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試行錯誤の異世界旅行記  作者: 取方右半
第9章 故郷
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9-34 崩壊 『後編』

 頭をハンマーで殴られたように意識が飛んだ。


 途轍もない侮蔑の言葉を投げられたのだと気づくと、沸々と怒りが込み上げてきた。


「……正気ですか、ニュクス! 私を、『正体不明アンノウン』だと告発するつもりなのか。それも確たる証拠もなく、改ざんされた映像を話さないでいたという、そんな程度の理由で」


 青髪を振り乱し、激昂するクロノスをニュクスはせせら笑った。自身の言葉を始めから信用していない態度だ。


 嘲笑を浴びせられ、更に彼女は気炎を上げた。


「信じられない。いくら貴女といえど、言葉が過ぎる。撤回を要求するわ!」


「撤回なんてしないわ。だって、状況が全てを物語っているわ。貴女は映像の改竄をこの状況下で秘匿し、隠蔽していた。それは言ってしまえば、霧の中で彷徨う私達から方角を奪うのに等しいわ。それは何故? だってその方が、都合がいいからね。私達を欺き、虎視眈々と刃を研ぎ、最後の最後に振るう、その瞬間まで、神の一員として振舞うつもりなのでしょ。ああ、何て卑しい女。恥を知りなさい」


 他者を貶める事に愉悦を感じるのだろうか。ニュクスの青い瞳がどろりと歪み、優越感に浸っているのがはっきりと分かる。彼女は自分と議論を交わすつもりは毛頭ない。どれだけ声高に無罪を主張しても、初めから疑ってかかっているのだ。


 自分こそが、『正体不明アンノウン』であると。


 怒りのボルテージは振り切り、逆にクロノスは冷静ですらあった。


「……なるほど。どうやら、私と事を構えるつもりなのですか」


 冷静にキレていた。


 彼女の周りに神威が高まり、岩を削り出したような机や椅子が細かく振動する。神々に与えられし権能は、一つの兵器でもある。それは神の観測所であっても使用する事は可能であり、クロノスは行使も辞さない。


 クロノスの本気に何人かの神が身構える。時を司るクロノスは、神の中でも特殊な権能を持つ。それゆえ、止めるためには複数掛かりで、なおかつ全力を出さなければならない。


「あらあら。御自分の潔白を主張できないのを、私のせいにしないでくださります。無実を証明できない、後ろ暗いご自身を省みなさい。それに、貴女がそのつもりなら、応じても良くってよ」


 不敵に笑うニュクスの周囲に、闇色の神威が充満する。


 時と闇のぶつかる気配に、他の神々が色めきだした。


「おいおい。こんな所でおっぱじめるつもりか」


「喧嘩なんてやめようよ、二人ともぉ」


 しかし、仲裁に入ろうとしたタナトスや二アーの言葉は届いていないとばかりに、視線は火花を散らし、二柱の神が同時に動き出そうとした瞬間、


「そこまでにしておけ」


 と、一帯を震わす重々しい言葉に女神たちは硬直した。


 声を発したのは光を司る神ヘリオス。最も年老いた神は観測所全体を包み込むほどの威圧を発していた。


 それは推移を見守っていた他の神すら圧倒していた。


「両者ともに、そこまでにしておけ。神々同士が争ったとしても、何の益も無い。これ以上諍いを続けるというのなら、残りの十一の神が総力を持って貴様等を潰そう」


 13神の間に上下関係は無いが、それでもヘリオスは一目置かれる存在だ。彼がこうして呼びかければ、全員とまではいかずとも半数以上は彼に味方する。


 明確な警告を前にしてニュクスは肩を竦めた。


「分かりましたわ。場をお騒がせてしまい、申し訳ありません。ですが、私どもの告発をどうか聞き入れて下さいまし」


 優雅に頭を下げると、彼女は何事も無かったかのように席に着いた。


 対立する二人の内、片方が矛を収めてしまった。クロノスがこのまま怒りを滾らせていては面目が立たない。場を乱した事に謝罪をして、席に着いた。


 一触即発の空気が弛緩していくのを見計らって、魔を司るエリスが発言をした。


「ねえ、結局の所、話はあれがあるかどうか、と言う事に戻ったのかしら」


「あれとは何のことだい?」


「忘れたの、アネモイ。御厨玲の肉体があるかどうかの話よ」


 エリスの指摘に、そう言えばと何人かの神が反応を示す。元々、それを確認する為にクロノスが座に戻ろうとしたのをエレボスが止めたのだ。


「もっともである。エレボス、ニュクス、両名による、クロノスが『正体不明アンノウン』であるという告発が是かあるいは否なのか。それを判別するための方策は一つである。御厨玲の肉体が、果たして本当に存在し、治療中なのか。それが、この場にわだかまる疑念を払しょくする、唯一の術であろう」


