7-31 竜騎兵
夏特有の高い空は青一色に染め上げられたキャンバスのようだ。その単色のキャンバスを泳ぐかのように竜たちが飛翔する。上昇、下降、右旋回、左旋回、ロール、背面飛行。テレビ越しに見た、戦闘機の航空ショーのような軌道を描く。一見すると、竜の気まぐれな飛行のようだが、一糸乱れぬ隊列は訓練された証だ。
よほどの訓練を積み重ねたのだろう。規律良く、整然とされた動きというのは美しくすらある。
空を自由自在に飛翔する竜たちに、地上から見上げている自分たちの姿はどう映っているのだろうか。単なる通りすがりと思っているのか、あるいは餌として認識しているのか、それとも多少なりとも脅威と思うのか。いや、おそらく歯牙にもかけないのだろう。
何度か竜の顔が地上の方を向いているが、興味が無さそうに首は別の方向を向いていた。
彼らにしてみれば、文字通り地にへばり付く虫のような存在だ。
だけど、地上に居るレイにしてみれば、空に君臨する竜は脅威だった。コウエンの柄に手を当て、何時でも戦闘が始められるようにと身構えていた。
竜。
ゲームやファンタジー小説で市民権すら得ている存在。火を吐き、固い鱗に覆われ、空を高速で移動するというテンプレートな知識しかないが、エルドラドに来て数か月。その言葉の意味が実感として理解できるだけの経験を積んだ。
火を吐くという事は、遮蔽物の少ない平地で戦うのは不向き。固い鱗を貫く龍刀といえど、ああも高所に居られては剣が届かない。空を高速で飛ばれてしまうと、魔法を命中させるにも知恵を絞らなければならない。
スタンピードの時。赤龍との戦いが成立できたのは、あれが地上に降り立ったからで、空を飛翔していたら勝負にすらならなかった。
竜との距離はそのまま、互いの実力差を表している。飛行系のモンスターと何度か戦ってきたが、どのモンスターとも比較にならない高さに竜はいた。
頭の中で如何するべきかと考えあぐねるレイ。ところが、彼の覚悟を笑うかのように、飛翔していた竜たちが地上へと高度を下げ、そのまま帝国の駐屯地に戻ってしまった。
翼を休め、背に乗せていた人間を降ろした彼らがこちらを襲いに来る様子はない。頭の上に置かれた爆弾が取り外されたような安心感がレイを包んだ。
「……これはどういう事なんですか、ダリーシャス王子」
いつもなら、端正な顔立ちをだらしなく緩ましていたローランが驚くほど低い声を出した。笑みを消して、僅かながらに威圧する姿は真剣そのものである。
「帝国の正規兵。その上、竜騎兵までがこの地に進軍している。デゼルト国は帝国と軍事締結でもしたのですか」
悪魔の巣に篭っていた《神聖騎士団》たちはデゼルト国内で起きていたクーデター自体を知らずにいた。ダリーシャスも、帝国との間に交わされた親書の存在を隠し、それ以外の事を話したため、彼らにとってこの状況は寝耳に水なのだろう。
しかし、それはダリーシャスにとっても同様だ。
クーデターが起きて一月も経っていないのに、帝国の軍がデゼルト国内に上陸しているとは。それも、千や二千どころではない。万に届く大軍に加えてあんなものまで来ているのは予想外だった。
「お聞かせください。いま、デゼルト国内で何が起きているのか」
「宜しいのですか。これ以上は内政干渉と取られかねないが」
ダリーシャスの警告にローランは動じない。
「この光景を前にして悠長な事を言っている場合ではありません。下手をすれば、南方大陸を巻き込んだ戦争に発展してもおかしくない。……魔人種の不穏な動きがある中、人間側が足並みを乱すような真似は法王庁の人間として、何より市井の人々を守る者として、看過できません」
毅然と言い放ったローランの姿は『聖騎士』の名に恥じなかった。続いて『聖女』であるミストラルも頷いた。
