6-76 理外の存在
糸から発した反響音が周囲の状況を伝えてくる。
音が戻ってくるまでが遅い。そのことから、ここが相当巨大な空間だと理解した。
エレオノールが辿り着いたのは縦にも横にも高さにも広い空間だった。何の目的で使われているのかは不明だが、足元が湿っている事や、微かに聞こえてくる水流の音からすると貯水庫なのかもしれない。ここまで来るのにこじ開けた仰々しい扉や門からすると、立ち入り禁止の区域かもしれない。
どちらにしても、都合がいい場所だ。エレオノールの戦闘スタイルだと、狭い場所は不向きだ。
「これだけ広いと……周りに気兼ねせずに……戦えるよ。そうだろ……レイ」
ゆっくりと振り返るのと同時に、自分が通った通路から炎が放たれる。それは壁にぶつかると暗闇を払い飛ばした。そして、通路から順に姿を現したのは、レイ、シアラ、従者、オルタナ、フジワラの五人だ。
芯層の地下には細く、脆い糸を張り巡らしている。
罠では無い。
人が触れれば綿のように千切れ、触れたことすら気づけないほど脆弱な糸だ。エレオノールに糸の切断された情報は随時入って来る。レイ達が自分の残した痕跡を辿り、最短距離を走っていたのは既に知っていた。
「ようやく、ようやく見つけたぞ! エレオノール!」
レイの大音声が広い空間に反響して響く。なまじ、人よりも聴覚の鋭いエレオノールにすると、反響して大きくなる音は苦手な部類だ。顔をしかめてしまう。
「うるさいなぁ。そんなに……興奮するなよ。元気がいいね……エリザベートは……どうだい? 彼女は元気なのかい? ……あんな、刃の海に……飛び込んだんだ。……五体満足とは……思えないけどね」
「……リザなら無事だ」
「そうなのかい? それなら……ここに居ても……いいはずなのに。……でも……おかしいな。あの状況で……無事? それは……ありえない……だろう。ぼくが……こんななのに」
ブツブツと呟くエレオノール。レイ達との距離は十五メートル以上ある。意識がそれている間にとオルタナが鞄の中身を各自に手渡していく。痛覚を和らげる薬、精神力を水増しする薬、生命力を瞬時に回復させる薬。ぱんぱんに膨れ上がった鞄は空となった。そしてシアラも足元に魔法陣を描き始めた。
「……エリザベートは……どう考えても……瀕死か……死んでないと……つりあわない。……回復をさせた……でも……それなら、何でここに。……ああ、そういう事か。……君たち、面白い使い方を……したね」
顔を上げたエレオノールは頬の筋肉を無理やり上げたかのような笑みを浮かべ、リザの身に何が起きたのかを言い当てた。
「瀕死の……エリザベートを……感染させたね。……感染させれば……傷は……修復できる。……そうだろ」
問いかけに答えない。だけど、その反応から正解に辿り着いたエレオノールは実感する。
「あっはっは。……すごいや。……ぼくの毒を……薬に変えたよ。……それも……全部、無駄になるって、いうのに」
「どういう意味だよ、それは」
「だって、あと一時間半……それで……ぼくの毒は……最後の段階に……至る。人の魂は……別のモノに……なるんだ。それはあたかも……蛹が……蝶に……羽化する……ような……美しい……光景……だろうね」
「そんな事、させてたまるか。お前に治し方を吐かせて、絶対に止めてみせる」
レイがコウエンを片手に前に出ようとするのを止める手があった。意外な事に、それはフジワラの手だった。
「悪いが、戦闘に入る前に用件を済ませておきたい」
隻腕の男は短く言うと、レイの代わりに前に出て、懐に忍ばせていた書状を取り出した。
「我が主、ジョゼフィーヌ・ヴィーランド様からの書状になります。お納めください」
エレオノールに近づこうとはせず、その場で片膝を突いたフジワラ。彼に警戒しつつも、エレオノールは糸を伸ばして差し出された書状を受け取った。