 重々しく告げたヘリオスに全員が同意した。激突は未然に防いだが、クロノスに対する嫌疑は晴れていないのだ。


 仮に肉体があれば、クロノスの言は正しく、レイの話した内容に偽りがあるとなる。


 逆に肉体が無ければ、レイの言は正しく、クロノスの行動に偽りがあったとなり、彼女が『正体不明アンノウン』かどうかはさておいても、拘束する必要がある。


「流石に、この流れでクロノスに取りに行ってもらうのは難しいわね」


 周りの神の顔色を窺いつつ、オケアニスが呟いた。いつもは対立するプロメテウスですら、その意見に小さく頷いた。


「まあ、仕方ありません。どなたかに確認してもらうしかありませんね」


 何処か楽しそうに発言したのはクロノスの兄であるサートゥルヌスだ。楽天的な性格なのか、場の空気を読めない馬鹿者なのか。締まりのない笑みを浮かべている神に、バーンは呆れていた。


「……そうなのだが、貴様がそれを口にするのはいささか間違っているような気もするのだが。サートゥルヌス、貴様とて妹ほどではないが、疑わしき存在である自覚はあるのか」


 苦言に対してサートゥルヌスは答える様子は微塵も無かった。


「ははは。いやはや、我が身の不徳にいたすところで、申し訳ない。では、バーン。貴方が確認をしに行きますかな」


「むぅ。……私は、その」


 水を向けられると、一転して口籠る。その巨体に見合わない気弱な声を上げ、助けを請うように視線を左右に振った。だが、その視線から逃れるように他の者は目を逸らした。


 それもそのはずだ。


 神が座する場所とは、その神を頂点とした空間。例え、13神の間に上下関係が無くとも、各々の座ではその限りでは無い。言ってしまえば、他の神の座に入るのは、絞首台に首を預けるのと同じだ。


 神は死ぬことは出来ないが、それでも無力化する術はある。


 クロノスの座に飛び込むというのは、彼女の体内に飛び込むのと同義であり、どのような罠が待っているのか。それは誰にも分からなかった。


 わざわざ危険な橋を渡りたがる者は居ないのだ。


「おや? おやおや。どうやら、誰も居ないようですから、ここは俺が名乗り挙げましょうかな」


「戯けた事を抜かしているんじゃねえ。お前は黙ってろ!」


 サートゥルヌスはプロメテウスの一喝に首を竦めた。そして、前髪の隙間から、手を伸ばしている神に気が付き、呼びかけた。


「これは……ニュクスですかな?」


「違うよ。エレボスだ」


 否定の言葉に一同は納得した。陰鬱な雰囲気を纏わせた男神は視線を誰とも合わせずに、


「俺が行くよ」


 と、短く告げた。


「ほほう。それはまた、勇敢な行動ですが、いかなる気持ちですかな」


「クロノスの事を疑わしいと糾弾したのは俺だ。だから、その言葉を吐いた責任は俺が取るのが筋だ。ちょっと、エレボス! 何を言いだしているのよ!」


 突如として、金切り声を上げたのは誰であろうエレボス自身だった。雰囲気が、コインをひっくり返したように変わった神は恐ろしい剣幕でまくし立てる。


 その相手は他ならぬ自分自身だ。


「アンタ、正気なの!? この女が座でどんな罠を仕掛けているのか分からないじゃないの。それなのに行くなんて、気でも触れたの。でも、俺が言いだした事だし。でもじゃないわよ! 私は反対よ。ええ、反対反対反対、絶対反対! 私がアンタの意見に賛同したのは、レイへの嫌がらせになると思ったからなのよ。君は相変わらずフィーニスの事が好きすぎるだろ。熱愛を通り過ぎて、妄執だよ。それの何処が悪いのかしら。神の寵愛なんて、あの子は感激して受け止めるはずよ!」


