7-7 香水
レティの言葉は予言とはならなかった。
数日をかけ、レイ達はアルビノ砂漠の入り口、カストロへと何の問題もなく辿り着いた。
懸念されていたプラティス家の追っ手などはなかった。後になってから知ることではあるが、この時のワシャフ・プラティスにとって国の南東方面は重要度が低かった。首都を押さえた彼にとって最大の脅威だったのは北東で旗揚げしたアフサルの一派であり、そして彼に集結しようと動き出す諸侯の牽制に忙殺されていた。
また、国外での情報戦でダリーシャスたちは勝利をしていた。アクアウルプスにてレイ達を見送ったジェロニモ・フェスティオ。ダリーシャスへの協力として、彼はワザと敵の手に落ちるようなやり方で偽情報をばら撒いた。内容はダリーシャスがアクアウルプスからシュウ王国に引き返し、テオドール王との面会を行うつもりだというもの。
事実としては、そんな話は一つもなかった。むしろ、自国が乱れているという事を諸外国に知らせないようにとダリーシャスは情報の漏洩を厳命している。この偽情報の狙いは、ダリーシャスの上陸がまだ先の事であると思わせるのが狙いだ。
目論見通り、ワシャフはその偽情報を信じてしまい、ダリーシャスへの警戒を引き下げてしまった。自分たちの背後を、悠々とダリーシャスとレイ達が抜けようとするのにも気づかずに。
カストロの街は、レイが予想していた街とは少々雰囲気が違っていた。
城壁がなく、建物は砂を弾く壁としか機能しておらず、中には天井が崩れたままのもある。照り付ける太陽から、身を護るように長袖の衣服に身を包む人々は足早に影へと避難する。乾燥地帯でも育つオリーブの木に青い実が幾つもぶら下がっているが、どれも小さく、弱々しい。まるで街の持つ雰囲気を凝縮したかのようだ。
「……ずいぶんと、まあ……なんというか」
「言葉を選ぶな。さくりと言え」
「随分と貧しそうな街ってぇ!?」
「さくりと言い過ぎだろう!」
到着するなり、馬車と馬を売り払うという事で始まった荷卸しを終えたレイは、最初からサボって木陰で休んでいるダリーシャスにこの街をどう見ると聞かれ、感じたことを直接言うと後頭部を叩かれてしまう。
「言えって言うから言ったんだろ」
「それでも言葉を選べ。……まあ、いい。この街が貧しそうに見えるのは、単にカストロが特別なせいだ」
後頭部を撫でながらどういう意味だよと返したレイにダリーシャスが橙色の瞳を街の向こう、この先に広がるアルビノ砂漠の方へと向けた。
「ここカストロはアルビノ砂漠へと向かう旅人を見送るための街だが、同時に砂漠に侵食されつつある街でもある」
アルビノ砂漠は南方大陸にある全ての国家において、頭を悩ませる存在だ。暗黒期よりも前からあると言われているこの砂漠は、三百年前よりも二百年前の方が。二百年前よりも百年前の方が。そして百年前よりも今の方が、確実に面積を広げているのだ。
「あの砂漠は、少しずつ。それこそナメクジが這いずり回るよりも遅い速度だが、確かに広がっている。そのせいでカストロの街は砂漠に飲み込まれるのを避けるべく、街の移動を繰り返しているのだ。だから定住する者は少なく、どことなく寂しい街となっているのだ」
「砂漠が広がるのを止める手段は無いんですか?」
「無い。先人たちが幾つもの手段を用いて砂漠を押しとどめようとした。それこそ国を超えての共同作業となったが、時と金、そして資源を徒に消費していくだけだった」
歯痒いとばかりに言い切るダリーシャス。そこには本当に様々な方法で挑戦してきた歴史の重さがあった。俄か知識をひけらかして植林などを口にしても、すでに試した後だろうとレイは口を紡ぐ。
一方で思う。ここは異世界である。
それこそ、『科学者』が生み出した魔法と科学の混じり物、魔法工学なる存在だってあるのだ。その方面に詳しくないが、砂漠化を止める手段の一つぐらいはありそうなものだと首を捻った。
