第六十二話 映画の途中で
翌、八月三十日の午後二時過ぎ。
地下鉄に運ばれてきた雪本は、真菜のマンションへの道のりを急いだ。出来るだけ早く、川上と真菜に意見を聞きたいことがある。
沙苗から、佐原の写真のモデルをしないかと誘われた。
今年の冬、佐原が日本に戻ってくる折に、どうせならば久しぶりの日本を見て回り、その時々の風景を撮影して気分転換をしたいと思っていたらしい。
その話を聞いた沙苗は、せっかくならばその風景の中に息子も入れて写したらどうかと提案した。
日本巡りに息子を伴わせることができるうえ、撮影された写真は息子が映ることによって海外で働く佐原の励みにもなる。佐原はその沙苗のアイディアにすぐ食いついた。初め、それは家族の営みの一環としてのプロジェクトでしかなかったらしい。
しかし、写真のプロとファッション業界のプロは、さらにその先の段階を考えた。
主目的は家族団欒で間違いない。ただしその一方で、『佐原一実』が撮影した『雪本直哉』の写真が対外的な評価を得る可能性は、決して低くない―と、沙苗と佐原は見込んでいるらしい。
アルバムの中の一枚にするだけでなく、その写真を世間に公表してみるのも一つの手であり、いずれにせよそれだけの価値のある写真の撮影に協力するという事であれば、いかに実の息子であれど、それ相応の報酬をもって正式に依頼するべきだ―二人の間では、そう結論が出たらしい。
顔を出すことに抵抗があったり、金銭が絡むことそのものが嫌であったり、そもそも写真を撮影するのに興味が無かったり、そうした事情があれば断ってくれて構わない、と沙苗は言った。
「もし嫌だったら、私がモデルになっちゃうから。それを見学しに来てもいいよ」
と、平気な顔で笑っていた。
「もしよかったら、うちの社の製品もついでに着て写ってくれないかしら。全身だとひんしゅくを買いそうだから、えっと、マフラーだけとか……」
そんなちゃっかりしたことも言った。
雪本は、一旦保留させてほしいと答えた。
プロとして、人として、親として、信頼のおける二人のバックアップの下、自身の容姿を財産として世間に公開して、それでしかるべき金銭を受け取れたとしたら、川上や真菜は、どう思うだろうか。それで購入したプレゼントがもしあったら、受け取ってくれるだろうか。それとも、雪本がそうした形で世間に出てしまうことは、二人にとって何か損失になるのか。それを確認したかった。
鍵を開けて、一呼吸入れて扉を開いた。
「ただいま」
「雪ちゃん?」
音を聞きつけたのか、真菜がリビングから廊下に飛び出してきた。
「真菜、ただいま、ちょっと聞いて……」
雪本の声は真菜の抱擁で途切れさせられた。
腕全体、指の先まで力を込めて、まるで断崖から危うく落ちそうになっているところを繋ぎとめるかのような勢いだった。続いてリビングの扉から顔を出した川上が、困ったように笑いながら止めに入った。
「いったん離れろ、荷物も置けやしない」
真菜は全力で抱きしめていた割に、川上がそういうとすぐ力を緩めて、溢れんばかりの笑顔を向けた。
「ごめんね、なんか、凄い嬉しくて」
「ううん。俺も嬉しい。ただいま。川上さんも」
「うん」
川上はやけに緩く笑って、雪本の頭を真菜の肩越しに撫でた。すると真菜が、その腕を遠慮なく叩いて川上に言った。
「ほら、じゃあ、巻き戻そうよ」
「巻き戻すって、今言わないだろ」
腕を叩かれた川上がそう言うと、真菜はすぐムッとしたように食いつく。
「え、言わないの?普通に言わない?」
「もうリモコンにはスイッチが無いよ」
「嘘だあ」
一昨日当たりからの小競り合いがまだ続いているようだった。
