10-35 幽霊の正体Ⅴ
「お前ら、殺すなよ。狂っていても、ありゃ神だ。死なせちまったら、世界にどんな影響があるのか計り知れねえ。無力化して拘束するぞ」
「簡単に言ってくれますね。あんなのを生け捕りにしろなんて、ね!」
戦いの幕開けは、ロータスが一瞬で放った矢だ。指の間に挟んで番えた二射は、遠く離れた女神の両目を狙った。女神は反応する事も出来ずに、矢は命中した。
「足場を作ります! 《超短文・中級・戦闘領域》!」
続いて動いたのは、ベルドランドの副長だった。彼は足元に向けて新式魔法を放つと、青白く輝く湖面を透明な板が蓋をする。これは接近戦が主体のベルドランドを支援する魔法だ。不安定な足場でも超重量のフルプレートアーマーを支え、味方の戦意を上げる。疲労やちょっとした傷などを感じさせず、戦い続けるようになる。
仲間の築いた足場を蹴り、上位冒険者が二人、獣じみた雄叫びを上げて吶喊する。その間を抜けるようにエスラの副長が魔法を放った。
新式中級魔法、《音速針》。
威力以上に、速度に拘った魔法は両目を射抜かれた女神に難なく直撃した。避ける事さえできず、空気を固めて出来た針が彼女へと降り注いだ。女神は反撃をするどころか、立ち上がる事も出来ないまま、湖面に座り込んでいる。オルド達の間合いまで、あと少し。
しかし、ここで仲間から警告が飛んだ。
「団長、班長! この神気の影響下だと、精神力の消耗が通常よりも激しい! 下手に戦技や魔法を連発すると、すぐに空っぽになっちまう!」
オルドが斧を傾け、背後を確認すれば魔法を放った二人が今にも倒れこみそうなほど弱っている姿が刃に映った。燃費の良い新式魔法をそれぞれ一回ずつ放っただけでこれはあり得ない事だ。
「おもしれえ、だったら戦技ナシの純粋な力比べと行こうじゃないか、神さまよ!!」
血が昂り興奮したベルドランドの金棒が一閃する。それは唸りを持って女神の体に叩き込まれ―――彼女の体は、遥か後方へと弾かれた。
「……あれ?」
あまりの手応えの軽さに、兜の奥から気の抜けた声が出てしまう。誰もが、状況を理解できないまま、前方を凝視した。
迷宮の壁に激突した女神は、一瞬の浮遊の後に湖面へと落ちる。またしても地底湖に拒絶されるかのように彼女の体は沈まない。だが、四肢は投げ出され、青髪は蛇のようにのたうっている。
「……おい、オルド。これで終い、じゃねえよな」
「……知るか、そんな事」
呆気ない結末に、どこか引きつった声を出す友にオルドは何と応えればいいのか分からず吐き捨てた。
沈黙が痛い。あれだけ煽っておいて、こんな結末になるとはオルドは想定していなかった。もっとも、これはこれで助かるとさえ、考えるようになった。
「こうなったら、好都合だ。ふんじばって、地上に連れ帰るぞ」
「なんだか締まらねえ終わり方だが、仕方ねえな。おい、この足場をもっと広げて……オルド。どうやら終わりじゃなさそうだぞ」
声に歓喜の色が混じる。この状況を楽しんでいるのかと呆れつつも、オルドも気づいていた。ゆっくりと、女神が立ち上がろうとしていた。ずるり、ずるり、と体を重たそうにして立ち上がる姿に全員の視線が注がれる。
そして気づいた。
「参ったな。ベルドランド、お前にも見えているか」
「まあな。あの女、随分と綺麗な顔をしてやがるぜ」
二人が注目したのは、だらりと垂れる前髪の隙間から覗く青い目だ。ロータスが放った矢に貫かれたはずのそれは、神秘的な輝きを宿している。
無傷だ。元から貫かれていないように。いや、事実として最初から貫かれていないのかもしれない。魔法で拡張した足場に転がるロータスの矢じりに血のような液体はこびり付いていない。
「俺の一撃も、魔法の針も届いているようには思えないな。……こいつは、もしかすると、もしかするかもしれんぞ」
勿体ぶった言い回しだが、何となくベルドランドの言いたいことが伝わってくる。
古来から伝わる、13神と人との差が、この不可解な謎の答えかもしれない。