 目まぐるしく変わる口調や雰囲気。遂には自分の言葉に悦に浸るニュクスに対して、他の神はため息を吐くしかない。心なしか、両隣の神は距離を取ろうと身を捩っている。


 二人で一人の神。どちらかが起きている時は、どちらかが寝ているなどと言う事は無く、常に二つの人格は主導権を争っている。自身が呼んだ『招かれたフィーニス』への愛が重すぎるニュクスの方が暴走しやすいため、エレボスは手綱を取れずに一人芝居のようなやり取りは何度も繰り返されてきた。


 一度悦に浸るニュクスはしばらく戻って来れない。


 それを知っているエレボスは強引に主導権を取ると、


「まあ、そういう訳だから俺が行くよ。みんな、文句は無いね」


 誰も止めようとはしなかった。


 エレボスは虚ろな瞳をクロノスへと向けて、


「いいかな? 君の座への入室許可を貰っても」


 と、尋ねた。


 クロノスとしては断る理由なんて無い。誰が何と言おうと、自分が事故を起こしてしまい、死にゆく御厨玲の体を回収し、彼の世界の神と交渉して責任を持って治療に入り、レイとしての肉体を与えたのは間違いないのだ。


 日々、僅かずつだが修復されていく体を、彼女はこの目で見て、触れている。それが偽りの筈がない。


 一片のやましい所が無いがゆえに毅然と返した。


「構いません。どうぞ、私の座にお入りください」


 そう告げた瞬間―――世界が揺れた。


 神の観測所全体が大きな振動に揺れた。


 神々は席から放り出されてしまう。立つこともままならない揺れに誰もが焦りを浮かべた。


「どういう事だ、これは!」「宙を見ろ。ひびが入っているぞ」「もしかして、外部から攻撃を受けているとのでしょうか」「そんなのあり得るものか!? 一体、どこの誰が?」


 混乱と共に増していく振動に、星々で埋め尽くされた天井は崩れていき、世界は無数のひびを抱えている。このままでは観測所自体が崩壊してしまうと、全員が覚悟した。


「一同! 今は、各々の座に戻れ! 状況が落ち着き次第、ここに戻ってくるのだ!」


 それは誰の声だったか。


 ともかく13神は自らの身を守る為に、一柱、また一柱と己の座に戻っていく。


 そんな中、クロノスは兄の姿を探した。床が割れ、傾いていくのを掴み耐えていると、大理石を削った様な机にしがみ付く兄を見つけた。一心不乱に、開いた『窓』に何かを打ち込む姿は鬼気迫る物があった。


「兄さん! 貴方も、早く自分の座に戻って!」


 その言葉が届いたのかどうか。クロノスは確かめる時間も無く、自身の座へと転移した。


 強制転移による酩酊が頭を襲う。視界が歪み、体の軸がふらつく。神といえど、万能とは言い難いのだ。吐き気すら催す自分の体にもどかしさを感じつつ、クロノスは周囲を確認した。


 白一色の空間を埋め尽くすように置かれたのは、時計の文字盤だ。どれもバラバラの時間を指し、速度も一定ではない。それどころか、巻き戻る物すらあった。


 ここはクロノスの座だ。


 自分が間違いなく座に戻れたことに胸をなで下ろしつつ、クロノスは外部との連絡を取ろうとした。しかし、開いた『窓』に映るのは砂嵐だけだった。


 どうやら、外部との連絡を遮断されたようだ。


(予想外の事態ね。まさか、神の領域に攻撃が加えられるなんて。一体、どこの誰の仕業よ)


 これまで永き時間を、『神々の遊戯場エルドラド』の管理に携わってきたが、よもや神々の領域が攻撃される事になるなど、前代未聞だった。


 神が存在する領域は、エルドラドの外でもあり内側だ。卵で例えるなら、殻の部分に当たる。殻が砕ければ、中身がどうなるかは言うまでもない。


 それゆえ、他の世界を管理する神も、神々が存在する領域に攻撃を加えると言う事を禁止していた。一度行えば、報復されるのは自分だ。報復を恐れる事が抑止力となって、誰も実行してこなかった。