ダリーシャスはわずかな間沈黙すると、了解したと口を開く。
「だが、いまは足を止めて話をしている時間も惜しい。詳しい事は、馬車の中で移動しながら。それでもよろしいか」
ローランは構わないと返すと、二人は馬が引く馬車へと乗り込んだ。他の者達も所定の場所に戻り、隊列が動き出そうとする。
レイもリザ達に声を掛けた。
「僕らも出発しよう。……レティ、大丈夫かい」
ぶるり、と。声を掛けられたレティは肩を震わした。空を飛ぶ竜騎兵を見た瞬間から、少女は姉の背に隠れ、視線を地に向けていた。空に恐怖の塊が浮かんでいるかのように、いまだに視線を上げようとしない。
「レティ。もう、大丈夫。……空には何も飛んでないわよ。お姉ちゃんが付いているわ」
リザが優しく、赤子をあやすように慰めるがレティは凍り付いたように動かない。心配そうにエトネがレティの手を握る。
「リザ、エトネ。二人はレティの事を頼む。シアラ、キュイの操縦を」
少女達は口々に了解と返し、馬車に乗り込んだ。ニチョウであるキュイは女性だけしか近づけさせない習性がある。馬車を引く馬力はあるのだが、操縦するのも女性のみと徹底している。
それなのに、御者台に座ったシアラの隣にレイは座った。
「珍しいわね。主様が、御者台に来るなんて。どうかしたのかしら」
と尋ねたシアラに、レイは無言で後ろを指差す。馬車の中では、毛布に包まり震えるレティを抱き締めるリザと、背中をさするエトネが一塊になっていた。
沈痛な空気が漂い、見ているだけでレティの恐怖が伝わる光景だ。
それから逃げるように、レイは御者台に座ったのだ。もっとも、理由はそれだけでは無い。
「シアラ。あの竜は何なんだい。いや、そもそも、あれはモンスターなのか」
隊列が進み始めた為、シアラも手綱を引きキュイを歩かせる。微振動が続く中、シアラはレイの疑問に答えるべく口を開いた。
「何処から説明すればいいのかしら。……まず、竜はモンスターじゃないわ。魔石を持っておらず、彼らは古代種の龍たちの眷属としてエルドラドに生誕したのよ」
「モンスターじゃない。だから、人を乗せてあれだけ自由に……って、ちょっと待った。竜は人龍戦役の時に全滅したんじゃないのか」
人類の暗黒期と呼ばれた、世界を火の海に変えた三つの戦争。その発端というべき始まりの戦争である人龍戦役は人と龍が争い、龍が敗北したとレイは聞いていた。それなのに、竜と人が共存している姿に違和感が生まれる。
すると、その答えを告げたのは、龍刀に宿るコウエンだった。鞘に収まったまま彼女は二人に語りかけた。
『全ての竜が滅んだわけじゃない。生き残った竜は『龍王』と共に北に逃げたし、そもそも、全ての竜が人龍戦役に参戦したわけじゃない』
「そうね。当時、竜は人から疎まれていたわ。無神時代が始まり、神に遣わされた古代種の龍や精霊が姿を消した時代。取り残された人間はどうにかやっていこうと模索し、もがいた。時には間違えたり、争ったりしたけど、人間だけの手で世界を安定させようとしたの。でも、それを邪魔してしまう存在が居たの。それが竜」
古代種の龍の眷属である竜たちは、様々な面で龍に劣っていた。その中でもとりわけ問題視されたのが知性と食事だった。
赤龍が知性を持ち、人の言葉が喋れるのに対して、竜は人とのコミュニケーションが取れなかった。彼らに文字という概念は無く、龍の統制下を離れれば獣と変わりなかった。
そして、彼らは龍と違い、大地を流れる魔力をエネルギーとして補給できなかった。普通の獣や人と同じで、物質的な食事を求めた。
残念ながら彼らは肉食で、その巨体を維持するためには多くの食料を欲した。しかし、彼らには食事を得るために思考するという知性は無く、短絡的な行動しか取れない。
―――すなわち、奪う事だ。
