8-16 純粋な想い 『前編』
「くっ、外との連絡が遮断されたか。だとすると、『魔王』め。本格的に、レイの意識を取りこみつつあるようだが、ええい、うっとおしいぞ!」
苛立ちが炎のように吹き上げる。実際、褐色の手が横に振るわれると紅蓮の炎が中空から出現し、コウエンを守る。紅蓮の瞳が睨みつけているのは、黒い泥のような塊である。表面が粟立ち、腐った臭気を撒き散らす汚泥はレイの心象世界で拡大を続けていた。
赤灼けたような空は暗雲に押しつぶされ、ひび割れた乾いた大地は泥に覆われつつある。どこもかしこも暗くなりつつある世界に炎を灯し、戦い続けていたコウエンは泥の中心部を睨みつけた。
宙と大地を繋げるようにそびれる、泥の柱。まるで、世界を支えているかのような柱にレイは飲み込まれた。
ゲオルギウスがアフサルもろともシアラ達を殺そうとした瞬間、レイの感情が爆発した。
彼にとって、己の生死はあまり重要では無かった。《トライ&エラー》によって、死と生の価値は薄まっていた。それだけに、仲間の死は酷く嫌う。他者の死を病的なまでに恐れていた。
それはレイらしいといえば、レイらしい感覚だが、今回はそれが完璧に裏目に出た。
三度目の神前決闘において、レイが仲間達と生きて帰ると約束したことも、この事態に繋がる原因の一つだった。レイの中で少女らとの触れ合いが光となって、温かさを心に宿し照らしていた。それを失うと感じた瞬間、この世界は吹雪の平原の如き様相となった。
感情の爆発とは落差だ。
単に不幸なだけなのと、幸福の絶頂から絶望の奈落へ落とされるのならば、断然後者の方がより悲劇的で、感情の振れ幅が大きい。止める暇もなく、レイの精神から、フィーニスの憎悪が突き破り、レイを飲み込み世界を覆い尽くそうとしていた。
「こりゃ、完璧に先手を取られたって話だ。俺達は言っちまえば、周回遅れの亀で、後ろから抜き去るウサギの背中を眺めているしか出来ない。例え、ウサギに追いついたとしても、もう一回追いつかなくちゃいけない」
襲いかかる泥を炎で打ち払っていると、コウエンの耳朶を不快な声が震わした。
まるで錆びついた歯車を無理やり回すかのような引き攣れた音をした声。コウエンは背後に出現した声の持ち主へと躊躇いなく炎を向けた。
「おおっと。熱烈な歓迎だなぁ!」
背中から噴き出した炎の翼を軽やかに避けたのは、黒い人型だ。いま、レイの心を飲みつくさんとする泥とは違う、人の足元にある影が起き上がった様な存在がコウエンの背後でフラフラと揺れていた。
「おお、なんじゃ、お主か。泥かと思い防御したのだが……てっきりすでに飲み込まれておったとばかり。息災そうでなによりだな、影法師」
「最悪だ。この小娘、俺を燃やそうとしたことを無かったことにしやがった。俺は見たからな。炎を放つ前に、灼眼でこっちを見てたの」
「それで? 貴様はこの非常時に何をやっているのだ」
抗議する影法師を無視したコウエンは、背中の翼を巧みに操り泥を左右に切り分ける。だが、泥の勢いは激しく、その翼でも燃やし尽くせなかった一部が少女の腕へと落ちる。すると、泥は少女の褐色の肌を変色させた。
毒々しいまでの黒い斑点が一気に腕から肩まで上ろうとした瞬間、コウエンは躊躇わず自らの腕を翼で切り落とした。
肩口が平たくなり、落ちた腕を蹴とばし泥に押しやると、泥はそれを飲み込む。直後に火柱が泥を突き破り空へと刺さり、暗雲に切れ目を作るも、一瞬だった。
再び暗雲に戻る空を見ながらコウエンは口を開く。
「見ての通り、妾とて、この泥に触れれば侵食され、フィーニスの意識と同化されかねん。こうして炎を防ぎ、汚染された肉を切り離すことでしか対処できん」
翼で切り落とした腕を再生させると、忌々しげに泥の柱へと視線を向ける。空と地を侵略せんと柱から泥があふれ出し、レイの救出は出来ずにいた。
「このままではレイもろとも、フィーニスに飲み込まれる瀬戸際だというのに、何を呆けておると聞いているのだ」
「呆けるも何も……この状況で俺達に何が出来るんだって事だよ」