 世界が崩壊したとしても死ぬ事は無い神にとって、唯一の死とも呼べる物は退屈だ。


 世界を管理するという役目を失えば、神は膨大な時間を、永遠とも呼べる時間を虚空で漂う事しか出来なくなる。それは存在しているだけに過ぎず、退屈は神を蝕む。


 だからこそ、13神もエルドラドを消失させないために時間を巻き戻すという暴挙に出たのだ。


(……今は襲撃者について考えるのは止めましょう。観測所が破壊されたとしても、座に神が戻った事でこれ以上の攻撃は意味を成さない。神が座に居る限り、神の領域は不可侵であり不滅。内部から崩れない限りは、ね)


 今思い返せば、座に戻るように提言したのはヘリオスだろうか。ひたすらに混乱していた状況下でいち早く冷静になったのは流石の一言だ。


 ともかく、クロノスは無事を祝うよりも、襲撃者を推測するより前にするべき事があった。


 彼女が右手を振るえば、空間に螺旋階段が現れた。


 それは座の上へと伸びていく。


 女神はトーガが捲れるのも構わずに、一辺に何段も飛ばして昇った。


 円を描く階段の頂上には、祭壇があった。下の、文字盤だらけの乱雑な空間とは違う、静謐で神聖さすら漂うその場所こそ、御厨玲の肉体が治療している場所だ。


 彼女にとって罪を贖う場所であるため、何人たりとも入らせない、まさに聖域だ。


 クロノスは緊張した面持ちで祭壇へと近づいた。


 一歩近づくにつれて、不安が酸のように心を蝕む。あれだけ神々の間で自らの潔白を主張していたのに、心細さが表に出ていた。


 あり得ないはずの攻撃に気が動転しているのだろうか。不安を打ち払う事も出来ずに、祭壇へと近づき、彼女は願うように瞼を開いた。


 ―――そこにあった。


 治療中の御厨玲の肉体が、確かにそこにあった。


 衣服は纏わず、透明な箱に収められた肉体はあるべき形へと戻ろうとしている。ここに運び込まれた時は、二目と見られない姿だったのが、ガワだけは在りし日の姿になっている。もっとも、その下は、磨り潰したミンチのようではあるが。


 だが、確かに御厨玲の肉体がそこにあった。


 その事実に安堵から体から力を抜けてしまう。その場にへたり込んだクロノスは自然と、


「……良かった。……本当に良かった」


 膝を折ってへたり込むのは、自身の潔白が証明されたからではない。


 ここに御厨玲の肉体があると言う事は、レイが語ったあの残酷で悲劇的で、救いの無い話が間違いだったことになる。


 彼には家族が居て、友が居て、過去があって。レイにはきちんと帰るべき場所があるのだ。


 その事に、心の底から喜ばしく思い彼女は箱の表面へと手を伸ばした。


 途端―――全てが崩れた。


 御厨玲の肉体が光の粒子となって消えていく。


 まるで泡沫のように。


 彼女の抱いた安堵も、神としての誇りも共に。


「ああ、あああ、ああああ! こんな、こんなはずは!」


 透明な箱の中は、初めから何も存在していなかったとばかりに、空洞となった。目の前で起きた現実を受け止められずに、絶叫が彼女の口を突いて出た。


 青髪を振り乱しながら、あの日の事故を思い出そうと。必死に記憶を辿る。


 しとしと降りしきる雨に、アスファルトが焦げた匂いが混じり、人々の騒めきが自身を苛む。ひしゃげたトラックに踏みつぶされた肉塊から、血が広がっていく光景。それを目撃し、自身が引き起こした惨事だと気づいた時の、身の凍るような思い。


 それらもまた、御厨玲の肉体と共に泡沫となって消えていく。


「こんな、こんな事が。本当に、私は、私の記憶も、改ざんされていたというの!? それじゃ、玲様は、本当に。違う、違う、違う。こんなはずじゃ。何時から、記憶を歪められていたの!?」


