閑話:英雄散華Ⅰ
これは敗北で終わる物語である。
これは敗者で終わる物語である。
これは失敗で終わる物語である。
何故なら、十三人の『招かれた者』は一つの目的の為に召喚される。
滅びが確定したエルドラドの救済。魂が肥大化した『七帝』を排除し、世界を救うという使命を与えられている。
そのために、神々は他世界からこれはと見込んだ魂をエルドラドに送り込んだ。
例えば、世界を救ったことのある勇者。虐げられた民族を守った殉教者。科学技術を一段階進めた科学者。
例えば、世界を滅ぼしてしまった魔法使い。人を殺す性に逆らえなかった剣士。神の教えに従い異教徒を弾圧した司祭。
善悪を問わず、己が見込んだ魂を彼らはエルドラドに呼び寄せた。
しかし、彼らの試みは敗北に、敗者に、失敗に終わる。御厨玲という十三番目の『招かれた者』が呼び出されたということは、そこに到るまでの十二人は悉く力尽き、朽ち果てて行ったことに他ならない。御厨玲という存在は失敗の象徴でもあるのだ。
これはその物語の一つである。
神々がいまのエルドラドと接触を断ってからおよそ三百年の時間が経った頃。とある地方の、とある場所に一人の『招かれた者』が居た。
後の歴史家に言わせれば、人類の黄金期が始まるよりも前。無神時代が始まってからの四百年間は衰退期である。
突如起きた、神々との別離は世界の在り方を一変させた。それまでのエルドラドは十三の神々のどれかを信奉し、代わりに神の庇護下に置かれていた。この庇護は単なる精神的な物ではなく、物質的な物であった。
神々に祈りを捧げれば、神の言葉を賜る事ができた。神々に生贄を捧げれば、土地に雨を降らせた。神々に助けを請えば、直接降り立って困難を排除してくれた。
『神々の遊技場』を管理し、運営するのが13神の役目である。そのために、ゲームの盤であるエルドラドが崩壊し、破綻しないように調整するのが彼らの役目であった。そんな事は知らない人々は、神々の力を借りながらも自らの文明を成長させてきた。
ところが、ある日を境に神々はエルドラドに直接介入することを止めた。エルドラドの崩壊を防ぐために時を巻き戻し、他の神から直接介入することを禁じられたのだ。
そんな事情を知らない人々は絶望した。
神は人を見離した、と。
人は見捨てられた、と。
人心は荒れ、信仰は地に落ち、各地で暴動が起きた。
理由は様々だ。神に見捨てられたことにショックを感じたことや、神が居なくなったことで特権階級に対する恨みが噴き出したことや、神が居なくなったことで土地の魔力が乱れ不作が続いた事などなど。
結果、無神時代が始まるよりも前に存在していた王国や帝国、連合国家や民主国家、共和国などは軒並み滅亡した。神々が居る事で維持されていた共同体が消滅したのだ。
人々は文明の針を逆に回した。
それまでに積み上げてきた、技術、文化、思想、学問、政治を崩し、神に頼らない新しい国家の在り方を模索しようとしては失敗し、新たな国を作ろうとして失敗しを繰り返していった。
神々に言わせれば、それは酷く無駄な行為だった。いたずらに資源を費やし、時を無駄にする蛮行。しかし、止める事はできない。
衰退期は神々に見捨てられた人々が、神々から離れようともがき、失敗を積み重ねた時代である。
そんな寒々しい時代に、ある国だけはこの世の春を謳歌していた。
緑が絶えることはなく、清らかな水は尽きることなく、なによりこの世における上位の存在、精霊が姿を現す。
無神時代が始まり、魔力が乱れたエルドラドに置いて、精霊は人前から姿を消した。呼べば召喚されはするが、それはいわば現象になり下がった。だけど、その土地は違った。精霊は己が意思一つで顕在できるほどの濃い魔力が残されていた。
誰もが羨む理想郷は、当然のように周辺国の脅威に晒される。