「まあ、自然という脅威には真っ向から立ち向かうのではなく、時には膝を折るのが賢明だと教えてくれた、良き教訓となっている。それに、市場の方は随分と賑わっているぞ。何しろ、砂漠に向かう者と、帰ってきた者が交差するのだ。金銀財宝とまではいかなくても、珍しいものがごろごろと転がっている。いま、リザ達が足を運んでいるのだろう」
「え、ええ。流石に金銀財宝は買ってこないと思いますけどね」
カストロの街に来た目的は大きく分けて三つ。一つは馬や馬車を売り払い、荷物を駱駝に積み替える事。もう一つが旅の間に必要な物資の購入。最後の一つはこの街に先に向かっていた仲間達から、砂漠の状況に関する情報を得る事だ。
いま、ラシードが空となった馬車と馬を商人に売ろうと商談に入っている。その間に、リザ達は別行動で砂漠縦断に必要な物資を購入しに市場へと向かってもらった。ガルド硬貨の入った巾着を空にしてもいいかしら、とシアラが聞いてきたのは冗談だと思いたい。
すると、ラシードと話し込んでいた商人が三台並ぶ馬車の内、一番端の馬車を指差した。それはレイの馬車だ。どうやら、あれも売るのかと尋ねているようで、ラシードが表情を硬くしながら、大声で叫んだ。
「レイ殿! レイ殿の馬車も、こちらの方に売りますか?」
「いや! ちょっと待って! これは売らなくても大丈夫だから!」
慌てて止めに入るレイに対してラシードは厳しい顔をする。まだ心を許してくれていないのかと肩を落としそうになるが、どうやら違うようだ。
「困りましたね。流石に、馬車で砂丘を渡るのは。……ですが、あれは貴方の馬車ですし」
爪を噛む仕草は本当に困った様子で、馬車を値踏みする商人は急かすように足を揺らした。
「お客さん。こっちとしては早く次の商売に移りたいんだけど。売るの? 売らないの?」
「ちょ、ちょっと待って―――レイ殿?」
素早くラシードの耳に顔を近づけると、レイは大丈夫だと繰り返した。
「あの馬車は特別でね。とりあえず、今はそっちの馬車と馬を売って。後で説明するから」
と、だけ伝えると、ラシードは半信半疑ながらも商談を成立させた。
商人の手で馬車と馬が運ばれていくと、どういう事かとラシードが尋ねた。
いま説明するからと前置きしたレイは馬車の中を確認しておく。空間拡張された馬車の中は誰も居ないのだが、確認のためだ。エルフの里で生き物が中に居ると使えないと言われていたが、それを実際に試したことは無い。仮に、成功してしまった場合どうなるのか考えると恐ろしくて挑戦できないでいた。
ともかく、馬車の中は物資のみである。すでに何度か見たことのあるダリーシャスはどちらかというとラシードの反応を愉しむように一歩下がって見学していた。ラシードは何が起きるのか不思議そうな顔をしており、レイは自分がマジシャンになったかのような気分を味わった。
「見ててね、《リダクション》!」
サファに教えられた言葉を告げると、馬車の大きさはみるみるうちに小さくなった。驚くラシードの前で、レイは掌に乗るサイズまで縮んだ馬車を摘まみ、少年の掌へと乗せた。
「この馬車はエルフ製でね。ご覧の通り、馬車の大きさを変える事が出来るんだ。もっとも、中に人や生き物を入れた状態では出来ないんだけどね」
琥珀色の瞳がキラキラと宝石のように輝きながら、手のひらサイズにまで縮んだ馬車に注がれる。こぼれる感嘆のため息に、レイとダリーシャスは口元がにやけそうになった。
「うわぁ! すごいなぁ……。それで、これはどうやって戻すのですか?」
「え? ああ、戻し方ね。戻し方。それじゃ、一回返してもらうよ」
口元を引き締めたレイが馬車を地面におき、《エクスペンジェン》と唱えた。すると、馬車は元の大きさへと戻った。
「これなら、ポケットにでも入れておけば嵩張らないだろ」
「……はい。問題ありません。……というよりも、一つ、お願いがあります」
何かを思いつたかのようにラシードはお願いを口にした。それは《ミクリヤ》の馬車に水や食料を積み込ませてほしいという内容だった。本来の計画では、次のオアシスにいくまでの分は手配される駱駝の数でも運べるのだが、この先に何が待ち構えているのか分からないため、用心の為に予備を運びたかったそうだ。