 否定したくとも、否定できない現実に不安が心を覆い尽くそうとする。だが、クロノスは最後に残った矜持を支えとして立ち上がる。


 動揺のあまり口から出たのは、自身への問いかけであり、誰かへ投げかけた言葉では無かった。


 無かったはずだ。


 しかし、


「いつからというのならば、初めからだ」


 あり得ない事に返事があった。それも自らの背後から。


 雑音まじりの冷然とした声にクロノスは背筋にうすら寒い物を感じて背後へと振り返った。


 自分以外立ち入れない空間に、初めから存在したかのように、頭までをフードで覆った人物が立っていた。顔は見えず、性別すら分からない。


「貴方、何者なの。どうやって、ここに!?」


 相手を威圧するように身構えたクロノスだが、侵入者は小馬鹿したように肩を竦めた。


「この状況で、何者は無いだろ。だから、どうやっての部分だけは教えてあげよう。正面からだ。無論、入室許可は頂いてある」


「そんなはずはあり得ない。私は、入室許可なんて」


 口にしてから彼女は気づいた。つい先程、エレボスに対して許可を出したばかりだった。


 つまり、目の前の相手はエレボスなのだろうか。フードを深くかぶっているために顔は分からない。声から推測しようにも、何かしらの術で聞き取りづらくしている。男のようであり、女のようにも聞こえてしまう。


 だが、それは些細な問題だ。拘束してから捲れば済む話だ。


「……貴方が何者であるかは知りませんが、今の私はすこぶる機嫌が悪い。申し訳ありませんが、全力で排除させてもらいます!!」


 叫ぶと同時に、彼女は右手を振るう。途端に、彼女の周りが歪み、そこから時計で使われるような歯車が幾つも現れた。


 クロノスが背後へと飛ぶのと入れ替わるように、歯車は侵入者へと迫る。それを両腕で受け止めようとした侵入者だが、おかしな事が起きた。


 持ち上げた両腕が、どういう訳か下へと戻ったのだ。まるで逆再生するかのように、同じ軌道、同じ速度で。


 当然、防御の出来ない侵入者は歯車の直撃に遭う。体に歯車のおうとつが食い込み、苦悶の声があがる。


 侵入者は歯車を強引に引き剥がすと、クロノスめがけてそれを投げた。楕円を描いて飛ぶそれは、しかし、どういう訳か同じ軌道、同じ速度を逆に進み、再び侵入者へと突き刺さった。


「……なるほど。この歯車は周りの時間を歪め、巻き戻しているのか」


「気が付いたとしても、もう遅いわ。歯車は貴方を飲み込む」


 クロノスの言葉通りだ。その後も侵入者が防御なり、回避なりをしようとしても、歯車は時間を巻き戻したり、あるいは遅くして妨害した。


 一つ、また一つと歯車が侵入者を絡めとっていく。遂には、無数の歯車が侵入者を拘束した。それは時計の内部構造のようにかみ合っており、時間の流れが体の部位ごとによってバラバラだった。


「足は時間が停止して、腕は時間が遅くなり、体は時間が巻き戻っている。どうかしら? 時間の檻に掴まった感想は」


 自らの前で膝を折る侵入者へと、怒りを湛えた瞳を向けるクロノスは、自身の中で起きた怒りの感情を言葉と共に吐き出した。


「普通の人間なら耐えられない苦痛でしょうが、神ならばそれを耐える事も出来る。貴方こそが、13神の中に紛れ込んだ『正体不明アンノウン』なのでしょう!」


 クロノスとて、どれだけ認めるのが苦痛であっても認めざるを得ない。


 シアラやレイ達の推測は全て正しかった。


 自身の記憶はねつ造され、御厨玲の肉体も認識が改ざんされていた。これまであった事実が根底から崩れ去ってしまった。侵入者と戦っている最中、彼女はそれを受け入れるのに必死であり、受け入れたからには考えを進めないといけない。