人間の育てた馬や牛、鳥などを捕食するだけならまだマシといえた。その生育で生計を立てている人たちには死活問題ではあるが。
しかし、一番の問題は竜たちが人間を捕食するようになったことだ。群れとなり、空を覆い尽くし、村々を襲う。彼らが通り過ぎれば、後に残るのは凄惨な食い散らかしだ。
そこに罪悪感など無く、弱肉強食の理に従う原始的な生物。
それが竜だ
結果として、人間にとって竜は神の遣わした存在から、人間に仇を為す害虫へと変化した。期せずして、冒険王の興したギルドが世界中に広がり、冒険者と呼ばれる人の形をした強者たちが誕生すると、各地で竜に対抗する動きが起きた。
始まりは小さく、静かな抵抗が時を経るにつれ大きく、激しい戦いへと発展した。
その行き着いた先が人龍戦役だった。
『じゃが、竜の中にも人との融和を望もうとしたモノらも居った。足りない頭を巡らせ、どの国が強いかを観察し、どの国なら自分たちを抱え込めるか探り、そしてある国に対して恭順の意思を見せた』
「それが帝国というわけか。じゃあ、あの竜は人龍戦役を戦わないという選択肢をした当事者ってこと」
『いや、竜は妾らとは違い、寿命が短い。あれはその子孫といった所じゃな』
「なるほどね。……それじゃ、何でローランやダリーシャスたちはあの竜騎兵を見て、あれだけ顔色を変えたんだろう」
歴史的な背景からだと、竜が帝国兵と共に居る事は不思議でも何でもなかった。だとしたら、帝国軍が派兵されるとなった段階で竜が随行するのは当たり前といえなくもない。帝国との親書の件を知らなかったローランたちが驚くのは分かるが、ダリーシャスがそれを予期していなかったように驚くのは筋が通らない。
すると、その不明な理由をシアラがひも解いた。
「いまもどうなのか知らないけど、帝国の竜騎兵になる兵士は皇帝とある契約を交わすのよ」
いって、彼女は自分の手の甲に刻まれた契約の証を掲げた。それはレイと交わした戦奴隷の契約である。
「竜騎兵は全員、皇帝の戦奴隷。自らの命を、文字通り王に捧げた兵士なの」
「それは……常軌を逸してないか」
エルドラドは奴隷制に奴隷紋という呪術的なシステムを導入している。奴隷紋を刻まれた者は、主の命令に従い、主に反抗できなくなる。一方で契約時に交わした奴隷契約書の内容に則り業務内容や、雇用期間、待遇などを規定する事が出来る。
それでも戦奴隷は契約の基本として自らの命を主に捧げる。この場合、皇帝が死ねば、自分たちも死んでしまうのだ。
幾ら貴族王族が特権階級として横暴を振るえる時代とはいえ、強制的に奴隷契約を結ぶのは行きすぎだと憤慨するレイに対してシアラが訂正を入れた。
「あのね。戦奴隷の契約は、竜騎兵の暴走を防ぐための措置よ。いわば、楔ね」
楔という表現に首を傾げる、シアラが片手を頭の上へと持ち上げ、ぶらぶらと揺らした。
「いい? 竜騎兵は空を飛ぶの。どれだけ高い城壁を築いても、どれだけ地上から弓を引き絞っても、空を舞う竜には通じないの。全部飛び越えちゃうのよ」
『勇者』が帝国における最終兵器ならば、竜騎兵は帝国における攻城兵器といえた。
何しろ、エルドラドにおいて空とは手の届かない場所なのだ。魔法や技能で届くことは出来るが、それは一握りの達人たちのみで、そんな達人を想定して防空対策をする国はまだ存在しない。
それは通常の軍でも同じだ。まだ二次元、平面での地上戦しか知らないエルドラドの軍隊は、空から奇襲を仕掛けられる竜騎兵からすると纏まった的である。攻撃の届かない空から一方的に爆裂魔法を落とすだけで、軍は全滅する。
空を舞っていたのは数匹の竜だが、それだけで一国の首都をそのまま襲えるだけの戦力である。
