8-71 止まらない世界
世界は動き出した。
世界が業火に包まれた三つの戦役から三百年。緩やかだが復興と再生に費やされてきた時間を零に戻すように、再び暗躍を始めた魔人。呼応するように、世界各地で異変が起き、遂には最強国家帝国ですら動き出した。
事情を知る者、知らない者の区別なく、エルドラドに住まう全員が無意識化で共通して認識し始めた。
世界が軋みだした、と。
微睡から覚めた世界が滅びへと歩み出したかのように、その歩みは止まらない。
否応なく、皆が滅びの道へと誘われていった。
静謐な執務室にペンを走らせる音だけがする。簡素ながらも、重厚な装飾品や家具に彩られた室内に男が一人、政務に励んでいた。
様相は、例えるなら理知的な野獣とでもいうのだろうか。豊かな栗色の髪を後ろに流し、獣の如き野生的な眼差しをした男こそ、帝国第一皇子ゴルディアス・スプランディッドである。
ウィンドヘイル家の内乱から五年の月日が経過し、青年は一層の凄みを増していた。
事実、彼は名実ともに、次期皇帝としての地位に居る。その足元は盤石であり、何もなければ、皇帝崩御の暁には、彼に帝位は移るはずだ。
もっとも、それを黙って見守る輩は、この帝室には存在しなかった。
日々感じる陰謀や策謀の影に、送られてくる暗殺者。これらは全て、ゴルディアスを排除しようとする者の動きであり、彼は日夜、本性を隠した政敵たちと激しい攻防を繰り広げていた。
此度の外征もその一環と言えた。
執務室にノックの音が響く。ゴルディアスは羊皮紙から視線を上げずに一言、入れと命じた。
開け放たれた扉から姿を現したのはゴルディアスの副官だった。彼は一礼すると、素早く室内を見て回る。壁を叩いて反響音を聞き、並べられた美術品に魔道具が取りつけられていないかと念入りに確認をした。
此処は帝国の首都である帝都の、最も警備が厳重である宮殿の一角にして、第一王子の執務室だというのに諜報に警戒する必要があった。何故なら、相手もまたこの宮殿に自由に出入りできる資格を持つのだ。何時、何が仕掛けられていたとしても、驚かない。
諜報の恐れが無いと判断し、それでも副官は固い表情を変えずに口を開いた。
「殿下、ご報告いたします。正式にデゼルト国側から第三者を通じて、勝利宣言と賠償に関する通達が届けられました。この結果に貴族院は紛糾しております。……必勝を期して飛竜や『勇者』を投入しただけに、失敗したというのが誰も信じられません」
自身もまた、顔に半信半疑だとありありと浮かべている副官に、ゴルディアスはやっと顔を上げた。
「帝国に置ける二つの兵器。それを両方投入した結果がこれではな。それで、貴族院においてジグムントの敗北はどのように伝わっていた」
「公ではエルフの『守護者』サファとの決闘に引き分けたとの事になっております。ですが、噂話程度ではジグムントを止めた謎の少女が居ると流れ出しております。おそらく真実を知る何者かが、意図的に断片的な情報を流しているのかと」
「……心当たりは幾つかあるな。それで、此度の外征を陛下に奏上したのは、何処の馬鹿だ」
「詳しくはまだわかりませんが、おそらく第五皇子と第八皇子の一派が陛下に進言なされたと。ですが、その裏で糸を引くのは間違いなく、あの方です」
「……女狐か。……やってくれる」
ゴルディアスが怒気を露わにすると、室内の空気が猛々しい物へと変わる。皇子とはいえ、人民の上に立つ帝室の人間たるもの最低限の武を要求される事もあって、ゴルディアスもまたそれなりに鍛えていた。
分厚い鋼のような体躯に、メイスを軽々と振り回す膂力は上級モンスター程度ならば数体纏めて吹き飛ばす実力がある。
副官の贔屓目を差し引いても、その道を選べば間違いなく、高位の冒険者と肩を並べられる逸材だ。とはいえ、彼は武人では無く皇子。武にのみ傾倒する危険性を理解し、また無用だと判断していた。
そのため、粗暴とも取れる容姿だが、その実理性的な面もゴルディアスは持ち合わせている。
「『勇者』は帰還したとはいえ、南方大陸には五万近い兵が置き去りにされ、彼らの帰りを待ちわびる家族もおります。まさか、陛下は見捨てると言う事は」
「それは無い。此処で兵を見捨てるような事をすれば、他の兵は帝国に不信を抱く。帝国を維持している柱の一つは、軍事力だ。それを揺るがすような真似は、さしもの陛下といえどするまい」
「ですが、五万の兵に加えて、今回の外征は宣戦布告も無しに行われた侵略戦争。やはり、賠償金は相当な額に昇るのでは」