 つまり、神々の中で何が起きているのか。


 ヨシツネの言葉通り、神々の中に誰かが紛れ込み、それを世界規模で改竄した存在が居るとしたら、それは確かに『正体不明アンノウン』ぐらいしか思いつかない。


 例え、この侵入者が『正体不明アンノウン』じゃなくとも、敵意ある存在なのは違いない。


「まずは、そのフードを捲り、貴方が何者なのかを教えて貰いましょう」


 言って、身動きの取れない侵入者のフードを捲れば―――そこにあったのは苦痛に顔を歪める自身の顔だった。


「……え? わ、私!? そんな、馬鹿なことが」


「あり得ない、と。確かにあり得ないな。普通なら、ね」


 雑音が耳朶を引っかく、冷淡な声と共に周りの風景が溶けていく。拘束していたはずの、自身の顔をした侵入者が消えるのと同時に、クロノスの視界は全く別の物を映していた。


 それは拘束したはずの侵入者が、捲ったはずのフードを下ろしたまま、祭壇に置かれた透明な箱の上に座っている光景だ。クロノスはそれを見上げる形となっていた。


 なぜなら、彼女は膝を屈して、自身の権能で生み出した歯車に拘束されていたのだ。


 その事実を認識した途端、体に掛かる時間の流れが乱れだす。その苦痛たるや、体を内側からねじ切られるような物。クロノスは痛みに呻いた。


「ぐぅうううう! どうして、こんな。何故、私が!?」


「美女の悲鳴は耳に心地よい。何時までも聞いていられそうだ。とはいえ、どうしては頂けない。何故なら、もう気が付いているのだろう。私が、どんなことを出来る存在なのか」


「まさか、貴方。私の認識を改竄したというの? この戦闘中に!?」


「正解だ。見ていて滑稽だったよ。君は、自分に向けて歯車を幾つも、幾つも、幾つも突き刺した。正しく時間の檻を生み出した。その中に入りこみ、内側から鍵を掛けて、鍵を飲み込んでしまった感想はどうかな?」


 問いかけに応じる余裕はない。全身の至る箇所で時の流れがバラバラになっている。それを正そうと意識を集中するが、秒単位で時間の向きや速度が変わる拘束に、絶え間なく襲ってくる苦痛の中では解除できないでいた。


 そんなクロノスの状況など構わずに侵入者は喋るのを止めなかった。


「御覧の通り、これが私の力さ。記憶と認識。その両方を自在に改竄できる。12神は全員が私の支配下であり、何時でも思い通りに動かせるという訳さ」


「それじゃ、さっきのニュクスやエレボスの告発も、貴方がそうさせたの」


「さてさて。それはどうかな。謎を全て詳らかにするのは、興ざめだろう。マジックを見に行く観客は、トリックの解説をせがむのではなく、日常では味わえない驚きを堪能するためだろう。そんな些細な謎よりも、君には聞きたいことがあるはずだ」


 聞きたい事と言われれば、それこそ幾つも思いついた。


 本当に『正体不明アンノウン』なのか、13神の誰なのか、レイを送りこませて何を企んでいるのか、どうして植えつけたのが御厨玲の記憶だったのか。後から湧き出てくる疑問だが、それを侵入者が正直に答えるとは思えなかった。


 記憶と認識を改竄されると言う事は、ここで見聞きしたことが正しいのか分からず、覚えていることすら危うい。だからといって、時間を稼げるチャンスを手放す訳には行かない。


 彼女は侵入者が本当の事を口にするかどうか際どい質問をぶつけてみた。


「……観測所が攻撃を受けたのは、貴方の仕込みですか?」


「おや。よもや、そんな質問を受ける事になるとは意外だな。まあ、構わないさ。あれだけ必死に潔白を主張し続けた君に倣い、私も自身の潔白を主張させてもらう。あれは、間違いなく、私とは無関係さ」


「信じられません。あのタイミングで、都合よく、攻撃なんて。あり得るはずがない」


「何とでもお好きに。まあ、強いて言えばタイミングは十分にあり得たさ。十四番目の『招かれた者』が来たのと同じ理由さ。彼方側で、黒龍が復活したことで、彼方と此方を隔てている狭間が揺らいだ。薄く張った水面に波が起きれば、自然と厚い所、薄い所が出来るだろ。それを狙って攻撃を仕掛けた奴が居るのさ」