幾度となく軍事衝突が繰り返され、多くの血が流された。それでもその理想郷は誰にも奪われずに、そこに存在していた。
なぜなら、彼らには『英雄』が付いていたのだ。
乾いた大地に無数の足跡が刻まれる。のべ一万の大軍勢が軍列を成して進む。丘の上に陣取った老将軍は麾下の兵たちを馬上から眺める。
規律良く走る歩兵。入念な確認を行う弓兵。人馬一体の域に達した騎馬兵。魔人種を迎え入れた魔法部隊。そして今回の侵攻作戦の為に用意された秘密兵器。
質、量、共に過去最高の物を用意できたと自負していた。
それでも将軍の胸にはどす黒い不安が重くのしかかっていた。これまでの幾度もの敗戦が老将軍の心に影を差していた。
「み、見事なものです。これがすべて、閣下の兵と考えると、これほど頼もしい物はありません」
老将軍の心を知らずに、近習の兵が目を輝かせて口を開いた。まだ年若い、無垢な青年である。初陣はとうの昔に果たしてはいるが、この民族を相手取った戦争は初めてだと出立前に言っていたなと思い出す。
「……知らぬというのは、哀れでもあるが羨ましくもあるな」
ポツリと呟いた言葉は砂塵に紛れて、抜けるような青空へと吸い込まれていった。訝しげな視線を送る兵から逃げるように老将軍は視線を更に先へと向けた。
これから戦争をする国の防壁が目に飛び込んできた。
もっともそれを防壁と呼ぶのが適切かどうかは老将軍には分からないが、はたしている役目は防壁と呼ぶに相応しかった。
老将軍の視線の先には何千、何万本という数の針葉樹が楕円形に配置されている。
垂直に伸びる幹はくすんだ灰色をしており、伸びた枝葉は針葉樹らしく刃のように鋭い。暗い緑と合わさって、遠目からでは薄墨色の壁のように見える。
問題はそのサイズだ。一本一本が巨大な塔の如く、太く高い。同時に非常に固く、刃は勿論の事、投石機も魔法も阻む硬度を持っている。更にどういう訳か木々の間には隙間が無く、人も獣も入り込む事が出来ない、まさに絶壁となっている。その高い防御力から、近隣諸国からは鉄の森と皮肉られている。
唯一、通り抜ける道はある。楕円形の端に一カ所だけ、細長いが鉄の森を抜ける道があるのだ。彼らはそこを風の通り道と気取った呼び方をしている。
「風以外は通るのに許可が必要という訳か。下らん。……だが、その下らない小道を突破する事が出来ず、この百年我らは負け続けた」
「……ですが、此度の戦は魔人種の傭兵部隊を雇い、新型の投石機も用意したまさに総力戦。負ける要因など」
「私は、彼らと四度戦い、四度負けた。一兵卒の頃から、彼らの強さを目の当たりにした事で、彼らの強さと恐ろしさを骨の髄まで思い知った」
開戦前の指揮官とは思えない弱々しい話に、近習の兵は落胆する。ところが老将軍は背筋を伸ばしたまま、ありのままの評価を下した。
「その私が保証しよう。此度の戦において、我らの用意した戦力は奴らの防衛を上回るだろう、と」
その一言に場が湧き立つ。近習の兵を始めとして、護衛の兵士も、作戦の打ち合わせをしていた軍師や各部隊の隊長たちも指揮官のお墨付きをもらい、顔を高揚させた。
ところが、老将軍は表情を引き締めたまま、
「だが、それでもあの悪魔を倒せるかどうかは分からん。過去四度の、そしてこの百年近い年月、数多の兵を、国を退けて来た悪魔は……『英雄』と呼ばれている悪魔だけはどうなるかは分からん」
「……閣下。それほどまでに強いのですか。その……『英雄』と呼ばれる女は」
兵の質問に老将軍は短く強いとだけ答えた。
「あの者の強さを図る物差しを私は持っていない。それは、この大陸に住まう誰にも出来ない事だ。私のような凡人達にはあれを倒すには数で押す以外の方法を知らぬ」
「それは連合軍の事でしょうか」
「うむ。いま、あの国を落とす為に工作をしている国が居ると聞く。現場に居る者達にも伝わるのだ。直に形となるのだろうな」
