6-81 最善の状況
アクアウルプスは中心部に向かうほど土地に住む住人の経済状況、職種などが上昇する傾向がある。また、行政府機能を司る機関が全て芯層に揃っているのも相まってか、アクアウルプスの心臓部と呼ばれていた。防衛の観点からも、芯層に重要施設を置くことで外敵に攻め込まれても被害を最小限に食い止める事が出来るため理にかなっている―――はずだった。
エレオノールが配った飴は約三千。その大半は芯層に住む貴族や豪族、有力商会の子息たちだった。《アニマ・フォール》の性質上、頭を潰さないと対処される可能性があったのだ。そのため、芯層部は他の二つよりも早くに陥落し、住人のほぼ全てが感染者と成り果てた。
結果として、エレオノールの策は当り、命令を下す頭脳が潰れた事で手足となるべき者達が場当たり的な対処を行い、横の連携や情報の共有などを行えず感染者の列に加わってしまった。ここまでの被害を被ったのは、初動が遅れたことに起因する。
生存者の存在しない芯層。中心部に向かうほど高くなっていくアクアウルプスにとって、そこは死の源泉と成り果てた。下の層に落ちて行く運河に並行して感染者は落ちて行き、生存者を探してさ迷い歩く。
直に真夜中を迎えようとするアクアウルプス。その中でも一際背の高い建造物にて最後の戦いが始まろうとしていた。
振動を続けていた昇降機が遂に停止した。レイは床に広げていた道具や装備を元の位置に戻すと、昇降機に繋がるタラップを渡り、上へと伸びる螺旋階段を昇り、階段の終わりにある扉に手を掛けた。
無理やりこじ開けたようにノブは拉げていて、軽く押すだけで開いた。夜風が顔に当たり、同時に感染者特有の低く呻くような声がかすかに聞こえて来た。
皮肉な話だが、感染者の声を聞いて地上に戻ってきたという実感が湧いた。
地下の湿気と形容しがたい匂いが混じった空気よりかは新鮮な夜の空気で肺を満たし、辺りを見回した。レイが出てきた場所はどこかの建造物の中だった。扉を出た先にはまた螺旋階段が伸びている。
そこから離れ、レイは外に出てみた。芯層部は外層部のような雑多な雰囲気はない。静謐と厳粛を旨とした建物が立ち並び、地面は白いレンガで埋め尽くされていた。聞こえてくる足音は、感染者の物だろう。
振り返ると出て来た建造物の全容が見えた。それは天に向かって真っすぐに伸びる塔だった。他の建造物と比較しても一際大きく、レイの推測通りならこの建物がアクアウルプスにおける最長の建物のはずだ。その先端にはダリーシャスの話していたアレがあるはずだ。
黒い影が街灯の光を遮る。塔の周囲は広場となっているが、あちらこちらに感染者の姿があった。噛まれても感染しないとはいえ、レイは彼らに絡まれるのを避けるべく塔の中に戻った。そして、最上階へと続く螺旋階段の前に立つ。漆喰の壁には赤い血がべったりと付着していた。まだ真新しい。この血はエレオノールの血だ。彼女はこの先に居る。
レイは血痕に導かれるように螺旋階段に足を掛けた。
螺旋階段は人がすれ違う程度の幅しかないが等間隔で空いた窓代わりの穴のお蔭で息苦しさは無かった。レイの予想通り、この塔はアクアウルプスの中で最長の建物だったようで、窓からは何にも遮られることなくアクアウルプスの全景を眺める事が出来た。
平時なら地の街には人が灯す団らんの火がつき、空には満天の星に飾り立てられた青い月が浮かぶ、それは素晴らしい夜景になるはずだ。だけど、いまは感染者に乗っ取られた死の都だ。脱出した生存者が船を使ったため船着き場は空となり、残らざるを得なかった生存者は窓を塞ぎ身を寄せ合って朝が来るのを待っている。そして、人から逸脱した存在になりかけている感染者は己の不幸を知らずに街を彷徨い歩く。
ここでエレオノールを取り逃せば、こんな悲劇が世界中で起きてしまう。レイは両足に鞭を打ち、階段を蹴り飛ばした。今日という日が終わろうとしている。真夜中から始まった惨劇に振り回され、抗い続け、もがき回って、体力は底をつこうとしているのにレイは走る。
足を止めれば膝が地面に付いてしまうと分かっているのだ。今にも倒れそうな体を気力で支え、そしてレイは辿り着いた。
塔の最上階。本来なら関係者以外立ち入り禁止の場所はちょっとした広さのある円形の広間だった。ドーム状の天井には荘厳な宗教絵が描かれており、その下には枕木に吊るされた巨大な鐘が吊り下がっていた。音を響かせるためか、天井を支える柱の数は少なく、壁もない開放的な空間だ。
