11-19 シアラの視点Ⅲ
遠雷に似た音を轟かせて現れた存在に、全員の視線が集まる。小柄ながらもしなやかな筋肉を蓄えた上半身をさらけ出しているのは、それを誇示したいからではないだろう。何故なら、男の肉体にはおびただしいまでの傷が縦横無尽に走っており、元の肌の色がどんなのだったのか想像するのも難しい。
その中で特に目を引くのは、右腕の半ばまで達している傷と、左肩から胸の中心近くまで走っている傷だ。どちらも他の傷を圧倒する存在感を放ち、特に左肩から走る傷は致命傷と呼んでも差し支えない。
そんな傷を負ってなお、二本の足で立てる男は異常と呼ぶしかない。
闇を固めたような黒いドレットヘアと闇夜に浮かぶ凶星のごとき金の瞳が、男の出自を明らかにしていた。
「ひひひ、陛下の言う通り、見逃して追いかけたらお姫さんを見つけちったよ。ご機嫌麗しゅう、シアラ姫?」
「アンタと会った瞬間から最悪よ……ジャイルズ」
「ひひひひひひ! こいつは手厳しい。ご機嫌斜めの御様子で。……母親似の美貌が台無しだぜ」
けらけらと笑うと、傷だらけの顔面が引きつり壮絶な笑い顔になる。子供が見たら失禁してひきつけを起こしかねない顔面凶器の持ち主こそ、六将軍第五席ジャイルズ。
年若い見かけではあるが紛れもなく魔人の一体である。
「私を泳がせて、道しるべにしたというのか」
悔しそうにつぶやくキョウコツにジャイルズが雑草を見るかのように視線を向けた。
「当たり前だろ。まさか自分の力でここまで来れたとでも、本気で思っているのか。だとしたら、相当おめでたい頭の持ち主だな、お前。……まあ、ワザと逃がしたとはいえ随分と足が速いんだな。一瞬だが見失ったよ。逃げ足の早さだけは褒めてやるよ」
嘲りの感情が含まれていれば、ある意味救われたかもしれない。だが、ジャイルズの視線や声には、キョウコツへの感情は一滴たりとも含まれていない。虫や道端に転がる死体を見つめるような感情の無い視線は、キョウコツを人とすら見ていないのを示していた。
そんな無機質な瞳が、ぎょろりと大きく動いた。
「とはいえ、こればかりは俺も予想外と言うしかないよな。な、ん、で、ココにアンタが居るかな? オルタナさんよ」
キョウコツへ向けた視線とは全く違う、どこか恐れや警戒が含まれた敵意の視線に名前を呼ばれたオルタナは鷹揚に答えた。
「俺がどこに居ようが、俺の勝手だろう。正直に答える義理なんざない」
「ひひひ。確かにそうだけどよ、もしかしたら俺たちと狙いが被ってる可能性もあるだろう。アンタと争うのは避けたいんだよ。まあ、『七帝』の中でとりわけ行動原理がわかり易いアンタがここに居るってだけで、何が目的なのかはすぐにわかるがな」
「……三百年経っても、喋り癖は治っていないようだな。そんなにわかり易いなら、言い当ててみろ」
「時に関する権能」
ジャイルズが放った一言はオルタナ以外にもシアラとヨシツネを緊張させた。
それに気づいているのかどうかはわからないまま、ジャイルズは続けた。
「ひと月ほど前か。この街の時間が滅茶苦茶になった。時計の針が、子供の悪戯のように行ったり来たり。それが神々の残した遺物、神器が暴走したのか、それとも別の要因なのかは知らねえが、とにかく時に関する何らかの力が働いているのは間違いない。アンタもそれを感じ取ったんだろ。いや、感じられないはずがないんだ。アンタなら、絶対に感じ取ってしまう」
「俺の狙いがそうだとして、お前らは何故時に関する権能なんかを欲しがるんだ。いや、聞くのは野暮だったな」
「ひひひ? どういう意味だ?」
「お前ら魔人種は変えたい歴史だらけだよな。黒龍に国を滅ぼされて、ジグムントにフィーニスを殺されかけて、他にも敗北の歴史だらけじゃないか。一つぐらい変えても誰にも責められんよ」
軽口の応酬に合わせるように、怪物たちから立ち上る闘気は色濃くなり、シアラは居るだけで寿命が縮むような思いを味わっていた。