「それも問題あるまい。陛下の事だ。此度の一件は、全て六将軍によって操られるがままに行ってしまったとでも言って、法王庁に仲介を求めるつもりだろう。事実、宮殿に法王庁からの使者が招かれた。今頃、謁見の間では大衆向けの演劇よりも酷い物が上演されているだろうな」
法王庁としては、動き出した『魔王』と帝国が手を結び世界と敵対するという展開がもっとも恐ろしい。公式的な発表において、この戦争に六将軍は参戦していない事になっており、デゼルト国側もその辺りの事を触れてこないのは、法王庁からの圧力だろう。
帝国が『魔王』との協力を破棄するとでも匂わせれば、法王庁は此方の要望を聞くしかないという見立てだった。
「法王庁が仲立ちをすれば、間違いなくデゼルト国は飲む。それがどれだけ理不尽な条約だとしても、飲まざるを得ない。それよりも問題なのは、あの姉妹の方だな」
姉妹という単語に、副官の心は五年前へと跳んだ。
四大貴族の一角であるウィンドヘイル家の叛逆が失敗に終わり、各地に潜んでいた残党を殲滅する役目を陛下から与えられたゴルディアスは、最後の隠れ家であった修道院で彼女らを発見した。
帝国の宝石と謳われた王女の娘であるエリザベート・ウィンドヘイルとレティシア・ウィンドヘイル。彼女達に対しては、陛下はそれぞれ別の命令を下した。
姉であるエリザベートは生かして連れて帰り、妹であるレティシアは確実に殺すようにと。
ゴルディアスはその命令を両方破ったのだ。
彼女らを闇ギルドの商人を通じて国外へと追放した。
皇帝には姉妹は焼け落ちた修道院の中で息絶えたと報告した。持ち帰った遺体は原型を留めていないほど破損され、それが本当にウィンドヘイルの姉妹なのかどうか、誰にも判断できなかったが皇帝は息子の報告を信じ、疑いもしなかった。
かくして、姉妹たちは戦奴隷に身を落としたとはいえ、生きて西方大陸を脱出する事が出来た。これだけを切り取れば、両親が死に過酷な体験をした姉妹を生かそうとする美談に聞こえるが、真実は違う。
ゴルディアスは目的を持って彼女らを生かした。帝国の根幹を揺るがしたウィンドヘイル家の血筋に加え、『勇者』ジグムントを操れるレティシアをあえて生かす事で、彼女らを餌とする事にしたのだ。
内乱に呼応しなかった反乱分子や、魑魅魍魎だらけの帝室の人間を誘い出すための餌。餌を求めて背中を見せた者を、後ろから突く。
内乱終結から五年。
姉妹が餌として生かされてから五年。
その間にゴルディアスの手によって粛清された人間は両の手に余る。
ゴルディアスは周到に策を講じ、情報を流す対象を精査して絞り、相手をこれ以上ないほどに誘導した。彼らは知らず知らずのうち、自らギロチン台の真下にて首を差し出していた。
「あの姉妹に関する情報統制は完璧だった。俺が排除したい政敵や反乱分子だけに情報が伝わるようにして、皆が読み通りに餌に跳びついた。阿呆共の無防備な背中は簡単に刺せたが、こうなってしまえばどうしようもあるまい。幼い少女がジグムントを止めたなどという戯言を、百人が聞けば九十人は笑うだろう。笑わない十人のうち、一人ぐらいは本気で信じてしまうだろう。その一人が戯言の真偽を確かめれば、少女らの身上は一夜の内に白日へと晒される」
泰然と構えるゴルディアスだが、副官は気をもんでいた。
レティシアの正体に誰かがが辿り着いた時、それは即ち五年前の報告が偽りだったと証明されてしまう。皇帝に対して虚偽の報告をしたのかとゴルディアスが追及される恐れがあった。
謀として姉妹を生かした事が、五年の月日を経て、瑕疵となりかねなかった。
だが、ゴルディアスは動じることなく、堂々と言い放った。
「なに、追及の場を開かれたとしても、知らぬ存ぜぬを貫き通せばいい。例えば、修道院に手匿われていたのは、替え玉だったと、なんとでも言い繕える。……それよりも気になるのは、この姉妹を連れ歩く冒険者の事だ」
夥しい書類の山から取り出されたのは、デゼルト国の情報提供者からもたらされた似顔絵付きの報告書だ。そこには、エリザベートとレティシア姉妹の主である、《ミクリヤ》のレイに関する情報が綴られていた。
副官は目を通していくと、その内容に驚嘆する。冒険者として登録されて間もなく、単独にて迷宮上層部を攻略したのを皮切りに、六将軍第二席ゲオルギウスや赤龍との激闘を生き延び、そしてデゼルト国の動乱においてダリーシャス一派の中核を担い、見事彼の王子を王にまでしてみせた。最新の情報として、黄龍、そして六将軍第六席ディオニュシウスを撃破したことも付記されていた。