ここはアクアウルプスの芯層。その中心に位置する塔だ。入国した際に海上から目撃した、剣のように突き出た建物の真下には貴人用の地下への昇降機が用意されていたのだ。レイはそこを逆に進む形で地上に出た。
有事の際になる鐘が見下ろす中、広間にはレイよりも先に着いた客が居た。
ただし、一人では無く二人だ。
先客は腰の高さまでの欄干に両肘をつけて、夜風を浴びていた。地下空間での不浄を洗い流しているかのようだった。むき出しの背中には糸で描かれた魔法陣が残っているが、それ以外に目立った部位は無い。
そして、彼女の足元には糸で首から下を拘束された感染者が転がっていた。レイに気が付き威嚇するように唸り声を上げた。
「遅いじゃないか、レイ」
どこか咎めるような口調で振り返ったエレオノールは口元を三日月のような形に歪ませた。それが笑っているのだと気が付くのに数秒要した。
「……待たせたようだな。エレオノール」
「ああ、待ったとも。いいかい? デートの時には女の子を待たせるのは紳士のやるべき事じゃない。少なくとも、エスコートする殿方の方が先に着いておくべきだ。それが礼儀と言うやつさ」
常識だろと説教じみた事を言うエレオノール。レイに向かって指を振り回し、肩幅に広げた両足はしっかりと床を踏みしめている。言葉につっかえる様子はなく、清流のように滑らかに回る。もっとも、中身はドブ川を凝集しても足りないヘドロだが。
いま、レイの前に居るエレオノールは瀕死の状態では無い。月明かりでも少女特有の瑞々しい肌に縫合の痕が消えたのは見えている。反面、激しい戦闘で破けたドレスはそのままだったため、奇妙なアンバランスさを醸し出している。
レイの様子は糸を通じてエレオノールに伝わる。彼女は説教を止めると、
「……どうやら、ぼくが回復していることに驚いていないようだね。まるで、予想が的中したかのような雰囲気じゃないか。折角きみを驚かせようと思っていたのに。がっかりだよ」
と、言ってエレオノールは足元に転がっている感染者を蹴り飛ばした。糸で拘束されている感染者は躱す事もできずに床の上を転がった。
「どうやら、ここに来るまでに色々と考えていたようだね。どれだけ追い詰められても、思考を止めないというのは実に素晴らしい。そして、この考えられる限り最悪の状況すら読んでいたというのが更に素晴らしい!」
エレオノールに褒められたところで、優越感や達成感は一切湧いてこない。押し黙ったままのレイに対してエレオノールは一方的に捲し立てる。
「どんな回復薬を試しても、どんな治癒魔法を使っても、死に向かう体を止める事はできなかった。糸で千切れた体を繋ぎ合わせて、どうにか形を保っている風に見せかける事はできたけど、所詮は外側を取り繕ったに過ぎない。内側はどんどん死んでいき、朝を迎える前に死ぬのは避けられないと思っていたよ。……だけど、君のお蔭だ、レイ!」
びしりとエレオノールはレイの方を指差した。
「正確には君の戦奴隷、エリザベートの手柄だけどね。着水の瞬間、ぼくは彼女が自身の技によって瀕死になったのを感じていた。あれだけの怪我、治すのは不可能だろうとも予測した。それなのに、彼女は生きて、君も生きている。その方法を考え、思い当たったのだよ。《アニマ・フォール》を使った回復法をね」
エレオノールは天啓を得た信者のように恍惚とした表情で己のしたことを説明した。彼女は地上に辿り着くなり、手近に居た感染者を捕まえ、上へと運んだ。
そして、ワザと噛まれることで感染し、そして即座に自分に掛かった《アニマ・フォール》を解除したのだ。感染者が持つ驚異的な修復能力を利用した回復によって復活を遂げたのだ。
激しい戦闘で破け、自らの血液で黒ずんだ肌やドレスは元には戻らなかったが、フランケンシュタインのような縫合痕は消え、その場でステップを刻み踊る事すらできるようになったとレイに見せつけた。リザが命を賭して与えた傷が、彼女から得たヒントによって回復されたのは皮肉という他には無い。
もっとも《アニマ・フォール》を利用した回復方法も万能とは言えなかった。
何故なら、彼女の顔面の上半分は布で覆われたままだ。レイがじっとその布を見つめていると、エレオノールが恥ずかしそうに布を手で隠した。
「あまり熱い視線で見ないでくれたまえよ。ここは残念だけど元のままさ。闇の中に取り残されているのは変わらない。だけど、生命力も精神力も戻ってきている。いまのぼくはこの人生の中でも最高に調子が良いよ」