だからといって、逃げ出そうとすればジャイルズの殺意が自分に向くのは明白だ。六将軍第六席ディオニュシウスはゲオルギウスのように、シアラに対して殺意を持っていなかった。だが、それは例外だ。彼はカタリナに作られた人造モンスターで、カタリナによって魔人にしてもらったという恩義を抱いていた。だから、ディオニュシウスはデゼルト動乱で戦った時は武人のような高潔さで相対してくれた。
いま、シアラの前に居る男は違う。第五席に甘んじているが、純粋な戦闘力はゲオルギウスに次いで二番目に位置するジャイルズは、おそらくカタリナの蛮行を許していないはずだ。当然、彼女の娘であるシアラも、同様に憎んでいる可能性が高い。
どうすればこの場から離脱できるのかとシアラが考えていると、ジャイルズの肩から力が抜けた。
「ま、アンタに関しては正直なところどうでもいいや。陛下から指令を受けてないし、アンタと俺の相性は最悪に近い。やり合うっていうなら受けて立つけど」
「面倒。誰がするか」
「……本当、三百年経っても性格は変わんねえ人だな……ゲンミツには人じゃないんだっけ。まあ、そういう風になっちまってんだろうけどな。それじゃ、黙って何処か行ってくれるとありがてぇし、手を出さないんならそこに居てもいいよ。俺の用事はアンタじゃなくて、姫さんだからよ」
言うと、ジャイルズは視線を横に滑らせ、シアラを捉えた。
「陛下からの御下命はただ一つ。あいつはどこに居るのか? って話さ」
「あいつって、誰の事よ」
フィーニスが興味を持つ存在なんて、すぐに思いつくのにシアラは尋ねずにはいられなかった。
「決まってるだろ。恐れ多くも陛下から力を下賜された、俺たちの新しい同胞だよ。名前はたしか、レイとかいったっけ。ディオニュシウスを倒した奴はどこに居るんだよ」
やはり、フィーニスはレイに執着している。そしてこれまでの話からすると、フィーニスたちがこの都市に来た最大の理由は時を操れたクロノスの調査だと推測できる。
そのためにクロノスを誘拐して、レイの行方を尋ねるのは腑に落ちる。だが、分からないのはレティを誘拐した理由だ。
「主様を探しているなら、私は知らないわよ。昨日は随分と飲んでいたみたいだから、今頃二日酔いで苦しんで、どこかとんでもない所で目が覚めているんじゃないのかしら」
煙に巻くつもりで適当に言ったのだが、実はその通りなのをシアラは知らない。
「それより答えなさい。レティを誘拐した理由はなに?」
「レティ? あのちっこい娘か? あれを誘拐したのは半分成り行きだけど、もう半分はあれだ。あいつがジグムントを操作できる存在だからさ」
「なに?」
話を黙って聞いていたオルタナは驚きの声を上げた。傍に居るキョウコツも似たような反応をした。彼らはレティが帝国皇室に連なる存在だというのを知らなかった。
「本命は時に関する権能の調査で、あの女を捕まえた時点で任務完了。あのちっこい娘は、まあついでにな。ジグムントに対する切り札は、一枚でも多く持ってたら安心だろ」
過去の因縁から、魔人たちがジグムントに対する警戒心は強い。デゼルト動乱でレティの正体を知ったのは帝国以外にも彼ら魔人たちが居たのだと今更ながらに思い知る。
「陛下としてはレイの仕上がり具合を見るためのエサのつもりらしいけど、クリストフォロスは連れて帰れってうるさいんだよ。だから悪いけど頂いていくよ」
「そんな事、させると思ってるのかしら」
勝手なことを言うジャイルズに怒りを滲ませるが、魔人はシアラの怒りをそよ風程度にしか感じていない。
「凄むなよ。いくらか強くなったようだけど、魔人に比べればまだまだ。忘れちまったんですか? 魔人種にとって強さこそが相手の遺志を捻りつぶす唯一の手段。弱けりゃ、自分の意見を通すこともできやしねえ」
一拍あけて、男は言う。
「なにより、アンタを笑って見過ごせる程、俺の度量は広くねえ。ここで始末させてもらうぜ、裏切り者の血脈」