「じゃあ待って、今確認するんだから。雪ちゃん、一緒行こ。あがってあがって」
真菜が後も振り返らず雪本の手を引いて進んでいこうとするので、雪本は慌てて靴を脱ぎ捨てた。川上も呆れたようにそのすぐ後を歩き始める。
雪本は手を引かれながら、川上に尋ねた。
「二人は今日、出かけたんですか?」
「いや、行ってないよ」
川上は、とんでもない、というように首を振る。
「つい二時間前に起きたくらいだ。お前も遅いって聞いてたし。昨日一昨日で嫌というほど出かけたんだから、もうそんな体力が無い」
「ああ、そっか、確かに」
「どうして?」
どうして、と聞かれて、雪本は言い方に悩んだ。そして視線を動かした先に、昨日ダイニングテーブルに置いた料理ノートがそのままになっているのを見つけ、顔が熱くなった。まだ見られていないのだろうか。後から見られてもただ恥ずかしいだけなのでページを閉めるだけでもしたいのに、真菜の力は思いのほか強く、離してくれる気配もなかった。
真菜はローテーブルのそばまで行ってリモコンを手に取った。雪本はカーペットに脚を取られて一瞬よろけ、Ⅼ字のソファに手をついて堪えた。川上がすぐ背を支えた。
「おい、大丈夫か」
「はい、平気です。すみません」
「おい、危ないだろ」
川上が真菜に小言を言う中、雪本はローテーブルの上のものに圧倒された。
色とりどりの和菓子が入った、立派な箱が鎮座している。また、そうかと思えば、すぐ近くには色つやの良いせんべいが大皿に乗って楽し気に円を描いていたり、その傍らに可愛い形の瓶に詰まったジャムとトーストが出ていたりした。
「何これ」
雪本は思わず顔をほころばせた。川上も恥ずかしそうに笑った。
「父がかき集めてきた、実家のまわりの店の、美味しいものだよ。これくらいしかない」
「いや、すごい」
「ああっ」
真菜が悲鳴に近い声を上げて、思わず雪本の手を思い切り握りしめた。雪本が痛みにうめくと、真菜はすぐに手を放し、リモコンをじっと見つめる。
「本当に巻き戻しスイッチないじゃん」
「だから言ったのに」
「そういえば、それ、何の……」
何の映像ですか、と尋ねかけて、気が付いた。
ローテーブルには、川上の誕生日プレゼントの、映画のDVDのパッケージが置かれていた。今再生されているのは、まさにその映画の冒頭らしい。
「いつ頃になるかわからなかったし、適当に始めておいた方が気を遣わせなくていいかと思って」
「なるほど……」
川上が雪本の表情を見て、少しだけ早口になる
「悪い、メッセージを送りはしたんだけど」
「え、いや、ごめんなさい、バタバタして、見てなかったかも」
「いや、こっちも勝手に始めたことだし。最初の五分流してただけで、菓子の準備をしてたから」
川上は肩をすくめて笑って、雪本の目を見た。
「シチューもまだ手つかずにしてある、早く食べたいけど」
「あ、じゃあ、お菓子まだそんなに食べてない?」
「全然。お前が来るまでつまめたらと思って」
川上がもの言いたげに雪本を見るので、雪本はおかしくなって笑った。
「あっためましょうか?」
「頼めるか?」
「はい」
雪本は思わず、力強くうなずいた。川上がはにかむ後ろで、しかし真菜は慎重なしぐさでこちらに頭をもたげる。
「シチューは、お夕飯にしてもいいんじゃない?雪ちゃん今来たばっかりなんだし」
「いや、俺は大丈夫です、あとは温めるだけだから」
「そうかもだけど……」
真菜は心配そうな目を川上に向けた。
「でも、ちょっとかかっちゃうでしょ?」
「まあ、確かに、米炊かなきゃいけないってのもあるし」
「——川上さんが夕飯でもいいなら、」
雪本は川上の言葉を遮って、じっと目を見た。
「俺は、それでもいいです」