だが、もしもそうだった場合は間違いなくこちらが不利だ。どうするべきかと悩むオルドを尻目に、女神が口を開いた。
「『……そう。それが答えなのね。レイの事を知るためには、貴方達を倒さなければいけないのね。ありがとう、それなら心苦しくないわ』」
「急に礼を言われるなんてな。……どういうつもりなんだ?」
「『だって、あの人を知っているなら、私からあの人を奪うかもしれないでしょ。あの人に危害を加えるかもしれないでしょ。そんな危ない人、今の内に間引かなくちゃ。綺麗な花を枯らす雑草は、引き抜かなくちゃ、ね』」
本来なら神々しさを宿す瞳は、どす黒い闇を抱えて光を失っている。女神がゆっくりとした足取りで向かってくるのに対して、オルドとベルドランドの二人は構えて待つ。
その距離が縮まり、遂には間合いへと達した時、地底湖の中心で嵐が吹き荒れた。
ベルドランドの金棒が空間を削りかねない勢いで振るわれる。それは、乱雑な軌道を描くようでいて、相手の関節や急所を狙う的確な攻撃だ。
オルドはそれに合わせるように、自分の巨大な斧を振るう。
オルドとベルドランド。どちらも身の丈並みの巨大な武器を振るう超重量級の冒険者だ。鍛え抜かれたパワーによって振るわれる攻撃は、暴風に匹敵する。それが一撃で終わらず、連続して何発も何発も何発も、相手が倒れるか、原型を留めなくなるまで続く。味方ですら敵に同情してしまう虐殺行為だ。
本来なら、一人で連続して攻撃を繰り出すにも限界はある。どうしても隙が生じてしまう。だが、長年の経験と、互いの手の内を知る二人だと違った。片方に生じる隙を、もう片方が潰す。打ち合わせも、アイコンタクトも無い、二人で一つの存在の如き暴風に終わりは無かった。
若干、いつもと違うが、これはこの六人の必勝パターンでもある。
ロータスが相手の急所を狙う事で動きをけん制。魔法が得意な副長たちが状況を整えたり、相手に一撃を与える事で前衛が敵と距離を詰める時間を稼ぎ、化け物じみた破壊力を持つ二人が相手を一方的に削っていく。
オルドとベルドランドの重い攻撃を跳ね返すのは至難の業だ。息を吐かせない連携では回避も難しく、防御に徹するにしても終わりの無い嵐にいずれは相手が息切れをしてしまう。
―――その一瞬の隙を待っている女が居た。
全員の一番後背に控え、息を整えている。鼻から吸い込んだ香料は、一時的に体の感覚を強化させ、周りの光景をゆっくりと知覚させる効果がある。両足に力を込めて、その瞬間を待っていた。
金属音が肉を打つ音が最高潮に達し、オルドが叫ぼうとして息を吸う。
極限まで集中を高めたエスラには、それだけで十分だった。ロータスや副長らの背後に居た兎人族の姿は消え、次の瞬間には女神の後ろに現れていた。瞬間移動と見紛う速さだが、世界は帳尻を合わせるように、彼女が消えてから出現するまでの間に突風が遅れて吹き荒れる。
『首狩』の本領発揮だ。
オルドとベルドランドの二人による息を吐かせぬ連続波状攻撃に耐えきれなくなった敵の、例えるなら息継ぎをしようとして水面から上げた頭めがけて刃を通す。兎人族として異常に発達した両足と、肉体強化の魔法による超高速移動。
デカい二人の猛攻で、意識も削れた敵に回避という選択肢は無く、ことりと頭が落ちる。というのが、いつもの決着だった。
しかし、今回は違った。
女神の美しくも恐ろしい美貌は首と繋がったままだ。
女神の後方まで飛んだエスラの体は、地底湖の一番奥の壁に着地した。つい先程、女神が叩きつけられた場所と一致している。
ふわり、と。体重なんて感じさせない柔らかな着地。だがその一秒後に壁面は丸く窪み、エスラの体は再び水平に飛翔した。
狙いは女神の背中だ。
落ちなかった首を目がけて、二度目の一撃必殺が放たれる。
オルドの眼を持ってしても白い残像にしか映らないエスラの超高速斬撃は、女神の首にククリ刀の刃が阻まれるという結果で終わった。
その結果にロータスや副長たちが驚く中、当の本人は舌打ち一つで済ませる。一撃目と同じ結果だったから、驚きは少なかった。