ジャイルズがわき腹に手を当てると、傷口が輝きだした。次の瞬間には波打つような形をした透明な双剣が握られていた。ジャイルズの持つ《傷ノ記憶》は過去にくらったダメージを再現する事が出来る。透明な武器には自分を傷つけた戦士の能力値が宿り、戦技を発動できる。
人魔戦役を生き延びた魔人の傷は、言ってしまえば凄惨な戦いの歴史を戦い抜いた戦士たちの目録。暗黒期に比べれば平和な今の時代に生きる冒険者とは比べ物にならない。
一歩踏み出すだけで、シアラとの距離はゼロになり、透明な刃が恐るべき速度で迫る。上級冒険者に昇格したとはいえ、相手は魔人。撃ち合うどころか、躱す事すら彼女の身体能力では不可能だ。
だから、彼女が数秒経過して生きているのは別の事が要因である。
ジャイルズの刃を隠していた武器で受け止めたのはヨシツネだった。彼はシアラの前に体を滑らせると、恐るべき速度で迫った怪物の刃を食い止めた。
驚くべき結果だが、無傷では済まなかった。
肩口にジャイルズの剣先が食い込んでいた。
「ヨシツネ、アンタ」
「シアラ殿、今は退き時でござる!」
振り返りもせず、力負けして徐々に刃が食い込む中、ヨシツネは続けた。
「こ奴は強敵でござる! 拙者とシアラ殿だけではどうやっても勝ち目はありませぬ。ならば、ここは貴女が退き、主殿か他の方の助力を申し出るのです!」
ヨシツネの言葉に納得はできるが、同意はできなかった。
確かに、ジャイルズと正面切って戦えるだけの戦力はこちらに無い。キョウコツはともかく、オルタナの助力が望めれば話は違うが、彼は静観の構えを崩さない。
壁際にもたれて、腕組みをしている。
どうやっても勝ち目はない。
ならば逃げて態勢を整えるのが一番だが、その為にはどちらかが犠牲になるしかない。
普段の状況なら、死ねば連座してレイも死ぬシアラが犠牲になるのが常道だが、レイの状況がどうなっているのか不明な今、簡単に死を選ぶことはできない。
なにしろ『七帝』の内、二体が学術都市に侵入し、レティとクロノが誘拐されたのだ。これ以上最悪の状況は想像できないが、ありえる話なのだ。
もしも、《トライ&エラー》を発動できない状況なら、シアラが死ぬと取り返しのつかない結果を迎える。《トライ&エラー》が万能じゃないのは、シアラも理解していた。そしてヨシツネの反応を見る限り、彼も同じことを考えているはずだ。
シアラが死ぬことができない以上、犠牲になるべきなのはヨシツネという理屈は理解できるが、だからといって彼をむざむざと死なせるつもりはシアラに無い。
なにより、彼には聞かなければならないことがあった。
オルタナの事をエイリークと呼んだ事。
オルタナと顔見知りである事。
オルタナの言った、「アイツのヨシツネ」という言葉の意味。
これらの謎が、不信の呼び水となり、疑念を生む。はたして、ヨシツネを信頼していいのか。
そんな逡巡を遮ったのは生暖かい液体だ。
金属が砕ける甲高い音と共にヨシツネの身体から血が噴き出し、辺りを赤く染める。シアラの頬にも血しぶきは飛んだ。
「ヨシツネ!」
「ぐぅ!!」
くぐもった悲鳴は上げるも、ヨシツネはまだ戦えるとばかりにジャイルズの胸に向かって足を前に突き出す。つま先は傷だらけの胸板に突き刺さるも、びくともしない様子だった。
「……弱い」
苛立った様子のジャイルズは、蹴られたことなど露とも感じていないように、そのまま剣を横にふるう。だが、その腕は途中で止まった。
「こいつは、布か」
ジャイルズの腕に絡みついたのは、ヨシツネが操る長布だ。蹴りは目くらましで、そのすきに伸ばしていた布がジャイルズに絡みつく。
「拙者なら、多少は足止め出来ましょう。今の内に、この場を離れて下され!」
「バカ! あんたを見殺しにしろって言うの!?」
「その通りでござる。それが、全体にとって最も効率の良い方法でござる。それに犬死になるつもりは毛頭ござらん。そうでありましょう」
「はっ、カッコイイね、アンタ。この実力差で俺に一矢報いる気満々じゃないか。それとも、何か秘策でもあるっていうのかい」