影法師の言に、コウエンの眉がぴくりと動く。顔に険しさが浮かぶ中、影法師は淡々と、海のように広がっていく泥を眺めた。
「フィーニスの技能が何なのか知らねえが、これは言ってしまえばウィルス。人の精神に作用する病原菌さ。普通の人間相手にも効果は抜群だし、俺やアンタみたいな精神だけで生きている奴には相性最悪。アンタはまだ自衛の手段があるからどうとでも出来るが、俺みたいな恨み言を囀る存在には、とてもとても」
「だから傍観しかせんという訳か。ふん、貴様も男ならば、一当てしてから死ねばよかろう」
「これまた手厳しいお言葉で。……で、真面目に話をするとして、あの嬢ちゃんたちで勝ち目はあると思うかい」
影法師の声から軽薄さが消え、若干だが本気の色が混じるとコウエンは黙って耳を傾けた。
「確かに、精神世界でどうにもならない相手に、肉体のある方でどうにかしてもらうっていう考え方は筋が通っているが。……単に呼びかけただけでこの状況が好転するのか、甚だ疑問だね、俺は」
「妾は逆だ。この状況が感情によって起こされたのなら、感情によって終息すると考えておる」
フィーニスが聖印を刻み込んだ瞬間から、植えつけられた憎悪の種子は、レイが発露した憎悪を喰らい成長していた。レイの心の中で、人知れず、ひっそりと。地面の中で蝉が誰にも見られないように成長するのと同じに。
時折、幻影のゲオルギウスなどを用意し、レイの心を揺さぶり、憎悪を加速させていた。それが功を奏したのか、あと一押しで、レイの心を取りこみにかかれるだけに成長していた。
ゲオルギウスはそれを察知し、一戦目の神前決闘においてレイを甚振り、憎悪を引きだそうとした。しかし、結果は失敗に終わり、ゲオルギウスはレイを魔人になる資格なしと判断して処理した。
それが今回、感情の落差によって憎悪は吹きあがり、フィーニスの聖印が実を収穫せんとした。
それを逆手に取るのだ。高い所から低い所に落ちたのならば、奈落から天へと連れ戻す。
「あやつらの存在こそ、この状況を打破する唯一の策だと妾は考える。純粋な想いこそ、邪気を祓う力を秘めておる」
「ふーん。何ともロマンチストな考え方だこと」
小さなコウエンの背に隠れながら泥を回避している影法師はつまらなそうに呟くと、
「まあ、確かに純粋な想いは奇跡を起こす材料にはなるよな。……それが本人の望みと結びつくとは限らず、良かれ、悪しかれ、ね」
石舞台は静寂に包まれた。
人の皮を剥ぎ、黒の塗料で浸し、卵のような兜をはめ込ませた存在に全員の意識が注目していた。言葉を発することは誰にも出来ず、押しつぶされそうな不安に呼吸すら苦しくなる。
魔人については謎が多い。
マクスウェルですら、魔人を生み出す手法を魔石にあると信じていたが、実際は違った。そのやり方はクリストフォロスが情報操作として行った結果であり、実際は『魔王』フィーニスの魂を埋め込むことで人を魔人へと変貌させる。
つまり、この状態のレイが魔人になってしまったのかどうか、それを判別する知識は誰にもなかったのだ。
球形の仮面は左目だけがむき出しで、そこから覗く無機質な金色の瞳がねめつける様な視線を向けていた。
睨まれるだけで、リザは頭の芯が恐れから痺れる。視線に物理的な効果でもあるのだろうか。
「レ、レイ様。……意識は、あるのでしょうか。私達が、誰か、分かりますか」
リザは意を決して話しかけた。声は震え、喉が張り付いたように乾く。
いまや黒い刃と化した龍刀。紅蓮の刀身から浮かび上がったコウエンはレイの意識に呼びかけろと叫んでいた。フィーニスの憎悪に囚われたレイを助けるにはそれしかない、と。
既に手遅れなのではないかという悲観的な予想を振り切り、リザは再度呼びかけようとした。
しかし。
「レイさ―――っ!?」
驚きから言葉が潰れた。
瞬きをした瞬間、レイの体が移動したのだ。
まるで、瞬間移動をしたかのように忽然と、自分の目と鼻の距離まで近づかれて、リザは驚きを露わにした。同時に風が頬に当たる。どうやら瞬間移動その物ではなく、瞬間移動並みの速度で移動した様だ。