エスラは女神の背中を蹴り、空中で反転。透明な戦闘領域に着地するなり、オルドの横へと滑るように移動した。そして、正面から女神を視認して、見間違いではないと確認した。
「団長、筋肉ゴリラ。アンタ達、一体何発入れたのよ」
「俺は40ぐらいか。ベルドランド、お前は?」
「50より先は数えてねえよ。……まったく冗談じゃねえ。俺達二人掛かりであれだけ浴びせて、かすり傷一つ付いていないなんてな」
苦々しい感情と共に吐き出された言葉は、まさにその通りだった。ロータスが、副長が、オルドが、ベルドランドが、そしてエスラが放った攻撃は、女神の新雪のような柔らかな肌に傷を付けていなかった。彼女の纏う白い布も、破れてすらいない。
エスラは自分の刃に親指を押しあて、軽く引く。鋭い刃先は、軽く触れただけなのに、彼女の指先に赤い筋を作った。
血を舐めながら、彼女は自分の切ったはずの首を睨んだ。
「切れ味は落ちてない。刃も首の肉に入っていた。でもそれだけ。傷どころか、刃筋すら入らないなんて、そんなのありなの?」
「全くだ。斧に手ごたえはあるのに、それが痛みとして反映されていねえ。最初の一撃で吹き飛んだが、それ以降は叩いた衝撃すらどこかへ消えちまった」
まだ、傷口が超回復などで修復されたとかなら理解できる。
まだ、攻撃が技能や魔法で防がれたなら納得できる。
これはそのどちらでも無い。
武器は当たる。ただ、それだけなのだ。
「こいつは厄介だな。古代種や精霊でも、俺達の攻撃は一応通じる。だが、神には届かないって事かよ。人じゃ、神には敵わないのか」
「愚痴りたいなら酒場で飯炊き女相手にしてな。こうなったら、やる事は一つだろう」
「ベルドランド。随分と自信がありそうだが、何か作戦でもあるのか」
尋ねると、ゲラゲラと笑った。おそらく兜の奥で、いつもと同じ獰猛な笑みを浮かべているのだろう。
「五十で駄目なら百。百で駄目なら千。千で駄目なら万叩き込めばいいじゃないか!」
吼えると同時にベルドランドは突進する。横薙ぎに振るわれた金棒は女神の腹部にめり込むが、それだけだ。肉が弾け、血が流れるような事は起きない。
だが、ベルドランドは承知した上で金棒に力を込めた。女神の体が持ち上がり、そして魔法で作った足場へと叩きつけられる。
「副長! 最大硬度!」
それが何を意味するのか、長い付き合いの副長は理解した。彼は異常なほど消費するようになった新式魔法を詠唱する。
「《超短文・中級・戦闘領域! 《超短文・中級・戦闘領域! ショ、《超短文・中級・戦闘領域!!」
詠唱する事三度。湖面に張られた板が更に三枚重ねられる。
神気によって精神力が消耗されやすい状況で魔法の重ね掛けは自殺行為に等しい。代価を払う事になった副長の体は崩れ落ちた。
ベルドランドは振り返ることなく、ただ一言。
「よくやった」
それが万の言葉に勝る労いであり、命懸けの報酬だ。
ベルドランドは板の上で倒れ、艶の無い瞳で天を仰ぐ女神へと金棒を落とした。
ゆっくりと落ちるそれは、女神の体を上から抑え込んだ。
「どうだい、女神さま。痛くは無いだろうが、動くことも出来ねえだろう」
ベルドランドは五十を超える乱打の中でも、長年の経験に基づく観察眼で女神を分析していた。オルドとのコンビネーションを浴びて無傷を貫く異常性はさておき、彼女の立ち姿は完全に素人だ。
攻撃を避ける事も出来ず、防ぐことも出来ず、ただひたすらに浴びる。
幾ら浴びてもダメージにならないのなら、防御も回避も無用なのは理解できる。重要なのは、彼女が素手による反撃をしようとしていた事だ。
拳を握った事も無いのだろう。伸びきった腕はこちらを掠めるどころか、届く気配すらしない。その腕もオルドの斧で横へと弾かれた。重要なのは、弾かれたことだ。
女神に攻撃は届かなくても、単純な力比べならこちらの方が上だと言う証拠になるとベルドランドは踏んだ。
事実、彼が投げた金棒の重さで、女神は身動きが取れなくなった。