ヨシツネの長布は精神力を流し込めば鋼鉄並みの強度になる。それを濡れた紙を引き裂くようにジャイルズは破っている。
策なんてある訳がない。
ヨシツネは忍びとしての能力は高いが、戦闘向きではない。暗殺や奇襲なら力を発揮できるかもしれないが、こうやって正面からのぶつかり合いで魔人相手に勝てるはずがない。一矢報いるのも夢のような話だ。
彼が死を覚悟できるのは、レイの《トライ&エラー》が死をなかった事にしてくれるから―――ではないとシアラは察した。
ヨシツネは愚かではない。情報を収集し、時には偽情報で敵を混乱させる忍びらしく、頭の回転は速く状況を正確に読み取る力は高い。
いま、レイが《トライ&エラー》を発動しても、どのタイミングで戻ってこれるのか不明なのだ。
もしかしたら、ヨシツネが死んだ直後までしか遡れない可能性も十分考えられる。
ヨシツネはそれを理解しながら、それでもと決めたのだ。
自分が死んで《トライ&エラー》でも戻れなくなる可能性よりも、シアラが死んで《トライ&エラー》が発動できない可能性をより危険視し、自分の命を捨てる覚悟を固めた。
そんな気高い精神を持った男を、一瞬でも疑ったことをシアラは恥じた。
シアラは刹那の間だけ考え、言葉を絞り出すように告げた。
「ごめんなさいヨシツネ。ワタシは、一瞬だけどアンタを疑った自分を殺したいぐらいよ」
「謝らんでくだされ。ただ一言、任せるとおっしゃって下さい」
「わかった、任せる」
それだけ言うと、彼女は踵を返す。出入口へと走り出し、ついでとばかりに立ちすくんでいたキョウコツの手を取った。
「な、お前! その手を離せ!」
「馬鹿じゃないの! ここに残ってたら、アンタまで死んじゃうわよ!」
叫ぶとキョウコツは押し黙る。玄関まで走り抜けると、直後背後から破壊音が響くも、シアラは振り返らずに研究区画の出口を目指そうとした。ところが、掴んでいたキョウコツに引き留められてしまう。
「なに邪魔してんのよ。こっちは忙しいのよ。大体、手を離してほしかったんじゃないかしら」
「ふん、こっちにも事情があるんだ。『魔王』を探しに行くつもりだろうが、当てはあるのか?」
無論、あるはずがない。
二人がフィーニスに誘拐されたという情報自体が初耳なのだ。ジャイルズの登場でフィーニスが学術都市に来ているというのは事実だろうが、二人が誘拐されたというのはまだ信用できていなかった。
「そもそも、どうしてアンタが誘拐された事を知ってるのよ。……ううん、それを知らせに来た事自体がおかしいのよ。ワタシたち、そんなに仲良くなんてないでしょ」
「当たり前だ。隙あらば、背中を蹴り飛ばしてやりたいと思うぐらいは嫌っている」
「なら、どうして知らせてきたのよ」
「決まっているだろ。私の雇い主の意向だ」
化粧っ気のない顔が苦虫を噛み潰したように歪んだ。
「……そう、あの人の指示なのね」
驚く事では無かった。カタリナは以前にもクロノス戦を観察する名目でキョウコツを迷宮まで潜らせていた。彼女が暗躍するのは驚くに値する事では無い。
「でも、手際が良すぎるわね。フィーニスたちが来るだけでなく、オルタナが来ることも見越して自分は姿を隠しているなんて。ねえ、キョウコツ。あの人はいま、どこに居るの」
「そんな事は知らん。あの方は朝にはもう消えていた。簡単な書置きとこれを置いてな」
そう言って懐から取り出したのはメモと錆が浮かんだハンドベルだ。片手に隠れるぐらいの小さなベルを、キョウコツはまるで触れれば砕けるガラス細工を扱うように丁寧に持ち上げていた。
「なによその小汚いハンドベルは?」
「こいつの力を見た後に、同じ事が言えるか楽しみだな。まずは、その書置きを見ろ」
そう言って、彼女はメモをシアラに押し付けた。金色黒色の瞳は数行の文面を追いかける。