ところが、その書状を自分の所に引き寄せようとして、突然糸の操作に乱れが生じた。手元まで数センチの所でとり落とすと、そのまま書状を床に落とした。
紙に湿気が吸い込まれていく中、エレオノールは覚束ない動作でそれを拾い上げた。まるで油の切れた機械のような動きの鈍さだ。これまでに見たエレオノールの姿では一番、弱々しく、触れれば崩れるような脆さがあった。
書状の中身を見ずに、エレオノールは懐にしまった。
「確かに……受け取った。……ご苦労様」
「それでは、しからば御免」
フジワラはくるりと反転するなり、来た道を逆走してしまう。すれ違いざまに視線が合うも、レイは止めようとはしなかった。足音すら殺した闇の住人の姿はあっという間に見えなくなり、闇に帰ってしまった。
オルタナがレイと消えたフジワラの方向を交互に見つめ、
「……っておいおい! 止めなくて良かったのかよ。戦力が減っちまったぞ」
「いいんです。元から当てにはしていなかったし、アイツは隻腕になったばかりの人間だ。ちゃんと戦えるかどうかだって怪しい。だから、貴女も止めなかったんでしょ、従者さん」
「その通りです。肉の盾にもなりえないあれでは戦闘の邪魔です。居ない方がかえって楽です」
従者の辛辣な意見にシアラも確かにと同意した。
「まあ、確かにな。さっきも一人だけ蚊帳の外で待機してたよな、アイツ」
オルタナは納得するとエレオノールの方に体を向けた。この場におけるフジワラの上官である従者が彼の離脱を認めたのだ。これ以上話すことは無い。
明らかに戦闘に参加できないフジワラをメッセンジャーに指名したのは、ガシャクラなりの嫌がらせだろう。随分と姑息な真似をするもんだとレイはため息を吐いた。
すると、シアラがレイの裾を引っ張り、唇を耳に寄せた。吐息が顔に掛かるほど近い距離で囁いた。
「ねえ。気が付いている?」
何をとは尋ねなかった。なぜなら、尋ねなくても分かり切った事だ。
エレオノールの様子がおかしいのだ。黒色のドレスに黒の手袋といった装いは変わらないのに、ぎこちない動作に、息切れは治まらない。日の光が無い地下空間という場所のせいか、彼女の表情が暗く、頬がこけたようにも見える。レイが最後に見たエレオノールは自殺する直前だ。自分の思い通りに事が運んだことに歓喜した彼女は、腹立たしいぐらいに頬を高揚させて、生命力に溢れていた。
それなのに今のエレオノールから生命力を欠片も感じない。
なにより、気になるのはここに来るまでに見た血痕だ。ガシャクラたちと別れ、通路を進むうちに、フジワラが最初に気が付いた。澱んだ空気に混じって血の匂いがすると。そして、彼はほどなくして転々と続く血液の道を発見して、それを追いかけてここまでやって来た。道中、燃えた広間にも遭遇した。
「どう思う? 僕にはこれが全部、アイツの仕掛けた罠に思えて仕方ないんだ」
血痕や弱った振りは、全てここに誘い込むための仕掛けだとレイは考えていた。偽の《アニマ・フォール・リジェネ》の詠唱をした相手だ。それぐらいしてくるだろう。
だけど、シアラはレイとは別の考えだった。
「ワタシは、あれは罠じゃないと思うわ。本当に弱っていて、取り繕う余裕すらないのよ」
「随分と自信がありそうだけど、その根拠は」
「リザが命を賭けて叩き込んだ最強の一撃。それを食らって無事でいるはずがないじゃない」
仲間の命懸けの一撃が、取るに足らない攻撃だったはずがない。根拠というには弱いが、その理由はレイにとって好ましかった。
「……ああ……そうだね。……エリザベート。……彼女の一撃は、凄まじかったよ」
部屋の中央にて立つエレオノールは唐突に二人の話に割って入った。彼女は糸が捉えた音の振動から二人の会話を盗み聞きしていた。
「自らの……安全を……一切考慮しない……不退転の一撃。あれは……見事だった。……御覧よ、この有様だ」
