11-42 エトネとコウエンの視点 『後編』
世界が黒に塗りつぶされていく。
眼前に舞い降りた純粋なまでの黒き塊は、雄々しき翼を畳み、何千年も生きているような樹木のように太い四肢で地面を踏みつける。巨体に耐えかねた様に地面が上げた狂おしい悲鳴が、キュイの体を伝わってエトネも感じた。
脳が死を前に思考停止する。
目の前に居るのが生命体と言うよりも、死という概念が肉を纏っていると説明されれば納得してしまう。
「久しいな、黒龍。貴様を世界の外側に追いやってから、実に三百年ぶりの再会じゃな。しかし、相も変わらず醜悪な空気を醸し出しおって。貴様の悪臭、これだけの距離を離れていも気づくぞ」
エトネの腕の中に居たコウエンが、傲岸不遜な態度を崩さない事で、エトネは正気を取り戻した。呼吸をするのを忘れていたように、肺が酸素を求めて膨張と収縮を繰り返し、冷たい汗が肌を伝う。
黒龍の首が僅かに傾き、肌と同じ純黒色の瞳がコウエンを捉える。
「……貴様、赤龍か?」
「呵々。妾が分からんとは、この三百年で頭の方は随分と耄碌したようだ。さもありなん、時の流れすら一定では無い牢獄に閉じ込められれば、誰しも狂乱するだろう」
「不遜な物言い。我を前にしても引かぬ態度。そして、矮小な身でありながら、迸る鮮烈なる赤。成程、貴様は間違いなく赤龍なのだろう。……人、では無いな。モンスター、に近いが違う。何を肉としているのだ、貴様?」
「答える義理は無い、と言ってやろう」
八重歯を覗かせて笑うコウエンに対して、背後のエトネは泡を食っていっていた。ついでに言うなら、キュイもだ。
どう考えても太刀打ちできない存在である黒龍を前に、どこまでも不遜な態度を崩さないコウエン。黒龍がその気になれば、自分たちは愚か、背後にある学術都市まで滅ぼせる存在を挑発するなんて。
だが、エトネの焦りとは裏腹に、黒龍は穏やかな口調のままだった。
「道理である。むしろ、僥倖と呼ぶべきか。貴様等に封印された我は、本来ならこうして二度と言葉を交わす事なぞ出来やしない運命だった。それが斯様な機会を得たのなれば、そのような事は些末事である」
人龍戦役終盤、黒龍は他の古代種の六龍たちによって封印された。当時生存していた、青龍、緑龍、赤龍、そして別の場所で封印されていた黄龍を含めた自分たちを封印の鍵として、黒龍を世界の外側に追いやった。
鍵を解くには、赤龍達が死ななければならない。黒龍が世界に舞い戻ってくるというのは、赤龍たちが地上から消えている事に他ならないのだ。
それが、赤龍の記憶を持つコウエンが人造モンスターに転生した事で、あり得ない事が起きているのだ。
「退屈を持て余していた所に懐かしき気配を感じ、よもやと思い呼びかけてみたが。……こうして再会する事になるとはな」
「呵々。確かにな。貴様を追放し、封印を施した時は今生の別れであろうと覚悟したが、この様な形で巡り合おうとは」
黒龍の顔に走る亀裂が歪み、中から身も竦むような牙が覗いた。
一瞬、咆哮が放たれるのかと警戒したが、それが笑っているのだと理解するのに少しの時間が必要だった。
「して、黒龍よ。妾たちの施した封印が解かれ、貴様は斯様な場で何をしているのだ。……いや、違うな。まずは尋ねておこう。貴様は変われたのか」
ぞわり、と。
首筋が粟立つ。
コウエンから放たれる重圧にエトネの戦士としての本能が騒めく。小さな体躯からは想像もつかない濃厚な殺気に、彼女が姿形は変わっても龍としての矜持は消えていないと理解した。
「変わる、だと」
「左様。時の流れすら一定では無い世界の外側で、どれだけの時間を過ごしたのかは知らん。じゃが、自らの行いを省みる時間は十分にあったであろう」
「同意である。貴様等によって封ぜられたあの場所は、何も無い。草木は愚か、大地も、光も、闇も、何も無い無辺の空間。唯一あったのは、我の思考のみ。故に考える時間だけは幾らでもあった」
