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第六十一話 由来

 午後六時。

 沙苗と件の寿司屋に入った。広めのカウンター席と、四人分の掘りごたつ式の席が二組ほどあるので、およそ二十名弱くらいは収容できそうな、落ち着いた寿司屋だった。

「直ちゃん、ここは初めて?」

注文を終えてすぐ、沙苗が尋ねた。

「初めてです。あんまり気づいてなかったな」

「でも、学校に近いじゃない?」

雪本は首をすくめた。

「そんなに寄り道しない方なので」

カウンターの向こうの店主が静かに笑った。

「実際、高校の子はほとんど来ないですねえ。来るかなって待ってても、皆隣のラーメン屋に入っちゃう。お医者さんとこのご家族がたまに来るくらいですよ」

「榊が?」

「そうそう。あそこのご家族が来る時が一番賑やかです。皆さん揃ってお喋りだから。お孫さん以外はね」

 雪本はつい笑いながら、その“お孫さん”たる榊に、昨日送ったメッセージを思い出していた。

 もしかしたら二学期のはじめ、学校をやすむかもしれないと連絡を入れておいたのだ。言うのが遅いと小言を言いながら、日数が長くなるようなら診断書の準備をすると申し出てくれていた。川上の父との話し合い如何で、何か学校どころではない事態になるかもしれないと思ったのだ。幸い、もうその必要はなくなりそうだし、早めに伝えたほうがいいだろう。

「そうだ、直ちゃん」

「はい?」

「佐原さんがね、今年冬にでも、帰って来られるかもしれないって」

「……え?」

「向こうに住むのはもうちょっと続けなきゃいけないみたいだけど。一時帰国できそうなんだって。会う?」

「勿論」

雪本が慌てて頷くと、沙苗は少しホッとしたように笑った。

「よかった。佐原さん、ちょっと不安がってたよ」

「不安?」

「会いたくないとか言われてたらどうしようって」

「なんで?」

「連絡なかなか取れてないからじゃないかな?それで不安になって、余計に連絡取れなくなって、悪循環」

雪本は苦笑した。

「俺も俺で、父さんについてはあんまり状況わからないから、連絡控えちゃってました」

「今度電話をしてあげて。忙しかったら、出られないだけだもの」

「はい」

 頷きはしたが、雪本は内心、苦笑した。同じ激務でも、佐原と沙苗は忙しさの種類が違った。沙苗は常にどこでも飛び回っているキャリアウーマンなので、いつだって忙しい。逆に言えば時間帯さえ気をつければ、沙苗がちょうど休憩したくなるようなタイミングを見計らって電話をかけることはできる。対して、佐原は写真家だった。仕事であまたの写真を撮影するばかりでなく、常日頃カメラを携え、カメラがなくともスマートホンを常に手に抱え、美しい一瞬を探し続けることがライフワークになっているのだ。雪本がどれほど見計らっても、その一瞬を邪魔していないか、どうしても気になってしまって連絡が取りづらい。

 それでも、メッセージで電話をしたい時間帯をこちらから指定するくらいのことはできるだろう。佐原がそれを望んでいるのならなおさらだ。

 日本酒の入ったグラスと、緑茶の湯飲みが運ばれてきた。沙苗は会釈しながら細い指で日本酒をそっと手に取って、雪本のもつ湯飲みに、軽く向けた。

「乾杯」

「乾杯」

 湯飲みに口をつけると、身体全体を芯から支えられるような温かさに、つい息をついた。沙苗は日本酒を少し舐めて、上機嫌だった。

「沙苗さん」

「なあに?」

「俺、父さんの真似して、沙苗さんの事名前で呼んでるけど―」

「うん、そうね」

沙苗は既に赤みの指している目元を、少し円く瞠った。

「俺も、母さんって呼んだ方が、嬉しかったりする?」

「ああ……」

初めて気が付いたというように、沙苗は声を上げた。

「どうなんだろう、あんまり気にしたことがなかったかもしれない」

「俺も、聞くだけ聞いてみただけなんですけど」

「沙苗さん、って呼んでいて、それで問題ないなら、私は全然いいよ?」

沙苗は首をかしげた。肩にかかる程度のボブヘアがふわりと動く。

「逆に、って言う訳でもないけど、私も直ちゃんって呼んじゃってるし。直哉じゃなくて」

「確かに」

雪本の方こそも、言われてから初めてその事実に気が付いた。

「全然気にしたことが無かったな……」

沙苗はにやりと微笑んだ。

「それは実は、わけがあるんだけどね」

「え?」

 まんまと食いついてしまうと、沙苗は笑って日本酒を一口飲んだ。

「まず直哉って名前自体はね、やっぱり基本的には、ひたむきで、まっすぐな人でありますようにっていう意味の名前なのよ

細い指をテーブルにあて、『哉』という漢字をゆっくりと描いた。

「で、直哉の『哉』は、画数の少ない方もあるでしょ?ナリって読むやつ。あれで『直也』ってすると、まっすぐだなって意味になるのよ」

「はい」

「でも、雪本直哉の『哉』の方は、カ、とか、カナって読んだりもするの。まっすぐだなっていう意味と、まっすぐですかって疑う意味もあるんだよ。私たちは、そっちの字をつけたいねって話をしたんだ。ちゃんと右見て左見て、自分自身を省みて、まっすぐな人になってほしいっていう事なの」

 雪本は、半分分かったような、半分分からないような形で、言葉が出なくなった。

 沙苗はそれを汲み取ったように、笑って付け足す。

「単純な話。親は子供を信じようっていう事よ。私たちはあなたに、まっすぐですか、なんて聞かない。だから直哉なんて呼ばない」

沙苗は今までで最も美しく、強い眼差しで息子の目を見つめた。

「あなたがまっすぐか、疑って、聞いてくれるのは、あなたがこれから会う人たちであるべきだって、そう話したのよ」

 格好つけすぎじゃないかと思った。

わけもなく泣きたくなった。けれど、まだこの言葉を受けて泣くには早すぎるとも思って、湯飲みに口をつけて誤魔化した。この言葉の重みは、真菜や川上に直哉と呼ばれるその日まで、とっておきたかった。

「明日の昼にはお宿に戻るよ。そこからは、無茶しない限り自由に過ごしていていい。でも……」

沙苗は雪本の背をそっと撫でて呟く。ラーメンを食べて、寿司を食べて、息子に格好をつけて、とても満足そうな満ち足りた声で。

「でも、うち以外のところにいるなら、一日一回電話してね」


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