「どんな戦場でも空という高所を一方的に確保できる竜騎兵。その刃が自分に向かないように皇帝は戦奴隷の契約を施し、ワタシの時代だと海岸線の防衛任務に従事させていたのよ。人魔戦役の時、クリストフォロスが竜の防衛線を突破して海岸に軍を上陸させたって話を小耳に挟んだわ」
「それじゃ、竜騎兵は帝国の虎の子って訳か。そんな戦力を帝国はデゼルト国に上陸させた。そりゃ、驚くよな」
一万の軍勢と竜騎兵の存在は、帝国が本気で南方大陸に侵略戦争を行う姿勢という事になる。
近づくにつれ、帝国軍の居留地がはっきりとしてくる。威嚇の鼓舞をしている訳でも、高い城壁を築いている訳でもないのに、不気味な威圧感が漂ってくる。静かに肌を伝う冷汗を拭うと、レイ達は遂にガヴァ―ナの港町へと辿り着いた。
港町の空気は、別段おかしなところは無かった。
船から降ろされた商品が並ぶ市場は活気で賑わい、各地へ運び込むための馬車が行き交い、人々は何ら変わりない営みを送る。それはエルドラドを旅する中で幾度も見て来た光景だ。
隣接する土地に他国の軍隊が駐屯しているというのに、何ら変わりないという事が恐ろしい。
異常なしが異常という矛盾。
「帝国軍の存在で混乱したり、動揺したりしてないね」
「ええ。それに帝国兵の姿も見えません。どうやら、港町に帝国は手出しをしていない様子かと」
リザの青い瞳が因縁ある故郷の敵を探しているが、街中はレイ達の予想とは裏腹に平穏である。帝国の理不尽な圧政がひかれている訳でも、他国の軍隊が居るという事で不安や不満が募り暴動が起きる寸前でも無い。
本当に、他の街と何ら変わりないのだ。
街の入り口にある馬屋にキュイや馬車を預けるために降りたレイ達。そこにダリーシャスが厳しい表情をしたまま近づいた。
「其方ら。この街を見て、どう思う」
「……普通です。これまでに訪れた、どの街と比べても、際立った異変が無い。本当にどこまでも普通の街にしか見えません」
「やはり、そう思うか。幾らなんでも、気味が悪すぎるぞ。これでは、帝国の事も、ワシャフの反乱の事も、幻だと言われて納得しかけてしまう」
ダリーシャスが恐ろしげにつぶやくと、馬車を降りたローランが声を掛けた。
「王子、レイ君。僕らは一度、別行動を取らせていただきます。これより、ギルドに向かい、法王庁と連絡を取り、報告と今後の方針を伺います」
「うむ、相分かった。……一つ、尋ねるが、『聖騎士』である其方は、今後法王庁がどのような対応を取ると思うか」
「推測ですが、最終的には介入する事になるかと。ただ、それ以前に情報が不足しています。まずは現地に居る神官たちからの情報収集が第一段階として考えられますね。……ですが」
そこで一拍開けると、ローランは告げる事に躊躇いながらも言葉を続けた。
「問題の根本にデゼルト国王位継承問題があるとするなら、法王庁は強引なやり方で王位の継承を行わせ、国内を盤石とさせようとします。もし、王家の方針に口を出されたくないのならお早めに解決を」
暗に、その時は武力行使すら行うと匂わせたが、これはローランなりの警告だ。身内だからこそ知る、法王庁という巨大な平和維持機関の持つ暴力的な側面。そのトップに位置する『聖騎士』の口から出た警告。ダリーシャスはしかと胸に刻み込み、ギルドへと向かうローランたちと別れた。
「それでは、アフサル王子と合流いたしますか?」
「いや。それよりもまず、腹ごしらえがしたい。何処か適当な店に入るぞ」
ラシードの提案を退け、ダリーシャスは周囲を見渡して言う。
レイ達はキュイや馬車を馬屋に預けると、近場の飲食店に入った。昼時を幾らか過ぎた為か、店内は閑散としておりテーブルが空いていた。各々席に着き、注文を通すと、ダリーシャスは給仕をしている女将に声を掛けた。
「時に、女将。外の帝国軍。あれはいったい、どういう訳なんだ。随分と物々しい奴らじゃないか」