「ならば聞かせてもらおう。かつては貴様と同格であった古代種は六龍が一体、赤龍が問うぞ。自由になった貴様は、この世界をどうするつもりじゃ。かつての人龍戦役の続きを行うつもりか」
コウエンの言葉に、エトネの頭の中でイメージが膨らむ。
眼前の龍が、数多の竜を率いて大空を舞い、都市が薙ぎ払われ人が死んでいく。途方もない内容なのに、これ以上ないほどのリアリティがあった。
黒龍と相対しているだけで分かるのだ。
この存在は、今想像した事を容易く実行できるだけの力を持っている。そして、それを止めるだけの力が、果たして今の地上に残っているのだろうか。
エトネは山育ちのため、エルドラドの歴史や文化について疎い部分がある。シアラの教育もあり共通文字を読めるようになり、今はヨシツネと一緒にエルドラドの歴史を学んでいる。
人龍戦役についても多少なりとも知っているが、竜との戦争に勝利した要因は多くの国々が、人種の違いや過去の遺恨を忘れて協力したのが大きい。
特に、『魔王』フィーニス旗下の魔人種部隊の活躍が大きかった。当時、フィーニスの元で自分たちの国を北方に建国した魔人種たちは、自らの地位向上の為に燃えていた。竜との戦争で自分たちが貢献すれば、魔人種への意識が変わる。自分たちの流した血が、後に生まれてくる世代の糧になると信じていた。
そのためならば、最後の一兵まで戦い抜くという気迫があり、普通の人間よりも強い彼らは、まさに一騎当千の活躍ぶりだった。
その魔人種たちは、もう人間の味方をする事は無いだろう。黒龍によって国を滅ぼされた魔人種たちは、救いの手を差し伸べなかった人間達と決別し、人魔戦役へと発展。数の上では劣勢だった彼らは、身の毛もよだつような残忍な方法を使い人間達を苦しめ、結果として魔人種は憎しみをぶつけられる存在へとなってしまった。
その上、最強国家である帝国は外征への意欲が強く、周辺国と対立している。法王庁が間を取りなしているが、こうも複雑な状況をまとめ上げるだけの器量があるのかは疑わしい。
三百年の月日が、状況を変えてしまった。
これでは黒龍に対抗するのは難しいのではと怯えるエトネの耳に、黒龍の重々しい言葉が飛び込んできた。
「古代種が六龍は一体、黒龍が答えよう。あの戦いの続きを我は望んでいない」
予想外な一言だった。
黒龍の口から放たれた、人龍戦役の続きを否定する言葉に、エトネは緊張していた体を弛緩させた。だが、続けて発せられた言葉に愕然とする。
「だが、我の目的は変わらない。この世界に生きとし生けるもの全てに、安寧なる死を与えんとする。それこそが、この滅びゆく世界における衆生の救いである」
重々しく言い放たれた内容にエトネは言葉を失った。黒龍の宣言は、平たく言えば世界を滅ぼすという内容で、それを救いだと言い放ったのだから理解できない。
「……ふん。時間だけでは貴様の歪んだ願いは変わらんか。エトネ、こやつは真面目に言っておるのだ。世界が滅ぶ前に死ぬ方が、救いになると心の底から信じておる。言ってしまえば、始末の悪い狂信者じゃろうな。自分の定めた宗教に囚われた、はた迷惑な奴じゃ」
「我の言葉は真理である。この世における絶対の法であり、理である。誰にも変えられず、誰にも否定されず、誰にも止めようがない。何故ならば、正しき道筋なのだ。正道を行く我が、道を踏み外すことなどあろうか」
宗教を信じる人間は、どこか自分の話す内容に、信仰に対して陶酔した部分が現れる。信じている物がどれだけ偉大なのかを、誇示するかのように振る舞う。
だが、黒龍から感じられるのは、恐ろしい事にありのままの事実を語るかのようなブレの無さだ。人はいずれ死ぬという当然の摂理を、何の感情も抱かずに説明しているかのような。事実を事実として受け止めている冷静さが、かえって不気味だ。
「なら……エトネたちも、ころすの」
ぽつり、と。
呟きが零れた時、エトネはそれが自分の発した言葉だと理解できなかった。だが、黒龍の瞳が自分の方を向いてから、言葉を発していた事に気づいた。
