ安全なんじゃないか」
川上も少しばかり不安そうに言う。
声の方角へ振り返ると、突然全ての力が抜けた。床に崩れ、流れる様に狭まっていく視界の中で、真っ赤に濡れた指先が見えたが、それもほんの一瞬の事で、すぐにぼやけて見えなくなる。真菜の声も川上の声もしなかった。
そこから先は、光が際限なく包み、影という影をかき消していく様を、ぼんやりと眺めていた。