「なんだい、お客さん。アフサル様のお触れで集まった義勇兵じゃないのかい?」
レイ達の格好を見た女将は義勇兵と口にした。どうやらアフサルは義勇兵の募集もしているようだ。
「いや、俺達は単なる旅人さ。ここに寄ったのも船に乗りたくてな」
「そうなのかい。だったら、外の帝国兵に驚くのも無理ないね。あれはね、アフサル様がワシャフに対抗するために帝国から引き連れた援軍なのさ」
「ほう、援軍か。だとしても、こんな近所に他国の軍隊がいちゃ、おちおち商売もできんだろ。血も涙もない帝国兵。どうせ、市場で横柄な態度を取っているのだろ」
「とんでもないよ! 帝国兵たちは上陸した時から、ずっと街に入らないで、あそこで暮らしているんだよ。むしろ、街に金を落としてほしいって、ここいらのもんは望んでいるんだよ」
反逆者ワシャフとその一党を打破し、十四氏族を取り返す、正義の味方とばかりに女将はほめたたえた。
「あたしら民衆にしてみたら、王様や王族の顔なんて知らないからね。十四氏族の方たちの方がよっぽど顔の見えるお偉いさんさ。街の皆もここを統治するグセイノフ家の方に大変世話になってんだ。そんな人たちを人質に取るワシャフを倒してくれるんなら、帝国だろうとどこだろうと大歓迎さ」
顔の知らない王族といわれ、苦笑いを浮かべるダリーシャス。
ともかくガヴァ―ナが帝国に制圧されていないという情報は、ダリーシャスたちデゼルト国民にとっては朗報だった。僅かに張りつめていた緊張が緩んだ。
「なら、アイツらは首都の奪還が終わったら、帰国するのか」
「そうじゃないのかい? まさか、首都を奪還しても居座るなんて事はしないでしょうに」
街の人は、帝国とオードヴァーン家の間に交わされた親書の存在。そして帝国の南方大陸出兵の思惑に付いては知らないようだ。
世間話を装った情報収集を続けようとするも、頼んでいた料理が届いてしまい、女将が厨房へと引っ込んでしまった。湯気を立ち昇らせる料理を前にして、レイ達の腹が鳴る。
「まずは飯とするか」
ダリーシャスの呟きに合わせ、食事が始まった。大皿から取り分けた野菜の塊を口に運び、スープを啜る音がする中もテーブルのあちこちで議論は起こる。
「帝国の狙いを知らないってことは、本当に首都奪還だけの為に来た、っていう可能性は無いのかな」
「甘いわよ、主様」「甘いぞ、レイ」
シアラとダリーシャスの二人がかりで否定されてしまった。
「一万という軍勢を派遣し、その兵站を確保したという事は、帝国は本気で戦争をするつもりだ」
「わざわざ他国の内紛を収めるだけで兵を派遣なんかしないわよ。途中経過はともかくとしても、狙いはやっぱり、南方大陸への侵略よ」
親書の話を聞いた当初、戦争という単語が薄いベールの向こう側で影だけが見えているような。そんな実体のない単語のように聞こえた。心の中で、どこかまだ先の話だと漠然とした思いを抱いていた。それがここに来て、人と人が争い、殺し合うという事実が急速に形になっていく。それを目の当たりにしながら、止められない事に背筋が凍る。
胃が重くなるのは、食事をしているせいだけではないはずだ。
先行きの不安さに食べる速度が遅くなった時、エトネが驚いて顔を上げた。視線は店の出口の方だ。
「おにいちゃん。ひとがたくさん、くる」
「どんな人たちか分かるか」
「ぶきもってる。たぶん、へいたいさん」
エトネの警告をダリーシャスに伝えようとするが、それよりも前に店に闖入者が現れた。
背の高い男だ。武芸者らしく、均整の取れた体はしなやかかつ逞しさを感じさせる。灰色の髪を無造作に流し、琥珀色の瞳が店内を一周し、レイの顔を横切る。
自然と男とレイの視線は交わり、レイは驚きと共に呟いた。
「……ナリンザさん?」
読んで下さって、ありがとうございます。