「しかり。それがこの世界における唯一絶対の救いである。これは恩情だ。貴様等は傅いて、望外の幸運に浴せ」
エトネは狩人だ。
物言わぬ動物の考えや行動を探る為に、動物の行動を読み解く訓練を父親から受けていた。それは人間相手でもある程度通用し、特に瞳を見れば相手がどんな感情を向けているのか、おぼろげながら理解できる。
黒龍の純黒色の瞳を覗き込めば、そこにあったのは哀れみだ。
哀れみの目を向けられているのだ。
生きることが苦難だと言い放ち、死こそが救いだと黒龍が言ったのは、本気だからだ。
黒龍は死が救いであると本気で考えている。
そこに一片の疑う余地は無く、それゆえに危険な存在だ。
必ず、世界に災いをもたらすだろう。
「……成程。貴様はエルフの混ざり者。加えて、今代の『精霊の寵愛を受けし者』であるか。面白き者を傍に置いておるな、赤龍よ。して、話はこれで終いか?」
「否。貴様が三百年程度では変わらないのは予想が付いておった。一縷の望みをかけて問うたにすぎん。それよりも、貴様。何故、この地に居るのだ。目的は何だ?」
踏み込んだ質問に黒龍の瞳が動く。それまでエトネたちを見下ろしていた首が傾き、遠くの方を向いた。振り返らずとも分かる。その視線の先には学術都市があるはずだ。
「月の形が一巡りするほど前、かの地で時に関する権能が発動された」
どきり、と。黒龍の話す内容に心臓が口から出そうになる。コウエンが手を掴んでくれなければ、動揺が表に出ていただろう。
「時の権能、といえば時を司る神クロノスか。かの御仁の神器が、あの都にでもあったのか」
「仔細は知らぬ。興味も湧かぬ。ただ、あれば面倒だからこそ、こうして我が出向いているのだ。仮に、神器があり人の手に余る物ならば、焼き払うまで」
「その結果、都市が滅ぶことになっても良いのか」
「愚問。死こそ救いなれば、何故拒むというのだ。理解できかねる」
勝手な言い分だが、問題はそこでは無い。黒龍の目的がクロノ―――正確に言うなら時の神クロノス―――だと分かった。神々の力を使った彼女が、『七帝』に狙われるのは、考えれば当然の話ではある。
「だが、いささか退屈である。奴が穏便に事を済ませたいと申すから調査を任せたが、あ奴め、未だに連絡も無いとは」
「……待て、待て待て! 貴様、誰かと手を組んでいるのか!?」
ここに来て、初めて焦りを浮かべたコウエンにエトネは不安を覚える。黒龍を前にしても一歩も引かなかった彼女が何を焦っているのだろうか。
「然り。我の巨体では、あの雑然とした都市を薙ぎ払ってしまうから、潜入中は離れていろと。真に不敬な物言いである」
「ありえん。……貴様と手を組めるような人格破綻者がおるじゃと。それも学術都市に既に潜入しておるのか!」
コウエンの叫びでエトネも理解した。
『龍王』と手を組むという事は、少なくとも『龍王』の過激な思想を許容できるという事だ。似たような目的を持っているから、黒龍を危険だと思わない。
付け加えれば、黒龍という単騎で最強の存在がわざわざ手を結ぼうとしただけの力を持っているという事にもなる。
つまり、『七帝』級の怪物が学術都市に居るという事だ。そんな危険人物がクロノを探している。こうしている間にも、クロノに危険が迫っているのだ。
「コウエンちゃん、いそいで戻らないと! おにいちゃんに、しらせないと!」
叫んでから、果たしてそれが出来るのだろうかと疑問が頭をよぎった。
目の前には『龍王』黒龍が構えているのだ。かつて、レイ達が戦った赤龍は、紅蓮の炎の塊を幾度も放ち都市を燃やしたという。この遮蔽物が全くない開けた土地で、黒龍のブレスを避ける事は果たしてできるだろうか。
考えるまでも無い。
不可能だ。
キュイがどれだけ速度を出したとしても、黒龍の巨大な翼なら羽ばたき1つで追いついてしまう。逃げる事など不可能だ。
ならば、戦うのか。
レイも、シアラも、リザも、レティも、ヨシツネも、クロノも居ないこの状況下で、純黒色の死を倒せるというのか。