《神聖騎士団》の前衛組がその速さに唸り声を上げた。目で追いきれないほどではないが、手練れの彼らでも妨害する事が出来なかったようだ。
艶やかな曲面を描く仮面に驚愕した自分が鏡のように写っている。
「……レイ様。私が分かりますか。エリザベートです。貴方の戦奴隷です」
リザは一度失った言葉を取り戻した。自分が誰なのかを伝えようと、金色になってしまった左目に何か変化が無いかを確かめようとして、視界の端を動く影に気が付いた。
影の正体は龍刀だ。
闇に侵された黒い龍刀が、リザの体を二つに分けんと迫る。
物体として襲い掛かる死を前にして、リザの本能が動き出した。ロングソードで迎えようと掲げ、刹那の間両者が高らかにぶつかり合った。
しかし、それは本当に刹那の間程度の接触。
すぐさま、妙に澄み切った音がリザの耳朶を揺らし、手が軽くなった。
音の正体はリザのロングソードが砕けた音で、手が軽くなったのはロングソードが半分の大きさに減ったからだ。
闇に侵されてもなお、古代種の赤龍の骨と伝説の金属、そして鍛冶王の手によって生み出された龍刀の切れ味は衰える事はなかった。
むしろ、刃の冴えは増していたかもしれない。
リザは自らの刃を砕きながらも迫る龍刀に対して、体を後ろへと仰け反らした。あまりにも稚拙な回避方法だったが、龍刀は鼻先を掠めて振り抜かれた。ロングソードが犠牲になったおかげで、刀の振りが弱くなったのかもしれない。
「くぅ!」
リザは体を起こす反動を使い、そのまま折れたロングソードを振るおうとした。
それは戦士とて刷り込まれ、反復することで強化してきた戦闘神経とでも呼ぶべき反射行動。戦士としては当然の選択肢だった。
問題は、向けた刃の相手が主人という事だろうか。
「あ、あああ! ぐうううう!」
リザの体が跳ねるように痛みで震えた。
戦奴隷の契約。そこに組み込まれている条項の一つに、奴隷が主人に歯向かう事を禁ずるというのがある。一度目ならばさほどの苦痛を、長期に渡って与える事はないが、リザは二度目だった。
心臓を内側から切り裂く様な痛みに襲われ、視界が歪む。リザのロングソードはあらぬ方向へと向いた。膝を屈しなかったのは彼女の精神が強靭だったからかもしれないが、それでも体は棒立ちのままレイの前にある。
当然、二度目の斬撃がリザを襲おうとした。
「《器を満たせ》、《バレット》!」
シアラの鋭い声が鞭のようにしなると、杖の先端から魔力の塊がリザへとぶつかった。視界が高速で動き、角度を変えていく中、龍刀が離れていくのがリザにも見えた。
「ぼさっとしてんじゃないわよ、リザ!」
「……していません」
石舞台を転がってレイから離れたリザが叱責に唇を尖らした。金色黒色の瞳がどういう事だと尋ねるため、リザは自分の身に何が起きたのかを説明した。
「戦奴隷の契約です。いま、私達がレイ様に武器を向ければ、反旗を翻し、命を危険に晒す事となり罰が与えられますから、気をつけてください」
それはシアラに向けた言葉だった。ところが予想外にも喰い付いてきたのはマクスウェルの方だった。
「なに? 契約は発動しているのか」
信じがたいという口調で呟く少年。どういう意味かとリザが尋ねる前に、レイが動いた。
またしても高速移動をすると、今度はシアラの前に立とうとした。
しかし、今度は身構えていた《神聖騎士団》の斧使いに行く手を遮られたのだ。
大斧がレイを押しつぶさんと放たれると、レイの空いた手がもぞもぞと動き出した。左手を覆い尽くす闇の表面に波が浮かぶと、あっという間に斧の形を取るのだ。
斧使いが持つ大斧と比べても遜色ない巨大な斧。それをあたかも団扇で扇ぐようにレイは振り、斧使いの攻撃を防いだ―――どころか打ち返してしまった。
高位冒険者の顔に今日何度目かになる驚愕が浮かび、男は後ろへと下がった。レイが生み出した大斧は役目を終えたとばかりに霧散して消えた。