「でしたら、どうして陛下はこの時期にわが国だけで戦を始めようとしたのでしょうか。他国と足並みを揃えればいいのに」
兵士の疑問はもっともである。一国で倒せない相手を前に、国が垣根を超えて結びつこうとする時期に、自分たちだけが先走った行動をとれば、他国との足並みを乱す行為だ。
すると老将軍は孫ほど年の離れた兵士に向かって諭すように話す。
「陛下が見据えているのは、先の話だ。連合軍が勝利した場合、待っているのは全面戦争だ」
思いがけない言葉に兵士は息を止めた。
「広大な花の都を占領すれば、飢えている民を救える。それはどこの国も同じだ。困窮しているのはわが国だけでは無い。仮に手を結んで花の都を押さえたとしても、今度はどれだけ土地を奪えるかで戦が始まる。そうなれば、大陸全土に血の雨が降り注ぐ」
老将軍の言葉が震え、何時の間にか涙が頬を伝っていた。老将軍ははるか先にある薄墨色の森へと手を伸ばし、掴み取るかのように握りしめた。
「己の繁栄しか考えない悪魔の民族を撃ち滅ぼして、その先に待っているのが更なる地獄というのは余りにも皮肉な話だ。故に陛下はいま、この瞬間に全てを賭けたのだ。いまなら、他国との腹の探り合いを考えずに、憎たらしい鉄の森の向こう側を手中に収める事が出来るのだ。……祖国の興亡、この一戦に掛かっていると知れ!」
「「「はっ!!」」」
胸を激しく打ち鳴らす敬礼をした部下たちを頼もしそうに見た老将軍。すると、丘の下から伝令が老将軍の名前を呼んで駆け上がってきた。
「報告いたします! 敵の使者が、閣下にお目通りを願い出ています」
「分かった。通せ」
息を整える暇もなく伝令は駆け下りた。老将軍は馬上から身を翻し、天幕の中で使者を招く準備をする。
ほどなくして、丘を登って使者が老将軍の前に姿を現した。
「ご機嫌麗しく、将軍閣下」
非常に整った顔をした青年だ。目鼻はすっとしており、柔らかな物腰は貴人のようで、とてもじゃないが敵地に乗り込んでくる豪胆な行動とは結びつかない。
フードを外した際に彼らの特徴である緑髪と長い耳が揺れる中、使者は挨拶もそこそこに話し始めた。
「エルフの王からの言葉を伝えます。『兵を退かれよ。いまなら無用な死者を出さずにすむ。棺桶を作る木材が、貴国に残っているとは思えないぞ』……との事です」
居並ぶ男たちの目が険しくなり、一部の者は剣の柄に手を伸ばしていた。それを老将軍は一睨みする事で押しとどめた。
「……忠告、痛み入る。こちらも王からお言葉を預かっている。是非、そちらの王にお伝えして欲しい」
「何でしょうか。大変興味があります」
此処に来るまでに身体検査は済ませてある。懐刀の一つも持っていないのは確認しているというのに、殺気立った男たちに睨まれてもエルフの使者は動じる様子は無かった。
「『貴国の豊饒なる大地を明け渡せ。我が国の飢えた民を救う、ただ一つの方法である。こちらとしては無用な血を流すのは本意ではない。降伏するというのなら、慈悲の心を持って交渉に応じよう』」
「これは異なことを。このような大軍勢を展開しておいて、交渉の場を持ちたいとは。貴国ではこれを何と呼ぶかは存じ上げませんが、わが国ではこれを恫喝と呼ぶのですよ」
そもそも、と使者は続けた。
「貴国の窮状に対して、我が国はこれまでにも援助を惜しまなかった。種を分け、薪を分け、鉄や銅すらも与えていた。物資だけでは無い。必要な知識や技術を持った人材を派遣すらした。全て無償だ。貴国はその恩を忘れたというのか」
居並ぶ男たちが返答に窮す中、弁の立つ軍師が反論をした。
「それはわが国では無い。我が国の出来る前の国。百年以上も前の出来事ではないか」
「先祖の恩は子孫である自分たちとは関係ないというのか。まったく嘆かわしい」
肩を竦める使者に老将軍は表情を厳しくして口を開く。