それは絶望的な内容といえた。地下でのエレオノールはリザから受けた傷で瀕死だったがそれ以前に、出島での初戦闘時から彼女は《アニマ・フォール》の準備の為に睡眠時間を削り、精神力を消費したりと、それなりに疲弊した状態だった。
しかし、いまレイの前に居るエレオノールは全てが万全の状態だ。そして、これまでの戦闘からレイに対して油断も隙も存在しない。これまでレイが戦ってきた相手は、大なり小なり油断や慢心があった。もしくは強者と戦っていた事で負傷したり弱体化していた。それらのレイを利するハンデが一切ないのだ。
それなのに、レイは薄く微笑んだ。恐怖からではなく、本心から笑いかけたのだ。
「そうか。……それは助かった」
「助かる? おかしな事を言うんだね、君は。この場合は、厄介だとかズルいとかそういう言葉が出るとばかり思っていたよ」
エレオノールが不思議そうに首を捻るのに対して、レイは心底助かったかとばかりに、
「間違ってはいない。お前がそれだけ回復してくれたおかげで、僕は安心してお前を全力で叩き潰せる。だって力加減を間違えてうっかり殺してしまう危険が減っただろ。僕にとっては、最悪の状況はここで死体のお前と会う事さ。だから、これは最悪の状況なんかじゃない。どちらかといえば最善の状況さ」
と、胸をなで下ろしながら言う。エレオノールは呆気にとられたとばかりに口を丸くし、しばらくしてから笑い声を上げた。
「あっはっはっはっはっはっは!! 驚いたよ! 君がそんなに冗談が上手いとは思いもよらなかったよ!」
「そんなに笑う事か」
「だってそうだろ。四人がかりでも瀕死のぼくに勝てなかった君が、いまは一人しかいない。そしてこちらは 完全に回復しているんだ。勝ち目があるとでも?」
エレオノールのいう事は間違っていない。地下空間での戦闘がある意味、唯一無二の好機だった。あそこでエレオノールを倒し切れず、オルタナを死なせてしまったのは此方の敗北だ。
そして今、リザもレティもシアラもエトネも、従者もオルタナも、誰もレイの傍にはいない。《トライ&エラー》は使えず、正真正銘、ただのレイとしてそこに居た。
普通に考えれば、勝ち目は無い。屍を晒す以外の結末は無い。
だけど、レイは笑う。
それは自棄になった人間特有の諦めの笑みでも、敗北を受け入れた笑みでもない。明日を信じ、勝利を疑わない男の笑みだった。糸による感知では人の顔の造形までは分からないエレオノールはレイの笑みを見ることは出来ないが、不敵な様子に押し黙る。
地下空間での戦いから三十分程度。地上に上がるまでにレイが新しい勝ち筋を見つけられたかを推測しようとして―――止めた。
それは無粋な行為だ。
あと少しで《アニマ・フォール》は最終段階。魂の変質を迎える。人を人たらしめる魂の形が変わり、それに合わせるように人が別種の生命体に変化するという新時代の幕開けだ。
此処は、その分水嶺。
純粋な戦闘で勝敗を決するべきだ。
エレオノールはそう考えると舞台を整えた。糸を繰り、足元に落ちていた感染者を下へと放り投げた。レイが止める間もなく、欄干を超えて投げ出された感染者は鈍い音を立てて地面の染みとなり、すぐさま回復した。
これでエレオノールは切り札を一つ無くしたことになる。《アニマ・フォール》による瞬間回復を失った。それは闘争に対する不純物を取り除く行為であるのと同時に、己の退路を断って背水の陣で臨むと言う意気込みでもある。
六つの思考回路には魔法が装填済みだ。そのうちの二つは光と闇の超級旧式魔法だ。地下空間での戦闘でコツを掴んだ彼女は同時に操る術を身に付けていた。
残りの四つも上級魔法という万全の構えをひいた。手には糸を編み込んだ銀色の大鎌を構えた。
冗談抜きで、いまの自分なら六将軍最強のゲオルギウスでも勝ちが手に入ると確信していた。
一方でレイは静かに瞑想するかのように目をつぶりながら龍刀を引き抜く。大立ちの刀身は鐘を紅蓮に染め上げる。
そして、右手に嵌めた指輪を持ち上げ、告げた。
「《超短文・超級・全力全開》!」
赤の指輪が煌めき、込められていた魔法が発動した。レイの四肢に純然たる力の塊が流れ込み、一気に身体能力を上昇させた。同時に、レイの生命力が著しく抜けて行く。指輪に仕込まれた機構が、レイの生命力を瀕死寸前まで容赦なく吸い上げ魔法を発動させたのだ。
エレオノールはあからさまにガッカリした風にため息を吐いた。
「またそれか。それは見飽きたというんだよ」