すると間髪入れずに、というよりも斧使いが動くのと同時に動いていた槍使いの攻撃がレイに届こうとしていた。背中へと飛びかかろうとする槍使い。手にした槍の穂先が、首の後ろを貫こうとしたが、彼はレイの背中に波紋が生まれたのを見て背筋を凍らせた。
その現象はこれまでに何度も見た。
槍を引き戻して防御を取るのと、背中から無数の槍が放たれるのは同時だった。
槍使いは襲い来る攻撃を防ぎながら距離を取った。
あの黒い不気味な鎧は、やはり先程までの沼と動揺に武具の形をした闇を無尽蔵に作り出せるようだ。矢が尽きる事の無い砦を前にしたような絶望感にリザ達は打ち震えた。
そんな中、マクスウェルが叫んだ。
「皆、諦めるのは早いぞ! まだ、希望はある」
「どういう意味ですか、マクスウェル。……まさか、私の技能を使うとでも」
「いや、お主の特殊技能だと何が起きるか分からん分、状況が悪くなる可能性もある。それに、奇跡に頼らんでも、光明はあると言うことだ」
マクスウェルが全員を鼓舞するように力強く言う。少年の指が高位冒険者二人を前に一歩も退かずに応戦するレイへと向けられた。
「まず、レイ殿は魔人へと為りきっておらん」
「ほ、本当なの、マクスウェルさま!?」
シアラの魔法で怪我をした姉を治療していたレティが喜色を上げると、マクスウェルが本当だと返した。
「理由は二つ。一つ目は、真っ先にリザ殿を狙った事だ」
「私を、狙った事ですか?」
「うむ。第二に、あの兜の意味だ」
全員の視線が球形の兜へと映った。左目だけを露出させ、つなぎ目や隙間が存在しない兜は有機的なデザインがされている胴体と比較しても冷たい印象を与えた。
「儂は、これらは全て、《ミクリヤ》のパーティーメンバーの呼びかけを妨害する意図があるのだと思うのだ」
「……リザを狙ったのは、主様の意識を戻せる恐れがあり、あの兜は声を届かないようにするためってことね」
「その通りだ。もし、魔人化が完了しておったら、あのような格好も、リザ殿やシアラ殿を優先的に狙う理由が無いはずだ」
「脅威に感じているからこそ、先に狙ったのですか」
先程までのレイは防衛本能の塊だった。自ら攻撃したのはゲオルギウスだけで、後は《神聖騎士団》の面々が攻撃を防ぐ程度。それも雑なやり方だ。だが、高位冒険者二人を相手取りながら、隙あらばシアラを襲おうとする姿は洗練していた。
その動きは魔人化が進んだ証かもしれないが、マクスウェルにはむしろ、魔人化が途中で、なおかつ呼びかけで戻される程度に不安定なのだと感じたのだ。
戦奴隷の契約が有効だというのもマクスウェルの読みを補強していた。人が魔人に変貌するという事は、魂にも何らかの影響が働いても不思議ではない。それなのに、魂で交わす奴隷契約が有効というのは、まだレイの本質が変わっていない事を指す。加えて、もう一つ、マクスウェルはある事を発見していた。
「先の斧。あれが消えた瞬間、儂は見た。左手の辺りにある闇が、薄くなったのを」
「エトネもみた! なんだか、ひらべったくなったよ」
同意の声を上げたエトネに続き、他にも同じのを見た者は肯定した。
「闇は無限に湧きだすとしても、一度に展開できる量が決まっておるのかもしれん。だとすれば、闇を使わせれば使わせるほど、あの兜が薄くなり、割る事が出来る。さすれば、お主らの声も、レイ殿に伝わるはずだ」
マクスウェルの言葉にも一理あるとリザは考える。同時に、脳裏を過るのはあの姿になる直前のレイだ。
まるで子供が錯乱したかのように否定を連呼した少年の姿は不気味でありながら、胸が張り裂けんばかりに悲しくもさせられた。あれが魔人へと変貌しつつあるのに抵抗しようとしているのか、それとも別の要因が絡んでいるのか。それはリザにも分からなかった。
だからこそ、彼女が言える事は一つしかなかった。
「皆さん、どうかお願いします。レイ様を。私達の主を助けるのに、お力添えを」
その言葉を断わる者は、この場には一人も居なかった。
読んでくださって、ありがとうございます。