「百年前の恩には感謝をしよう。しかし、今この瞬間にも飢えた民は死に瀕している。それを哀れに思うなら、土地を明け渡して欲しいのだ。この百年。其方らエルフは我ら人に対して門を閉ざしてきた。それは何故だ」
「人が愚かだと思い知ったからだ。百年以上前に、貴国以外にも幾つもの国や民族にわが国は物資を与え、人を貸した。その結果はどうだ? 其方らは与えられたものを漫然と消費し、使い潰してしまったではないか。その上、更に寄越せと厚かましくも言う。まるで飢えたゴブリンではないか」
「な、なんだと!!」
兵士が激昂し、掴みかかろうとするのを周りが押しとどめた。萌黄色の瞳がそれ見た事かと言わんばかりに騒動を睨みつけた。
「故に、我が国は国交を断った。森の向こう側は全て我らエルフの物である。貴様らに渡す物は一つもないと知れ」
「……それはエルフの総意と受け取って構わないのか」
「ああ。私は国王陛下の名代。私の言葉は陛下の言葉と知れ」
エルフの使者と老将軍は視線を刃のようにぶつからせながら、距離を詰めた。互いの首に手が届きそうな距離で睨みあい、そして告げた。
「「なら、戦争だ」」
そして、マントを翻してそれぞれ踵を返した。使者は天幕を離れ、老将軍は居並ぶ一堂に号令を下した。
「攻めよ! あの鉄の森を超えるのだ!」
その声は天幕の外にも響き、森へと戻ろうとする使者の一行にも聞こえていた。
「どうでしたか、会談は……って聞くまでもありませんね」
「交渉決裂……というよりも、あちらは交渉する気も、許可も貰っていないようだ。最初から、戦争がしたくてうずうずしていたよ。あの若造は」
エルフと人では寿命が違う。人の寿命が六十、七十に対して、エルフは三百年、四百年は生きる。二十歳ぐらいまでの成長速度は人と同じだが、そこから先はほとんど年を取らない。死ぬ間際になって急速に老け込むのだ。
使者の男は若い見た目にも関わらず老将軍の倍以上の年齢である。
「まあ、戦争になる方が確率は高かった。こればかりは仕方ない。それよりも防衛の準備は?」
「守備隊が四部隊。計百人がすでに風の通り道前を封鎖しています。予備兵力として、更に四部隊、招集しますか?」
「いや、それで十分だろう。とりあえず、敵の出方を伺う。ただし、いつものようにアイツを呼び出しておいてくれ」
「既に知らせにサファを向かわせました。あとは貴方が指揮に戻るだけです、将軍閣下」
連れて来た馬に跨った使者改めエルフの将軍は自国を攻めようとする人間の兵士たちを眺め、どこか悲しげに呟いた。
「まったく合理的では無い。どれだけ集めても、人が『英雄』に敵うはずがないだろう」
馬が花畑を走っていた。躍動する足が地面を蹴る度に花が飛び散るのを馬上の男は申し訳なく思っていた。しかし、今は手綱を緩める場合ではないのだ。
風の通り道を抜けてから五時間が経過していた。何処に居るか分からない師匠を探して、青年はあちらこちらを彷徨う羽目になったのだ。手綱を握る手は汗に滲み、潰したマメに染み込み痛みを走らせた。
エルフの例にもれず、彼もまた顔立ちは整っているが何処か自信なさげな雰囲気を醸し出していた。視線はあちらこちらを彷徨い、色とりどりの花畑を端から端まで追いかける。青年に驚いて、子供のエルフが飛び上がって逃げたり、女のエルフたちが注意をしてくるがすべて無視だ。
すると、青年に向かって奇妙な声が投げかけられた。
「おやおや。痩せっぽっちじゃないか。こんな所で何をしているのかな」
「痩せっぽっちが青い顔してうろうろ、うろうろ。花を虐めているー」
まるで子供のような、それでいて大人のような不可思議な声に、青年は叫んだ。
「《シナヅ》、《ヒコノミ》! ちょうどいい、師匠を見なかったか!?」
「師匠? ああ、見たよ。さっきまで遊んでいたから」