その上に、全身を鎧で固めたベルドランドが圧し掛かった。女神は重さを感じないように平然と、何の感情も浮かばない青い瞳でマウントポジションを取った男を見つめた。
吸い込まれそうな青い瞳に向けて拳が降り下ろされた。
一発、二発、三発、四発、五発。まだまだ続く。
上位冒険者とは思えない、粗野で乱暴で暴力的な殴打。場末のチンピラですらまだ上品に戦うだろうとロータスは思ってしまう。
彼女は矢を番えながら、光の足場を渡りオルドへと近づいた。
「ベルドランドは興奮状態に陥っています。このまま黙って見ているつもりですか。もっと有効手段を引き出すべきじゃありませんか」
ベルドランドのやり方は無駄じゃないかと訴えると、オルドは意外にも首を横に振った。
「心配するな。あれでも、奴にしては冷静だ」
「冷静、ですか。私にはそう見えませんが」
「アイツだって、単に殴って効果が出るとは考えていない。それよりも重要なのは、女神の持つ権能が何なのかだ。神にしか許されない、いわば神の技能。アイツは自分を囮にしてそれを引きだそうとしているんだ」
その説明にロータスは納得した。オルドやエスラがベルドランドの暴走のような行為を止めないのも、参加しないのも相手の行動を待っているからだ。
ロータスも相手の情報を引き出そうと萌黄色の瞳を向けて、ある事に気が付いた。
立つ位置の関係で、ベルドランドが女神を組み敷いて一方的に拳を叩きこむのを、彼らの斜め後ろから見ている。そのため、拳が雨あられと降り注ぎ、それでも何らダメージを与えていないのも、そして女神の両腕がゆっくりと持ち上がるのも見えた。
「ベルドランド、来るぞ!」
オルドの警告にベルドランドは気づいていた。スリット上に狭められた視界の端で、女神の白い無垢な手が持ち上がるのを。それが自分に触れようとしているのを。
これを待っていた。女神に攻撃が通じなくとも、相手が攻撃してきたときは違うかもしれない。鉄壁の城壁も、中から打って出る時は城門が開く。ベルドランドは渾身の一撃を籠めようと右腕に精神力を回す。そして自分の鎧に女神の手が触れた瞬間、拳は一気に降り下ろされた。
―――途端、ベルドランドの視界が大きく横に傾いた。
地底湖に弱々しい音が響いた。それは今までの猛攻が嘘のような弱さで、攻撃と呼ぶには余りにもか細い。何が起きたのかと全員が注目する中、ベルドランドの巨体が傾き、崩れ落ちた。
まるで、吊るされた糸で動く人形が切り離されたように。
「『うん。だんだん、思い出してきたわ。そう、こうすればいいのよ』」
「べ、ベルドランド!」
友の名前を叫ぶオルド。あまりにもあっけない敗北に、全員がそのまま死を想起させた。だが、予想外な事に金属の塊から声が返ってきた。
「……うるせぇ、女みてえな声だしてんじゃねえよ」
「生きてやがるのか、今、向かうぞ!」
言うなり、オルドが走り出した。崩れ落ちたベルドランドの巨体を持ち上げられるのは彼しかいない。ぐったりと倒れこむ男の腕を掴み、肩を貸すと、オルドは女神の方を向いた。
確かに、女神の攻撃を無効化する特性は脅威だが、力そのものはそこまでじゃないという認識が一同の中に生まれつつあった。
攻撃が通じないのは厄介だが、物理的な重さに抗う事は出来ない。金棒を持ち上げる事が出来ないのなら、それこそ迷宮の岩盤を落としさえすれば無力化できる。
そう考えていた全員を嘲笑うように理解しがたい現実が次々と生まれる。
女神の腹部に圧し掛かり、身動きを取れなくしていた金棒に、女神の白い手が触れた瞬間、そこから金棒が腐り出した。
「なんだ、これは。俺は何を見ているんだ」
叫ぶ時間で十分だった。腐食は一気に広がり、ベルドランドを支えてきた金棒は中心から二つに別れ、そしてこの世から消え去った。
あり得ざる光景を前に足を止めたオルド。その彼に向けて、女神の瞳が合わせられた。
「『邪魔、邪魔、邪魔。邪魔をしないで、道を塞がないで。あの人に会わせて、会わせて、会わせて、会わせて、会わせて……会わせなさい』」
繰り返される言葉にオルドは歯噛みする。神気を全開にした神の言葉は、体の外と中を同時に揺さぶっていた。