出島での戦闘と、地下空間での戦闘。二度にわたる戦いで、エレオノールは指輪の構造を大よそで理解していた。指輪が新式魔法を刻める基盤と同じ金属が使われ、どういう経緯かは不明だが、魔石ではなく人の生命力を糧としている事を。そして先の戦闘で魔力を使い切ったことで、いま発動する分を急速に着用者から奪ったのだと睨んでいた。
それは間違っていない。だけど、彼女はレイを甘く見ていた。ここからがレイの導き出した答えなのだから。
レイはポーチに収まっている試験管を指の間に挟んで取り出した。どろりとした試験管のコルクは外れており、口をつけるだけで中身がこぼれて行く。それを口に含んだ瞬間、レイの体に異変が起きた。
空っぽの体に力が漲ってきた。無くしたはずの生命力が決壊したダムのように激しく流れ込む。
試験管の中身はソーマ。
シアラが道中で解説していた非常に珍しい効果を持った回復薬だ。効果は瞬間的に全生命力の回復。それだけ聞けば桁違いの効果に思えるが、シアラは違うとレイの考えを否定した。
ソーマの回復は、回復にあらず。刹那の間に回復しきった生命力はその後数分掛けて元に戻るのだ。他の回復薬のように傷を癒したり、体力を回復したりはしない。それどころか、ソーマを飲んだ直後に傷を負ってしまえば、結果的には飲む前よりも状態は悪くなってしまうのだ。
別名『無回復薬』と呼ばれるこの薬は気付け薬としての需要はあるが実用的ではないとされてきた。瀕死の人間を一時的に回復させて生存率を上げる効果があるのではないかと期待されたが、ソーマの効果が続く限り、ソーマ以外の薬、回復の呪文を受け付けないと分かると誰もが見向きもしない産廃薬となってしまった。
だけど、レイにはそれで良かった。
一気に充填された生命力を代償にレイは告げた。
「《超短文・超級・全力全開》!」
エレオノールの顔から退屈が拭い去り、歓喜の笑みが浮かぶ。更なる身体強化がレイの体に施され、消費した生命力を求めてレイは勢いつけてソーマを飲み干し、拭った口元で叫ぶ。
「《超短文・超級・全力全開》!」
三度力の奔流がレイの体を襲う。不可視の力の塊によって、体が内側から弾け飛びそうな錯覚に陥る。しかし、レイは更にソーマを喉に流し込み、回復した分の生命力を魔力に変換させる。
「《超短文・超級・全力全開》!」
四回の詠唱の間に三本のソーマをレイは消費した。指に残ったのは最後の一本。レイはそれを飲み干した。指の間には空になった試験官が残り、レイはそれを地面に叩きつけた。生命力は一気に全回復したが、それは数分後には形も残らずに消えてしまう、泡のようなものだ。
それで十分だ。
《全力全開》の効果は一分。それまでに決着がつかなければ、それで全てが終わる。
そして、レイは心の裡に、荒れ果てた荒野の世界に降り立った。何処までも続く地平線、滲んだ太陽が大地を照らす中、褐色の少女が神妙な面持ちでレイを待っていた。
「決めたか、レイ」
「ああ、決めたよ」
両者にそれ以上の言葉は不要だった。コウエンが何処らともなく龍刀を取り出すと、彼女は躊躇うことなく自らの掌を突き刺した。骨を突き破った刃を引き抜くと、血があふれ出した。それをレイの前に突き出して、飲めと言った。
レイは跪くと、少女の手に口づけするかのように触れ、溜まっていた血を飲み干した。そして、龍刀を受け取ると同じように掌を突き刺す。引き抜けばコウエンと同じように血が溢れた。コウエンもまた跪くと、レイがしたのと同じように唇を触れて血を嚥下する。それは異様で淫靡な光景だ。見た目だけなら幼女のコウエンがレイの手から血を掬って飲んでいるのだ。唇の端から血が一滴、二滴と垂れた。
時間を掛けて飲み干したコウエンは唇の端に付いた血を舐めとり、レイに向かって告げた。
「これで終わりじゃ。さあ、レイ。さっさと行って、あの道化師を倒して来い」
告げた少女の左目は紅蓮の輝きを放っていた。しかし、右目は違った。艶めいた黒曜石のような黒い虹彩を放っていた。
そして、レイの意識は現実へと戻ってきた。心象世界でいくら時間が過ぎても、こちらでは一秒にも満たない。レイはゆっくりと瞼を開けると、その右目は猛々しい紅蓮の輝きを宿していた。抜き放った龍刀から激しい真紅の炎が噴き出した。その炎はこれまでにないほど禍々しく、しかし神々しくもあり、天井の宗教絵を赤く彩った。
「さあ、始めようか。ここで終わりにしよう、エレオノール」
アクアウルプスの最も高き場所にてレイとエレオノールの最後の戦いが幕を開けた。
読んで下さって、ありがとうございます。