「かといって、駱駝の数を増やすというのもどうかと思い。……できませんか?」
「お安い御用だよ。この馬車、中の空間が広くなっているから。どうせ、砂漠じゃ馬車として使えないから、生活する分の面積も使えば、ちょっとした倉庫になるだろうしね」
「ありがとうございます。早速、計画に組み込ませてもらいます」
言うと、ラシードは仲間達の元へと変更点を伝えに戻った。これで少しは自分への態度が柔らかくなってくれればいいなと下心を期待するレイだった。
「ただいまー」「まー!」
「ああ、お帰りなさい」
ふと、気が付くと、入れ替わるようにリザ達が戻ってきた。背負ったり、担いだりしているリュックサックや革鞄がこれでもかというほど膨らんでいる。エトネは軽々と扱っているのだが、レティにはやや重たそうだ。地面に降ろすとその上に身を投げ出していた。
「市場、凄い賑わいだよー。目が回りそうだった」
「あはは。お疲れ様。何か、目ぼしいのはあったかい」
レイが尋ねると、レティは途端に活力を取り戻したかのように、購入した珍しい薬剤の材料やレシピを説明しだした。止まらない薬学トークにたじたじとなる中、リザとシアラがレイに声を掛ける。
「ただいま戻りました。……レティ、レイ様が困ってますよ」
「ただいまー。ああ、ほんと、暑いわね、こっちは」
「お帰りなさい。……ってあれ? そう言えば、皆、珍しいのをつけているね」
レイの言う通り、四人の姿は市場に向かう前と後では違っていた。リザ達はいつもの格好の上から全身をすっぽりと覆うマントと、ターバンを頭に巻いていた。
「この暑い日差しの中、マントを羽織るのかい」
「デザートウルフの毛で作られたマントだそうです。見た目の割に通気性が良くて、悪くありませんよ」
「そうだぞ。それに、この日差しで肌を晒していたら、慣れてない奴はあっという間にひぶくれをおこしてしまう」
「四六時中、半裸の男が何を言っているんだか」
はっはっは、と笑った男は日陰から出ると自分の分を貰いにラシードたちの方へと向かった。
「まあまあ。こちらが、レイ様のマントです。お試しください」
リザに促され、レイはしぶしぶマントを羽織った。確かに彼女の言う通り見た目よりかは通気性に問題は無かった。また、日差しを遮るという重要性も理解できなくはない。
「お似合いですよ。それと、ターバンです。レイ様。頭を下げてください」
言われるがまま頭を下げたレイにリザはターバンを巻いて行く。その際、レイの鼻を何か柔らかな匂いを捉えた。それは温かな木漏れ日のような、柔らかな匂いだった。
「これは……香水?」
「あ、申し訳ありません。市場で熱心に薦めてくる商人が吹きつけたのがまだ残っていましたか。御気分を害したのなら、申し訳ありません」
「ううん。この匂い、嫌いじゃないや」
ターバンを巻く手が離れ、香水の香りも離れようとする。その手を無意識にレイは引き留めていた。手首に吹き掛けられたそれに、レイは顔を近づける。目を瞑り、匂いの元となる花が何なのか思い出そうとする。
「菊? いや、違うな。何の花なんだろう、これは」
何処かで嗅いだ、だけど分からない。
喉に骨が刺さった様な、どうしても思い出せない花の香りに誘われるように、レイの顔はますます近づいてく。
「え? え? レ、レイ様?」
それが衆人環視の中で行っているという事を当の本人の頭からすっぽりと抜け落ちていた。慌てふためき、身を硬直させるリザ。この行為は見ようによっては、恋人の手首に顔を摺り寄せる求愛行動のようでいて―――。
「はい、はい、はーい! そこまで!」
―――二人の間に割り込んだシアラの五指がレイの顔をがしりと捕まえた。小さな白い手のどこにそんな握力が隠れていたのか、レイの顔がミシミシと音を立てていく。
「いたたたたた! 痛い、痛い!」
「あら、御免あそばせ。香水の香りが楽しみたいのでしょう。でしたら、ワタシのも存分に堪能しなさい」