身動きの取れないオルドの前で、女神が立ち上がる。すると、その背後の空間が歪みだした。現れたのは時計などに使われる歯車だ。どれも直径が人の胴体程はある。
「『教えてくれないのなら、教えてくれるまで、懲らしめれば良いのね。そっちから、泣いて地べたを虫のように這いずり、頭を垂れるまで、何度でも折ればいいのね』」
「随分と過激な事を言いやがるな!」
オルドはその場で半回転すると抱えていたベルドランドを後ろに投げた。魔法の上を巨体が勢いよく転がっていくのを微かに捉えつつ、更に半回転して正面に向き直ると迫りくる歯車を斧で受け止めた。
女神が出した歯車は合計で六個。それらは彼女の意思に導かれるように回転しながらオルドを狙う。
「やらせません!」
「背中は任せなさい!」
オルドの側面と背後に回り込む歯車はそれぞれロータスとエスラが撃ち落す。だから、オルドは正面から迫る歯車に意識を集中できた。
金属がぶつかり合い、火花を散らす。上下左右、自由自在に迫る歯車をはじき返しながら、オルドは先程の光景を繰り返し思い出して検証していた。
ベルドランドが突然倒れ、そして金棒が腐食していく姿。あれはどう見ても神としての権能が発動した瞬間だが、あまりにも効果が違い過ぎる。
動作は似ているのに、結果が違う。
女神の正体に迫るには情報が不足している。これ以上の情報を収集するには更なる犠牲が必要かと考えた瞬間、彼女が視界から消えた事に気づいた。
「な、どこだ!?」
「『ここよ』」
声は自分の思っているよりも近くからした。
歯車と刃の間。普通ならば死地と呼ぶべき場所に、女神は身を置いていた。
オルドは迫る歯車を弾き返そうと行動に移している最中であり、斧は止まらない。間に割り込んだ女神に向けて近づいていく。
すると、女神の手が刃を掴もうと伸びた。瞬間、脳裏に浮かぶのは腐食して崩れた金棒の姿だ。オルドは斧を引き戻そうと制動をかける。
だが、手遅れだった。
鋭い刃先が十分な重量を乗せて、女神の柔肌に食い込む。無論、それ以上の変化は与える事は出来ず、そればかりか触れた部分から斧は腐食していく。彼女の手から斧をもぎ取った時には、もう遅かった。斧は斧の形を留めておらず、柄が僅かに残った。
武器を失ったオルドに向けて、女神の掌が迫った。背後に跳ぼうとしたオルドだったが、奇妙な事にそれよりも先に女神の魔手が届いた。
ひたりと、この世ならざる存在の感触に思い浮かべるのは金棒や斧の末路だ。しかし、予想に反してオルドの体は腐り落ちるような結末にはならなかった。
代わりにオルドの全身から力が抜けていく感触があった。
「なんだ、これ。防具が重たくなった? いや、ちがう。俺から力が抜けたのか」
まるで生まれたての赤子のように、無力さだけが全身を包む。そこに歯車が高速でぶつかった。本来なら直撃しても受け止めきれる一撃で、オルドの巨体が吹き飛んだ。
「団長!」
「これは……これ以上の戦闘行為は不可能よ! 退くわ、ロータス!」
一撃で入り口まで吹き飛ばされたオルドを見て、ロータスとエスラも大きく後退する。
女神の動きは緩慢のため、二人は難なく、仲間の元へと合流できた。
「無事ですか、団長!」
「耳元でキンキン騒ぐんじゃねえよ。……おい、ベルドランド。お前さん、倒れたのはもしかして鎧が重くなったからか」
体を起き上がらせて、奇妙な質問をしたオルドを全員が訝しむ。だが、同じ目に遭ったベルドランドは意味を正確に理解していた。
「その口ぶりだとてめぇも力が抜けたようだな」
「ああ、全身から力が抜けた。あんな大したことない一撃に此処まで痛みを味わう事もありえねえ」
鼻に詰まった血を噴き出し、どうにか立ち上がるオルド。ベルドランドも同様に、フラフラの体を起き上がらせた。
力の虚脱は一瞬。だが、確かに全身から力が抜けた。
いや、抜けたというよりも、
「ありゃ、戻ったのか。昔の自分に」
口にしてからあり得ないと頭を振ろうとしたオルドに、ロータスが息を呑んだ。