「そうなのか? だったら、何処に居るか教えてくれ!」
「いいよー。こっちだよ」
ふわりと、風が青年の頬を撫でると、視線の先に風の精霊である《シナヅ》、《ヒコノミ》が姿を現した。風で巻き上げた花弁が子供の姿を生み出し、こっちに来いと手招きしている。青年は馬を走らせ追いかけた。
「ほら、あそこだよ。あそこで他の精霊と遊んでいるだろ」
「おーい! 痩せっぽが遊びに来たよー」
ほどなくして、目的の場所に着いた。そこは花畑の中でも一際異様な場所だった。絨毯のように敷き詰められた花畑の上に水で模られた女性が座り、土塊を固めた武骨な巨人がちまちまと花輪を作り、渦を巻いた炎が空を気ままに泳いでいた。
どれも精霊だ。それも《シナヅ》、《ヒコノミ》と同じ最上位の精霊である。本来なら、エルフの前でも気軽に姿を現さない高位の存在が、一カ所に集まっている。
魔力の濃い花の都では精霊が勝手に顕在化できるとはいえ、これは異常だ。だけど、その中央でうたた寝している存在を知れば、誰もが納得する。
馬を降りた青年は急いで寝そべる女性に駆け寄った。
花畑に身を預けた女性は、エルフという事を差し引いても非常に美しかった。光を反射して煌めく緑髪に、可憐な顔立ちに起伏に富んだ体の線。周りの色とりどりの花々は彼女を飾り立てる装飾のようであった。
水の精霊である《ミヅハノメ》の膝に頭を預けたまま熟睡している。《ミヅハノメ》は愛おしそうに髪を指で梳いている。走り寄ってきた青年に注意すら向けていなかった。
青年は覚悟を持って熟睡している女性に声を掛けた。
「し―――もごっ!!」
「静かにしなさい。この子の眠りを妨げる物ではありませんよ」
《ミヅハノメ》の背中から水の触手が伸びて青年の口を塞いだ。そればかりか、土の巨人が足を拘束し、炎の竜巻が首を締め、《ツナヅ》と《ヒコノミ》が両手を押さえつける。身動きどころか命の危険に晒されている青年は心の中で叫んだ。
(戦争が始まったんです! いま、風の通り道で防衛戦が行われて、師匠が呼ばれているんです!)
最上位の精霊ならば、人の子の心なんて読むのは造作もなかった。
「……あら。そういう事だったのですかそれでした、それならまあ、仕方ありません」
言葉とは裏腹に未練そうに《ミヅハノメ》は眠っている女性の肩を揺らした。
「ほら、起きてください。……戦が始まりますよ」
もう既に始まっているのだがという訂正を青年は言えなかった。精霊たちの拘束から解放され、生き延びた喜びに震えていた。
「……いくさ?」
萌黄色の瞳がうっすらと開き、何度も瞬きを繰り返す。《ミヅハノメ》は愛おしそうに頷くと女性の頭から睡魔の靄が晴れて行った。
「戦か! なら、あたしの出番って訳か」
足を持ち上げると、重力を感じさせない身軽さで起き上がる女性。彼女は体を解しながら傍に居た弟子に気が付いた。
「あれ? アンタ、こんな所で何してるんだい。戦が始まるんだろ。まさかこんな所で油を売ってるのか。そりゃ、花の油はエルフの特産とはいえ、何も戦の時に集めなくても」
「違いますよ! 師匠を呼びに来たんです。それに、もう始まって大分経ちます」
「なに!? だとすると、遅刻なのはあたし?」
目を白黒させながら叫ぶ女性に青年は頷く。根っからの戦狂いである彼女にしてみれば、うたた寝していて遅刻というのは許される物ではないのだろう。頭を抱えてしゃがみ込む姿を見て、嘆息する。
「ほら。顔を上げて下さい。馬の足なら、ここから二時間で風の通り道に着きます。今回は一万の敵ですから、まだ残っているはずですよ」
手綱を引き、馬に乗ろうとする青年だが、それを女性は止めた。どうしたのかと訝しげる青年を他所に女性は周りに居た精霊に声を掛けた。
「《ミヅハノメ》、《オシホホミ》、《カグツチ》、《シナヅ》、《ヒコノミ》。全員来な」