川上がどうしてもというなら今用意しようと決めていたが、川上の眼差しにはその気配すらなかった。
「夕飯でいいよ」
川上は雪本の目を見たままで、自嘲気味に微笑んだ。
「よく考えたら、夕飯向きのメニューだし」
「……そりゃそうだ」
雪本が苦笑いすると、川上はリネンの白い袖を半ばまくって、深い緑のテーパードパンツに包まれた長い脚をさばきながら背を押した。
「ほら、好きなところに座っていいよ」
「真ん中でも?」
「真ん中でも」
「真ん中は真菜が座ってるじゃないですか」
「ああ、待って、リモコンいじってただけ、今どくよ」
真菜がそう言って、慌てて立ち上がる。白い清潔なパフスリーブのブラウスに、ベージュのジャンパースカートだった。そうだ、二人が、二人で服を買いに行った日に、それぞれ買った服を着ているから、だから今日もきっと二人が出かけた後なのだと無意識のうちに思ったのだ。
二人の白が、色彩が、大きな窓の日光を受けて美しかった。
「雪ちゃん、どれ食べたい?いっぱいあるよ」
真菜がはしゃぎながら、ローテーブル一杯に整えられた、川上の実家の周りの美味しいものを雪本にすすめる。
二人は屈託なく、今までで一番と言えるくらい、大切そうに雪本を見ていた。
沙苗からもらった、他の何かと合わせるべき、白と黒の服をまとった雪本は、笑い返そうとして、ぎこちなくなった。改まりすぎていて、まるでスーツか何か着てきたようだった。決まり悪い笑みが恥ずかしく、それさえ二人が気づいて笑ってくれているのが、余計に照れくさくて、俯いた。
「俺、なんかお客みたいだね」
自分の声の思いがけない冷たさに、雪本は震えた。心臓が奥深い部分から波打つ、寄せては返すごと、深く、大きく。
発した冷たい声の分を取り返そうと視線を上げると、真菜と川上は呼吸を忘れたように突っ立っていた。二人がどんな表情をしているのか、勿論目には見えているのに、わからなかった。テレビの音が聞こえない。二人に目を合わせた雪本も、吸った息を吐けなくなった。
過剰な酸素を伴う寒気が血管に乗って体全体に行き渡り、手と足と胸の中心の芯が吸い込まれるような激痛を訴え、叫ばずにはいられなくなった瞬間、走り出した。
「雪ちゃん」
真菜が鋭く、美しく叫んだ。奇妙なほど澄んだ声だった。
「良ちゃん、雪ちゃんが」
「雪本」
川上の声は何かに消されてしまいそうに小さい。雪本はより急いだ。川上の脚にはかなわない。早く早く、早く出なければならない。もし追いつかれてしまえば―追いつかれてしまえば―。
ただ徒に息が切れる。靴をつっかけて出ようとして脚がもつれた。その間に川上の足音が二歩後ろにまで迫る。喉の弁を握られて力任せに引きずられるような感覚、またそれをさらに力任せに押し戻すように、雪本は思い切り玄関の戸に体当たりしてこじ開ける。肩の筋肉が嫌な音を立てる。そのまま目が光になれるより早く、無我夢中で手すりだけを頼りに階段を降りた。四段も五段も踏み飛ばし道に転がり落ちる。そのまま全身の力を振り絞って、駅の方へとひたすら走った。
しかし、はるかにはるかに遠い。真夏の昼間、いつまでも直線が続き、端の景色は未だに滲む。三十秒も走ったあたりで、糸が切れたように膝が崩れた。
呼吸と脈拍ばかりが全力疾走のペースを守っているのに、どんなにしても手も足も力が入らない。
はいつくばって、掌でアスファルトを押し返す。熱い。
川上の手に腕や背を捕らえられてしまう想像が、四つか五つ浮かんだ。
「川上さん」
呼んでしまうと、不思議なほどすんなりと、もう駄目だと思えた。もう逃げられない。振り向いた。川上の脚は雪本よりもずっと早い。そもそも逃げ切れるはずが無かったのだ。