「いや、この状況で嗅げる匂いなんて、僕の顔が陥没した際の血の臭いぐらいでして!」
レイの悲鳴が熱砂の大地に染み込んだ。
数分後。くっきりと五指の跡を顔に残したレイに向けて、シアラが絶対零度の視線を突き刺していた。夏の日差しに当てられた大地に正座するレイの下半身は温められ、上半身は冷たい眼差しで冷やされるという稀有な経験をしていた。
「で? なんで主様はこんな衆人環視の中でリザの手首に顔を擦りつけようとしてたのよ。頭がこの日差しで茹で蛸になったの。湧いてんの?」
口から吐き出される言葉も、絶対零度の領域だった。
「いや、何というか。珍しく香水をしていたから……その興味本位と言いますか……その……」
ほとんど無意識に近い行動だったのでレイ自身、上手く言葉が出なかった。最初に感じた何処かで嗅いだ事のある匂いというのも、頭の彼方から消えていた。そんな主と、馬車の中で身もだえしているリザを交互に見たシアラは大きなため息を吐いた。
「なんか怪しいわね。アクアウルプスからみょーに怪しいわよね、アンタら。この前もそうだけど、距離感が変わったっていうか、縮まったていうか」
ぎくり、とレイは身を強張らせた。確かにアクアウルプスでは重大な出来事があった。二人の距離感が変わる大きな出事だった。
しかし、そのことはまだ誰にも話していないというのに、勘だけで辿り着いたシアラは恐ろしい。
「あ! やっぱり、その反応。やましいことがあったんでしょ!!」
「いや、天地神明に掛けて誓うけど、本当にやましい事があったわけじゃないんだ!」
「だったら、何があったか言いなさいよ!」
「さいよー」
シアラが胸倉を掴んで揺らし、エトネが面白がって口調を真似る。そんな状況下でも、レイはまだ言えないと馬車の方に視線を向ける。
顔を赤くして恥ずかしがるリザと、その姉を世話するレティ。仲の良い姉妹が背負わされた業の話をレイはアクアウルプスで知った。
その時、リザはレイに頼んだ。今度は自分の口から皆に説明したい、と。それが今まで自分たちの過去を秘密にしてきたことへのケジメだと言わんばかりに。
レイはそんな彼女の覚悟を尊重し、了承した。本当なら、アクアウルプスでの事件が終わったら話をしてもらうつもりだったのだが、事は上手く運ばない。
ファラハの死亡、ワシャフの反乱といった非常事態に追われてしまい、アクアウルプスでも、離れたあとでも、ここまで話す機会を持てなかったのだ。
かといって、やはりこの事をレイの口から語るのはしのばれる。
だから、レイにできるのはシアラの追及に対して貝のように固く口を閉じる事だけだ。
しばらくして、やっと気がすんだのか、あるいは諦めたのかシアラが息を荒げつつも胸倉から手を離して、代わりにレイの手を取った。立っても良いという許可だ。
それに従いレイは立ちあがると、リザからした香りを再び嗅ぎ取った。
「この匂い。さっきのだ」
レイの反応にシアラは買いこんだ荷物の中から小瓶を取り出した。その蓋を開けると、途端に先程の嗅いだ匂いが辺りに立ち込めてきた。
「主様のいう匂いはこれでしょ」
「うん、それだよ。……にしても、珍しいよね。二人が嗜好品を買ってくるなんて」
「これも砂漠には必須の品よ。何しろしばらくは体を拭くこともままならないんですもの。香水は必需品よ」
「水が貴重品って訳か……あれ? でもさ。だったら魔法で水を出せばいんじゃないの?」
レイの言葉にシアラがきょとんとした顔をした後、納得したように掌を打つ。
「しまった。そのことを説明し忘れていたわね。そうよね、主様って知らないもんね」
失敗したわと呟きながら、シアラは小声で告げた。
「あのね。アルビノ砂漠だと、魔法は使えないから」
「……はぁ?」
「だから、言葉の通りよ。新式も、旧式も、精霊も。魔法は全部使えないから」
告げられた内容を理解するのにレイは幾らかの時間を必要とし、驚きのあまり魂が抜けたかのような声を出してしまった。
「はぁ!?」
読んでくださって、ありがとうございます。