『おはよう、キョウコツ。これを見ている頃には私は学術都市を離れているだろう。なぜなら、この前の『姿なき存在の呼び声』事件を上回る事件が起きるんだ。そしてレイ君たちはそれに巻き込まれるから、援護をヨロシク。置いてあるベルはワタシの影を限定的に使える道具さ。回数は3回で、自分の指定した人物の所へ跳べるよ。好きに使っていいけど、知っている人以外の前じゃ使わないでね。それじゃ、頑張って』
文章の内容に衝撃が走る。こうなる事を完全に予測していたカタリナのメッセージも驚きだが、フィーニスの影を使った転移の力を道具に封じ込めたというのが信じられなかった。
驚きのあまり言葉を無くすシアラに、キョウコツは指で紙をひっくり返すように指示をした。
裏面にも短くメッセージが記されていた。
『あと、心臓に影を仕込んでるから。指示に従わなかったら、残念な事が起きる……かも』
憐みのあまり言葉を無くすシアラに、キョウコツの瞳から光が失われていく。
「事情は理解してくれたか」
「……前も言ったけど、本当に、なんていうか……身内がごめんなさい」
「気にするな、などとは口が裂けても言えんが……大変だな、お前も」
カタリナに振り回されている者同士、微妙な親近感を覚えてしまう。背後から聞こえた爆発音にシアラは正気を取り戻した。
「こんな事をしている場合じゃない。それで、本当にこのベルを使えば転移が使えるの?」
「ああ。つい先程まで、私は学術都市の東にある市場に居た。そこでエリザベートたちと遭遇し……まあ色々あった。そして『魔王』がレティシアとクロノを誘拐したのを目撃してしまい、お前と合流するためにこれを使ったんだ」
「ワタシと? なんでワタシなのよ。主様と合流しなさいよ」
「仕方あるまい。レイの奴と合流しようとしたが、影は発動しなかったんだ」
「主様の所へは行けないの」
「ああ、見てろ」
そう言って持っていたベルをキョウコツは鳴らした。錆が浮かび朽ち果てる寸前のベルだったが、響いた音は驚くほど澄み切っていた。冬の空にハンドベルの音が吸い込まれるが、変化は無かった。
「ちょ、ちょっと! こんな大通りで使わないでよ! 誰かに見られてでもしたら……って、誰も居ないわね」
焦るシアラだが、周りを見渡せば人の影はそれほど無かった。いまも、カタリナの研究所から戦闘音が響くのに、周りの研究所から人が出てくる様子は無かった。
「ここじゃ、あれぐらいの音は日常茶飯事だからな。空を見てみろ。ジャイルズが破った天井なんて、もう自動修復されている」
「……研究者って変わり者が多いのね」
魔人がすぐそこで暴れているというのに、その対応はどうなんだろうと思いつつも、余計な邪魔が入らないのは好都合だ。シアラは質問を続けた。
「そのベルは場所じゃなくて、人を指定して跳ぶのね」
「ああ。エリザベートに言われてレイの所に跳ぼうとしたら、駄目だった。そこでお前の所に来たわけだ」
キョウコツの説明を聞いてもシアラは納得できない。
ハンドベルが転移の影を生みだせるかどうかでは無く、能力じみた力を振るえる道具というのがある言葉と結びつく。
魔道具。
魔人種の持つ特殊な血を材料に、不思議な力を手に入れた道具の事だ。
レイの持つ龍刀やバジリスクの魔短刀がこれに当たる。
魔道具は自分で魔力を生成し、それをエネルギーとして力を発揮する。つまり、魔道具なら力の圧が感じられるため見分けがつくのだが、キョウコツの持っているハンドベルからは一切力を感じなかった。
そもそも、魔道具がどのような力を発揮できるのかは形状に左右される。武器なら攻撃的な力を、道具なら利便性に長けた力という風になっている。それらはどれも、技能のような力を持った道具であり、厳密には技能ではない。
ましてや特殊技能を使える魔道具なんて、シアラは聞いた事も無かった。
(そんなのって……神器級の道具じゃない! 転移の影を使えるって事は、製作にはあの人か、あるいはクリストフォロス、フィーニスの誰かが関わっているはず。……昔の魔人種たちは、そんな技術を持っていたの?)