「大げさでも無く、帝国、魔王軍、その両方の企図を挫いた陰の功労者と言えるな」
「……俄かには信じ難いですな。帝国に置いて、これだけの状況から五体満足で帰還する戦士は、十人とおりません。このような子供が彼らと同列とは。これを送りつけたのは」
「王族のジャマル・グセイノフだ。奴の見立てに間違いはない」
デゼルト国の王家に連なるジャマル・グセイノフは目利きの商人としても、国内外に広く顔が知られている。彼が主に扱っている美術品の取引先は多岐に渡り、その中には当然のように帝国、そして帝室の人間も含まれている。
彼は、王家の中でもはぐれ者としての立場から、自分が玉座に就けず、最悪の場合死ぬことすら予見していた。その為いつでも国外に逃亡できるようにと資産を分割し、有力者の庇護を得られるようにと渡りを付けていた。ゴルディアスはその一人であり、彼がデゼルト国の動乱に纏わる情報を高値で買い取ると持ちかけた時点で断る理由が無かった。
レティシアと同じ、エメラルドグリーンの瞳を爛々と輝かせた男は、獰猛な顔立ちに野性味を増した。それが笑みだと理解できるのはほとんど居ない。
「この少年、どうやらアクアウルプスで起きた『怪物の行進』にも巻き込まれたようだ」
「それでは、まさか!」
「ああ。あの女狐、ジョゼフィーヌと会っている可能性が高い。というよりも、『怪物の行進』において、女狐の影が参戦していた。父の淫欲な部分を多分に継いだ女に奉仕の心が芽生える物かと一笑したが、こうなってくれば話は別だ。おそらく、ジョゼフィーヌはエリザベートかあるいはレティシアと共に居るレイと出会い、力を貸したのだろう」
「ジョゼフィーヌ様の魂胆は何処に」
問いかけにゴルディアスは鼻で笑った。
「そんな物は知らん。だが、奴が愚弟共を唆し、もしかするとデゼルト国のアフサルをも焚きつけ、今回の絵図を作ったのは間違いない。少なくとも、『勇者』の投入は、奴の関与があってこその結果だ。……つまり、この結末は奴の筋書き通りと言う事になるな」
副官は体の震えが止まらなかった。
エルドラドにおける最強国家である帝国を、その掌で転がしたジョゼフィーヌの悪魔的な頭脳が恐ろしかった。
「この結末が奴の望んだ通りならば、レティシア達の情報を流しているのも、間違いなく奴だろう。……あれの今の動向は?」
「それが、本拠地であるウージアには戻らず、私船を使い外遊を繰り返している御様子です」
「……仕方ない。あれの対処は後回しだ。いまは、外征に置ける失敗の責を誰に取らせるのか決めるのと、魔人との協力関係がどれ程だったのかを洗い出す必要があるな。引き続き、情報収集を頼んだぞ」
「了解いたしました。……ところで、我ら帝国が、飛竜や『勇者』までを投入してデゼルト国を攻め立てた理由は分かりますが、どうして六将軍らは、黄龍を目覚めさせたのでしょうか。奴らの狙いは、単なる破壊活動だったのでしょうか」
副官の疑問に対してゴルディアスは知らないのかと眉を顰めた。
「奴らの狙いは単純だ。赤龍、青龍、緑龍、そして黄龍。この四つの龍は、生きた封印だったのだ。それらが死したことで、世界から弾かれた怪物が、目を覚ますだろうな」
「では、『魔王』の目的はその怪物を蘇らせる事なのでありますか?」
「いや、違うな」
副官の言葉を力強く否定すると、青年は面白いとばかりに唇を吊り上げた。
「復讐だ。『魔王』フィーニスの目的は、原動力は、常に溢れんばかりの憎悪、憎しみだと聞くぞ」
世界の何処か―――ではない。
エルドラドという世界から外れた場所に、それは居た。
神々の眼も届かない、世界の裏側とでも呼ぶべき場所。そこは時間の流れも曖昧で、何も無い場所だった。
存在するのは唯一つ。
純黒の色をした死だけが君臨していた。
姿形は龍ではあるが、それを目にした者は皆、自らの死を予感してしまうほどの威圧感に包まれていた。大きさは赤龍と同等なのに、纏う雰囲気が、実像を曖昧にさせていた。
そんな死以外存在しなかった世界に新たな色が加わった。
何もない天から降り注いだのは、不気味なまでの白だった。不安と怖れを抱かせる、濁った白い少年は純黒色の死と向き合った。
「やあ、久しぶりだね」
まるで旧来の友に語りかけるかのような気安さだが、事実、両者は旧来の中であった。