 侵入者は観測所を攻撃した者に着いて心当たりがあるようだ。同時にその人物とは協力関係に無いのが口ぶりから分かる。


 この記憶を何時まで保持できるか分からないが、クロノスは脳に刻み込みつつ、次の質問へと移る。


「私を……このまま無力化するつもりですか、『正体不明アンノウン』」


正体不明アンノウン』と呼びかけたのは反応を探るためだ。フードで表情を隠している侵入者は、呼びかけを否定も肯定もせずに、


「無力化じゃ無い。君には悪いが、ここで脱落してもらおう」


 拘束されているクロノスには、侵入者の言葉は理解できなかった。しかし、奴が取り出した物を見て、表情を一変させた。


 手袋をした手にあったのは、青い鍵だ。


「その鍵は! まさか、貴方の狙いは!?」


「御明察。君にはエルドラドに落ちてもらおう」


 神を殺す事は出来ない。ただしそれは、神としての機能が正常に働いているのならば、と頭に付く。無神時代が始まるよりも前、あるいは一週目のエルドラドでは、神は地上に降りたとしても不死であった。


 しかし、今のエルドラドは違う。時間を巻き戻した事で、他の世界の神々から直接的な介入を禁止されてしまった。それを破って地上に降り立てば、神としての力を、機能を、不死を、全て失う事になる。


「幸い、観測所は奴の攻撃で破壊され、しばらくは機能しない。筋書きはこうさ。騒動の混乱によって座に戻った君は、内部で鍵を掛け、座に引き籠る。兄であるサートゥルヌスの呼びかけにすら応じず、沈黙を貫く間、本当の君はエルドラドで人知れず死ぬ。死に方ぐらいは、君に選ばせてあげるよ」


 何の感情も込められていない、どこまでも平坦な声に寒気すらした。


 侵入者が手を振るうと、何もなかった場所に扉が現れた。その鍵穴に青い鍵を差し込み、ドアノブを回せば、そこにあったのは無辺の闇だ。


「さて。落ちる前に、念には念を入れさせてもらおうか」


 誰かに聞かせる訳も無く呟くと、侵入者はクロノスへと近づいた。膝を屈する彼女に対して、手袋を外すと彼女の目を塞ぐように手で覆った。


「何かの間違いで生き残られても困るからね。記憶を奪わせてもらおう」


 告げられた途端、彼女の網膜を通じて光が脳を焼く。虹色に輝く極光は、壮絶な痛みと共に、彼女の記憶を焼却していく。


 これまでにあった事を、神々たちとの交流の事を、レイの事を、全てが虹色の光に飲み込まれていく。


「止めて、止めて、止めて! 私から、記憶を、みんなを、奪わないで!」


 必死に叫ぶも、懇願が通じるはずもない。侵入者は冷徹に、彼女の中から記憶を消去していく。


 あと数秒もあれば、空っぽの神が誕生する、まさにその時だった。


 クロノスが最後の気力を振り絞って、反撃に出た。


 自身に突き刺さった時の檻を打ちこわし、新たに生み出した小さな歯車を飛ばした。


 記憶の消去を行っている侵入者は、手でクロノスに直接触れているため避ける事は出来ない。だが、避ける必要が無かった。


 既に認識は改竄されている。自身への攻撃は全てクロノスへと向かうように弄ってあった。小さな歯車は、侵入者の狙い通りにクロノスへと突き刺さった。


 同時にそれは、クロノスの狙いでもあった。


 手で覆われていない口元が不敵に笑うと、侵入者が声を荒げた。


「馬鹿な? 記憶が、焼却している記憶が戻りつつあるだと!?」


 虹色の光に飲み込まれ、灰も残らずに消えるはずのクロノスの記憶。それが、不死鳥のように蘇ってくるのだ。


 あり得ない事態に狼狽するのは一瞬だった。侵入者はクロノスの胸に突き刺さった歯車の役割に歯噛みした。


「そうか。君は、自分の時を巻き戻しているのか!」


 彼女は初めから、自身を狙って歯車を飛ばしたのだ。消された記憶を復元する為に。


 泡のように弾けて消えるはずの記憶が、泡のように次から次へと復元していく。言葉にすれば簡単に聞こえるかもしれないが、依然として侵入者による記憶の焼却は起きているのだ。


 脳という空間内で、焼却と復元が並行して行われているというのは、炎で焼かれながら肉体が再生するのと同じだ。常軌を逸した痛みを味わっているはずだ。それを受け入れているクロノスに対して、動揺してしまった。


 その一瞬をクロノスは見逃さなかった。


 侵入者の手から逃れると、彼女は一目散に走る。座から逃亡しようとしても認識の改竄に加えて、記憶が焼却された影響からか、転移のやり方が分からなかった。沸騰しかけた脳で選んだ道は、一つだ。