返事は無く、代わりに精霊たちが女性の体に吸い込まれるように消えた。
いや、ようにではなく、本当に吸い込まれたのだ。精霊との親和性が高いエルフだが、それは高位の精霊を召喚できるという事に過ぎない。精霊を自分の体に宿すことが出来るのは彼女ただ一人だ。
五体もの精霊を宿した彼女は軽く屈伸をすると、青年の首根っこを掴んだ。
「し、師匠? 何をしているんでしょうか」
「あん? 急がないといけないんだろ。だったら、こうした方が手っ取り早いだろ、っと!」
言うなり女性は大地を蹴り上げ、空高く舞った。急激な上昇に青年は目を閉じた。まるで、風の層をぶち破るかのような衝撃を浴びて慌てて精神力を全身に回して防御に徹した。
「おい、おい、サファ。見てみなよ」
名前を呼ばれて青年―――サファは瞼を開けて、戦慄した。故郷である花の都ははるか下に存在し、防壁の向こう側で米粒大の兵士が染みのように大地を埋め尽くしているのを見てしまった。
僅か一足飛びで、信じられない高さにまで飛び上がった事に気が遠くなりそうになる。ぐらりとバランスを崩したサファを女性は慌てて掴み直した。
「おっとっと。こんな所で落ちたら、死んじまうぞ。……にしてもお前、本当に軽いなぁ。ちゃんと食べてるか」
「……食べてますよ。でも、食べた端から消費されて肉にならないだけです」
「ああん? それってどういう意味だよ」
問いかけにサファは思わず叫んだ。
「師匠の修業がきつ過ぎるんです! 食っても、食っても、しごきがきつ過ぎて、しまいには全部吐いてるんですよ!」
悲鳴まじりの叫びに師匠は腹の底から笑う。その笑いは陰湿なものは一切なく、あっけらかんとした明るさのする笑いだった。悔しいが、笑う姿も美しいとサファは思う。
「あっははははは! そいつは済まないね。お詫びに今度、あたし手製の料理を食べさせてやるよ」
「本当ですか!? ……って、それより師匠。ここからどうするんですか? 戦場はあっちです」
サファは改めて疑問を口にした。真上に向かって飛んだのはいいが、ここは足場の無い空中で、戦場は視線の先なのだ。このままでは真下に落ちて終わりだ。
すると、それを予期していたかのように女性は笑う。うたた寝をしていた時の静謐さはどこに行ったのか、苛烈さを滲ませた笑いにサファは背筋を震わせた。
「こう、するんだよ!」
言うなり、女性の背中に炎の翼が生えた。それは羽ばたくなり推進力となって二人を前へと押し出した。その速度は凄まじいの一言に尽きて、ぐんぐんと戦場が近づいていく。
ただし、これは飛翔では無い。
真下に落下するはずの二人に斜めのエネルギーを加えた、いわば滑空だ。速度を上げて、戦場に墜落しようとしていた。地面が迫る中、速度を抑えるどころか増していく女性に対してサファは尋ねた。
「し、師匠!? これって、どうやって止まるんです、というか、止まる気あるんですか、あんた!?」
女性は脂汗を滲ませ、頬をひくつかせながら、何故か自信満々に返した。
「そんなの知らん!」
「うわぁあああああああ、師匠の馬鹿野郎ぉぉぉぉ!」
「あっはははははははは、あたしは女だ、ばーかー!」
男の悲鳴と、女の笑い声が戦場に響き渡り、両者は彗星の如く地面へと激突した。地面が揺れ、地響きが轟き、土煙が噴火のように舞い上がった。
戦場に居た誰もが墜落した方向を振り向いた。エルフも人も関係ない。戦場の注意が一カ所に注がれる中、強風が土煙を吹き飛ばした。
激突の凄まじさを表すように、大地が抉れてクレーターが出来ていた。その中心部に居た無傷の女性が猛々しい壮絶な笑みを浮かべて叫んだ。
「さあ、始めましょう!」
彼女こそは十三人の『招かれた者』にして、『精霊の寵愛を受ける者』にして、エルフの『英雄』イーフェ。
『英雄』が戦場に舞い降りたのだ。
読んで下さって、ありがとうございます。