最後に言葉を交わしたのは三百年以上前。
場所は、黒き炎が悲鳴と屍を飲み込んだ、魔人種が作り上げた北方の国。
白い少年―――『魔王』フィーニスが統治していた国だ。
「『魔王』……貴様、如何にして、この地に辿り着いた」
純黒色の死が語りかけるだけで、周囲の空間が悲鳴を上げるかのように震えた。しかし、フィーニスはどこまでも穏やかに、春風に身を預けるように頬すら緩まして答えた。
「君の封印を解いたからに決まってるだろ。あっははは。随分と手の込んだ仕掛けじゃないか。同胞である古代種の龍達が、その身に刻み込んだ封印の鍵。まさか、封印されていた黄龍もまた、君の封印を担う鍵の一つだったとはね。四体全ての龍が死ななければ封印は解かれず、黄龍は別の封印が施され、そして何より、あの『国喰い』だ。生半可な戦力じゃ倒せず、誰も手出しをしないと思って、封印に組み込んだろうが、残念だったねぇ」
「……そうか。黄龍すら、打ち破ったというのか。それほどまでに、我が憎いか……フィーニス」
―――瞬間、世界が爆ぜた。
フィーニスの白髪が逆立ち、金色の瞳が輝く姿は正しく夜叉のようで、少年から噴き出す殺意だけでも人が死ねる圧となっていた。
「憎い? 憎いだって? ならば答えてやろう。憎いとも!! この三百年! 君を憎まずにいられた日など無い!! 世界の果てすら通り越して、世界の裏側に逃げ込んだ君を殺す事だけを夢見て、今日まで生きて来た!!」
「そうか。……何とも無駄な事を」
「無駄? 無駄と言ったのか、いま?」
蹲っていた純黒の死は嘆きを零すように息を吐き、そして立ち上がり翼を広げた。雄々しきに対の羽が生み出す風は、何もない世界を端から崩壊させていった。存在するだけで死を誘う怪物を閉じ込めていた檻が、崩れ去ろうとしていた。
「ああ。貴様の憎悪など無駄にして、無益にして、無用にして、無為にして、無価値である。例え魔人種であろうとも、生ある者は死を迎える。貴様の民が死したのは我のせいではない。……摂理だ。そう考えて、何故諦めなかった。何故認めなかった。何故―――戦いを止めなかった」
純黒の死にとって、その言葉はフィーニスを思っての慈悲の言葉だった。だが、フィーニスには到底許し難い暴言であった。
魔人種たちを導いた王にとって、それらは耐えがたい屈辱だ。
「耳にこびりついて離れないのだ。……民の、ボクの仲間が、友が、ボクに助けを願う声が、苦痛を訴える声が、怒りを託す声が、離れない。いまも聞こえている。お前を、許せない、許してはいけない。許して―――たまるか!」
溢れんばかりの憎悪に呼応して、フィーニスの足元から闇があふれ出す。それは瞬く間に少年の体を鎧のように覆い尽くし、無数の刃が背中に浮遊した。そして、純黒の死だけが存在していた場所に、新たなる闖入者が姿を現した。
黒檀の鎧を纏い、短くなった黒髪を適当に流した男の名はゲオルギウス。ローランとの戦いで負った傷は癒えていないが、それを押しての参戦だ。
彼もまた、フィーニスの憎悪に感化され、協調した者だ。
純黒の死は余りにも大きさの違う魔人を前に、涙を流した。
縦に裂けた瞳孔から流れる涙もまた、黒かった。
「我は悲しい。憎悪などというつまらない感情に囚われ、道を踏み外した愚者たちよ。ああ、やはり衆生はいまだ救われていない。滅びゆく世界を前に、救われなければいけない。だが、救いの手は、白龍は輪廻の環から戻らず。ならば、我が、今度こそ救いの手になろう。皆に等しく救いの―――死を与えよう」
「三百年、引き籠ってもその結論から変わらないのか。だが、その前にボクが君を殺す。同胞の憎しみを、その身に刻め、『龍王』黒龍!」
かくして、神々すら知覚できない領域にて『七帝』はぶつかった。その勝敗がどうなったのか、『魔王』が、『黒龍』がどうなったのか語る者は居らず、世界の裏側に出来た、黒龍を封じ込めていた檻は崩壊した。
世界崩壊の刻限は近づき、『七帝』達は一人を除いて舞台に上がり、人々は混迷の渦へと突き落される。
―――誰かの悪意に沿うように。
此処まで読んで下さって、本当にありがとうございます。
これにて8章本編は終了です。今後の投稿は閑話を三本投稿する予定です。その後はいつも通り、8章終了時のステータスや登場人物などを投稿しようと予定しています。
詳しくは活動報告に載せますので、ご確認して頂けると幸いです。