 彼女は侵入者が生み出した、エルドラドへの扉を潜った。


 無辺に広がる底なしの闇に飲み込まれる直前、クロノスは自身に向けて手を伸ばす侵入者に叫んだ。


「貴方は、必ず、私が!」


 その後に続く言葉は何なのか。それを確かめるよりも前に、扉は閉じてしまった。


 現れた時と同様に消えた扉を前に、侵入者は思案するように動きを止めた。


 そして、落とした手袋を拾い上げて嵌めると、『窓』を呼び出した。画面は何も映し出していないが、構わずに語りかけた。


「私の愛しき娘が一人。聞こえるかな」


 それはクロノスとのやり取りのなかでは一度も出なかった、甘い、柔らかな含みのあった声だ。僅かな時を置く事も無く返事があった。


『これはおとうさま。貴方の愛しき娘が一人、此処に』


「突然の連絡ですまない。今は問題ないかな」


『人払いは済ませました。時間に関しては心配しないでもらいたい。貴方の声を聞くためならば、時間などいくらでも費やせばいい。それだけの価値がありますから』


 どこか大仰で尊大な、しかし声の響きからすると年若い少女だと推測できる。そんな声にたいして侵入者は仕方ないとばかりに笑った。


「君の気持は嬉しいが、他の子たちの手前、それは出来ないよ。父としては、やはり公平では無くては」


『むう。おとうさまは、変わりません。そこが美徳ですが、物足りなく思ってしまいますな』


 惜しむような声ではあるが、咳払いの後にがらりと雰囲気が変わる。


『それで? 此度はどのようなご指示でありましょうか。よもや、世間話の為に回線を開いたのではありますまい』


「その通りだ。計画の手順を飛ばす。……レイが私の暗示から解放され、クロノスがそちらに落ちた」


『窓』から聞こえるのは、くぐもった困惑だ。絶句するのも無理はない。


 どちらも、本来の計画からすれば早すぎるのだ。


「修正よりも計画を加速させるべきだと私は考えた。あの計画は、レイの成長を待ってからではなく、冬が明け次第実行に移してくれ。各国への根回しを急がせて。そして、もう一つ。重要度では、此方の方が上だ」


 侵入者は一拍開けると、冷然と言い放った。


「クロノスを探し出して、殺せ」


『……宜しいので。これでも、この身は法王庁の長。流石に神殺しを信徒に命じるのは、厄介かと』


「ならば、君は情報収集に留めて、実行は別の姉妹に任せなさい」


『はて? 情報を集めるも何も、落ちた場所はご存知では?』


「いや、それが此方で決める前に、彼女が自ら飛び込んでしまった。残念ながら、手掛かりは無しだ。記憶の消去も抵抗にあってしまい、不完全なままだ」


 一度は記憶の焼却も完了しかけていたが、自らの時を巻き戻すという荒業の前でどこまで復元されたのか不明だった。


『窓』の向こうで沈黙しているのは、どのようにするべきかの差配を考えているのだろう。しばらくして、向こう側から声が響く。


『畏まりました、おとうさま。あとは、貴方の愛しき娘たちにお任せください』


「ああ、よろしく頼むよ。私の、大事な大事な娘たち」


 それを最後に『窓』は閉じられた。


「さてさて。状況は厄介だが、面白くなって来たな。疑心暗鬼に陥った神々に、神の領域に手を掛けた『七帝』に、人間同然へと落とされたクロノス。そして真実を知ったレイに、よりにもよって彼が出会うとはね。奇縁も此処まで来ると、誰かの意思すら感じてしまう。神々をも手玉に取る、機械仕掛けの神様でも居るのかな? ああ、待ち遠しい。早く、早く、早く、早く来たまえ! 滅びの時よ!」


 どこか嬉しそうに呟くと、侵入者は辺りを見回した。


 もう此処に用事は無い。侵入者は透明な空箱を一瞥すると、そのまま転移をした。


 後に残されたのは、祭壇に虚しく置かれた透明な箱。それは周りの雰囲気と合わせて、棺のようにも見えた。


 主なき神の座に、静寂が満ちていく。


読んでくださって、ありがとうございます。

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