何かに気づいた様子の副団長に全員の視線が集まった。
「おい、ロータス。何か、気づいた事があるなら言ってみろ」
「……可能性だということを理解した上で聞いて下さい。団長やベルドランド班長の武器が腐食したのは、時間を進められたから。鎧を支えられないぐらい力が抜けたのは、レベルが巻き戻ったからではありませんか」
その言葉に、全員がハッとする。それならば、別々の事象のように思えた神の力に説明が着くのだ。
時間。それを操る権能に該当するのはただ一人。
「じゃあ、あれは時の女神、クロノスって訳か」
「分かった所で打つ手が無いってのが厄介よね」
「そうでもないぞ。権能と攻撃無効や精神汚染といった特性が分かっただけで十分だ。ここは撤退して、作戦を練り直すぞ」
オルドの指示に誰も異を唱えない。このまま戦い続けても勝機があるとは思えなかった。
「『逃がさない、逃がさない、逃がさない。貴方には喋ってもらいます。レイが何処にいるのか、答えてもらうまでは逃がしません』」
「悪いな、女神クロノス。女の誘いは断ったこと無いのが自慢だが、アンタの相手はしたくねえ。やれ!」
掛け声と共に副長たちから次々に魔法が放たれる。足元の水が触手のように女神を絡め取り、分厚い岩盤が氷柱と共に崩れ落ち、止めとばかりに氷の魔法が全てを固める。
これだけやっても、魔法の効果時間を加速されれば消えてしまう。
足止めが精一杯だ。
神気が充満している空間で魔法を使った事で、副長二人は完全に意識を失った。自力で立てるだけ回復したベルドランドが肩に担いで通路を駆け抜ける。オルド達も続いた。
「エスラ、通路も塞いでくれ」
「了解、《超短文・中級・土壁》!」
通路を全員が通り抜けたのを確認してエスラが新式魔法を発動した。地面が盛り上がり、通路を塞いだ。
「うわぁ。本当に、効くわ。随分と消費した」
くらりと体が傾くエスラにロータスが無言で肩を貸した。そして一行は、カーティスらと別れた広間へと辿りついた。そこに居たのは、カーティスと他に数名のクランメンバーだった。彼らはオルドを見るなり、何かあったのだと悟り緊張を漲らせた。
「何があったんですか、団長」
「詳しい説明はあとだ。一度、迷宮を撤退する。ベースの奴らにも指示を出せ。物資は最低限の物を回収して即時離脱だ」
有無を言わせない強い口調に、カーティス達もそれだけの事があったのだと察して頷いた。階段へと目指すオルド達に並走しながら、上層階へと連絡を取った。
「俺だ。団長からの撤収命令が出た。繰り返す、撤退命令が出た。至急、最低限の荷物を纏めて地上へ。残りは放棄。探索に出ている奴らを集めろ。そうだ、全員だ。……通達が終わりました」
魔法の通信を終えると、ちょうど階段の入り口に着いた。
状況が分からずとも、ひっ迫しているのだけは伝わっているカーティスも、これで一安心だと思い視線を上に向ける。
すると、そこに不思議な存在が立っていた。
髪の色は青色で、瞳も青色で、病的なほどに白い肌。
露わになる顔は絶世の美女の筈なのに、艶の無い瞳が空洞のようで、何故か言いしれない不安に駆られてしまう。
「……団長、あれって、一体なんですか」
震える声は、女から放たれる神気に当てられたからか。
だが、オルド達は答えられない。
何故なら、その女がそこに居るはずが無いのだ。彼女は地底湖にて魔法に押しつぶされた。通路を塞がれ、身動きが取れないはずだ。たとえ、魔法の時間を加速させたとしても、彼女の身体能力は常人以下だ。先回りなんて出来やしない。
もしも、エスラ並みの高速移動をしたとしても、空気が押し出されて突風が吹き荒れたはずだ。それさえも無い。
それなのに自分たちの上に立ち、行く手を阻もうとしている現実に、誰かが呟いた。
「……時間を……止めたのか」
あり得ないと否定できない。
何故なら、彼女は13神が一柱、時を司る神クロノスだ。
「『言ったはずよ。逃がさないと』」
絶望が歪んだ笑みを浮かべて宣言した。
読んで下さって、ありがとうございます。