異質な存在を前に数秒考え込んだシアラだが、思考を一度打ち切って尋ねた。
「それじゃ、そのベルを使ってフィーニスの所まで行くことは出来るかしら」
途端、キョウコツの顔が嫌そうに歪んだ。
できる、だけどしたくないという意思が伝わってきた。
「……正気か。ここはエリザベートと合流して戦力を整えるのが上策だぞ。……いや、噂に名高い『魔王』が相手じゃ、誰も戦力にはならんな」
確かにキョウコツの意見が正しい。根底にはフィーニスと関わりたくないという気持ちはあるのだろうが、リザと合流し外泊したレイと合流して態勢を整えるのが筋だ。
だが、それじゃ後手に回ってしまう。
「いまは情報が欲しいのよ。フィーニスが学術都市で何をしようとしているのか、それが分かれば先回りできる」
「先回りだって? 二人も誘拐されて後手に回っているこの状況でか」
呆れたとばかりに言うキョウコツをシアラは黙って睨みつける。にらみ合いは数秒続き、先に離したのはキョウコツだった。
「好きにすればいい。『魔王』の所に行って後悔する様を見せて貰おうじゃないか」
キョウコツが再びハンドベルを鳴らせば、澄み切った音が冬の空に溶けていく。そして先程とは違う反応が起きた。二人の足元に影が生まれた。闇よりも昏い影がずぶずぶと二人を飲み込んでいく。
影だから、感触なんてあるはずないのに、何か得体の知れない生物の腸に包まれている感触に、シアラは思わず目を閉じた。
そして頭の先まで飲み込まれると、影は音も無く消えた。
大通りには人影は無く、研究所区画に響いていた音は止んでいた。
宙を舞うのとも、水の中に落ちるのとも違う、形容しがたい感触にシアラは耐えていた。体を包み込むのは熱くも寒くも無い、質感を持った影。それが蠢き、シアラを何処かに運ぼうとしていた。
どちらが天で、どちらが地なのか。
水平感覚は狂い、上下の概念が溶け、自分がどちらを向いているのかさえ分からない時間が過ぎていき、突然様々な情報が彼女を襲った。
一瞬前までは途切れていた重力に体が引き寄せられ、足裏に感じる固い地面の感触が伝わり、肌を突き刺す冬の空気にシアラは目を開けた。
そこはどこかの大通りから横に逸れた路地だった。薄汚れたゴミなどが散乱して、普段なら抵抗のある場所も今ならほおずりしそうな頼りがいがある。
「この移動方法、もうちょっと使う人間のことを気づかってくれないか」
似たような思いを抱いたのか、キョウコツも固い地面や建物を頼もしそうに見つめていた。
「それで、フィーニスはどこに居るの」
シアラは周囲に目を向けるが、フィーニスの姿は愚か、人の気配すらなかった。
「焦るな。あの方の書置きを思い出せ。この力は人に気づかれないようになっているらしくて、対象者の近くで人の居ない場所に跳ぶようになっているんだ。さっきも、研究所近くにある保管庫に飛ばされたんだぞ」
「そう、だったら!」
「あ、この馬鹿。飛び出すな!」
キョウコツの静止の声も虚しく、シアラは路地から大通りの方へと飛び出した。こちらにフィーニスが居るという確証は無く、むしろ飛び出してからしまったと思ってしまう。年の終わりが近づき、賑わっている学術都市は市場や商業施設が並ぶ通りは人ごみで溢れている。
人探しの技術や才能を持っていないシアラは、見渡す限り人の山という状況からフィーニスを探し出す難しさを感じ―――。
―――視界に飛び込んできた人物に呼吸が止まる。
距離にしてみれば10メーチルも無いだろう。互いの顔がはっきりと視認できる距離だ。
人ごみに紛れ、唇の端を僅かに浮かべた年若い少年の姿にシアラは衝撃を受けた。
『魔王』フィーニス・マールム。
自分の祖父がすぐ目の前に居たのだ。
読んで下さって、ありがとうございます。