それも不可能だろう。刹那の時間をおいて、自分が消し飛ぶところを簡単に予想で来てしまう。あまりにもしっくり来る未来予想だ。
―――だから、何だというのだろう。
逃げられない、倒せない、だから諦めるというのは《ミクリヤ》の、レイのやり方じゃない。
「コウエンちゃん。エトネが、時間をかせぐ。ハヅミをよんで、よべるせいれい、ぜんぶやどす。それでも、いちびょうか、にびょうぐらいしか、かせげないかもしれないけど。その隙に、にげて。にげて、おにいちゃんに知らせて」
コウエンは変身能力を持つ。数多のモンスターの遺伝子を持つ彼女なら、飛行に適した姿になってこの場から離れられるだろう。レイの元に辿りつけば、《トライ&エラー》で対応策を練る事も出来る。
そのために重要なのは、この場をどちらかが脱出する事だ。
一番脱出できる確率が高いのはコウエン。なら、エトネがするべき事は、彼女を逃がす為の時間を作る事だけだ。
あっという間に覚悟を決めた幼い少女に、悠久の時を生き抜いた赤龍は大丈夫と返した。
「コウエンちゃん?」
「早合点するな。……黒龍、話は聞かせてもらった。悪いが、妾はこれにて失礼させてもらうぞ」
「ふむ。……構わん。貴様の気配を感じ警戒したが、その有様では脅威になるまい。貴様と話せたことは中々有意義だった。見逃すのは、その礼と思え。達者でな、我が憎らしき同胞よ。この滅びゆく世界と運命を共にせよ」
予想外にも黒龍は踵を返そうとしていた。エトネたちに興味を無くしたように、体を後ろへと向けると、翼を広げていた。
「い、いっちゃうの」
これから黒龍相手に命懸けの特攻を仕掛けようとしていたエトネは、ポカンと口を開いてしまう。翼を広げた衝撃で土埃が口に入るが気にする余裕は無い。
「たたかわなくても、いいの?」
「どうやら、運はこちらに味方したようじゃ。奴にしてみれば、此処まで弱体化した妾は脅威でも無いのだろう。いつでも殺せる弱者ならば、いま殺す必要はないと考えたのじゃろう。侮られたのは業腹じゃが、良しとしよう」
「もしかして、こうなると予想していた?」
「半々じゃったな。何しろ、古代種の六龍は燃費が悪い。体を維持するだけでもそれなりの力を必要とし、咆哮を何度も吐けば、一気に空っぽになる。妾たちは、奴がそこまでする価値の無い存在とみなされたのじゃな」
コウエンの読みは大体が当たっていた。付け加えると、黒龍は時の権能と赤龍の気配を放つコウエンが同じ時期に同じ街に居る事は偶然ではないと睨んでいた。
そこで、時に関する権能と協力者の事をワザと打ち明け、コウエンを都市に戻らせて泳がせるという手法を思いついていた。コウエン達を殺すよりも、上手く利用するべきだと判断したのだ。
翼をはためかせ、巨体がふわりと浮いた瞬間、黒龍は自分の近くで異様な力の高まりに気づいた。
その力を黒龍は知っている。
過去に幾度となく刃と牙を交わし、削り合っていた旧き敵。
最近になっても戦った相手だけに間違いようがない。
自身の足元近くで膨らんだフィーニスの影に、向けて殺気が膨らむ。コウエンを敵とみなさなかった存在が、文字通り牙を向いた。
「フィーニス! 貴様はどこまでも執念深い男なのだ!」
吼えると同時に放たれるのは、純黒の色をした炎。
輝きは無く、世界を黒に塗りつぶす咆哮は、影から放たれた紅蓮の炎によってずらされた。
影の近くで二つの炎が混ざり合い爆発すると、影から転移しようとしていた者達が一斉にはじき出された。
人影は五つ。
一つを除いて、全て記憶にない人間達だったが、黒龍からの威圧は増していた。コウエンを前にして、一度もしなかった警戒をしていた。
髪に白と黒が混じる少年に向けて黒龍は問いを発した。
「貴様、何奴だ。何故、赤龍の力を振るうのだ。人間よ、名乗れ」
「《ミクリヤ》所属、『緋星』のレイだ」
少年―――レイは龍刀を構え、黒龍を睨んだ。
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