薄く笑みを浮かべたエレオノールは自分の腹部に手を当て―――みちりと持ち上げた。
エレオノールの腹部はまるで、ワニが口を開けるかのように縦に開いたのだ。その傷口は正視しがたく、レイは思わず視線を逸らした。それでも刹那の瞬間に飛び込んだ光景が、目に焼き付いて離れなかった。
黒色のドレスが裂け、その下の皮膚が破け、中に詰まっていた肉が弾け、内臓が抉られ、血管や神経が千切れていた。赤黒く変色した血がぽたぽたと涎のように落ちた。
レイのみならず、シアラもオルタナも、そして従者すら、その重傷に……いや、致命傷に絶句していた。どうしてこれだけの傷を負って生きているのか、不思議でしょうがない。
エレオノールは四人の反応に満足そうにして、恐ろしい事に断面口を手で撫でた。
「……まいったよ……完敗だ。言い訳……も……できない。衝撃で……体は……二つに裂けるし……骨は折れて……内にも……外にも……飛び出す始末さ。遠くに……流される……下半身を見て……流石に……焦ったよ」
この中でその場にいたのはエレオノールを除けば従者の身だ。無表情という鋳型で作られた仮面を被っていたかのような従者が、ここに来て驚愕を露わにした。
「……信じられません。魔人種でも無い貴女が……いえ、例え魔人種であってもそのような致命傷を負えば、死ぬのは免れません。なぜ、生きているのですか」
レイも同意見だ。これまで幾度の死を体験してきたレイにとって、致命傷というのが本当に命に到る傷だと知っている。
すると、エレオノールはなんてことは無い風に打ち明けた。
「あっは。……その通りだよ。……いくら、ぼくでも……あのままだと死んじゃう……体は半分、傷が無い場所は……無い。頭は……激痛で……まともに動かない。……だからね……痛覚を……捨てたのさ」
「……痛覚を捨てるなんて、そんな事が。……お前、まさか!」
「糸を伸ばして……脳に細工をね」
あっけらかんと。自らの体を改造したと彼女は語る。
無痛症というものがある。多くは先天性、つまり生まれつきに持っている障害で、重症の場合は痛覚のみならず体温の調整機能も低下している場合がある。
痛みとは動物のセンサーだと言われている。何もしていなくても体が痛いのなら、それは何かしらの病気が原因だと知らせてくれるし、刃物を見て、その鋭さから痛みを想像して避けようとすることもできる。
人間としてではなく、動物として痛覚は必要な機能だ。それを簡単に捨てられるエレオノールは、根本からして何かが違っている。
『七帝』とも違う、何か別の存在だ。
「だったら、どうして動けるのよ! 下半身が千切れたって言っていたでしょ!」
エレオノールの不気味さに黙らされたレイの代わりにシアラが叫んだ。すると、エレオノールはあっさりと答えた。まるで秘密でも何でもない風に、躊躇いなく明かす。
「糸で……繋いでる……んだよ」
海に落ちた時、エレオノールの体で動かせたのは指先一本。それ以外は何一つ動かなかった。折れた骨が神経を切ったのか、筋繊維がミンチになったのか、死を前にして脳が故障したのかは定かではない。
ともかく、エレオノールに許されたのは一本の指で操れる範囲の糸のみだった。だから彼女は、その糸に全てを賭けた。流される下半身を回収し、筋繊維を繋ぎ、血管を繋ぎ、骨を繋ぎ、傷口を縫い合わせた。飛翔穿によって形を保てなくなった臓器は糸で包み込み出血を防ぎ、他の傷口も糸で縫い合わせて行く。
エレオノールは断面口を撫でて血を吸った手袋を脱ぎ捨てた。そこから現れた手を高く掲げて、レイ達に見えるようにした。その手はフランケンシュタインのようにツギハギだらけの縫合が施されていた。足りない皮膚は糸を編み込み布のように押さえつけてある。
「醜い……姿だろ。……ここまでやっても……足は動かなかった。……だから、いまこの足は……ぼくが糸を差し込んで……動かしているのさ。……舞踏会には……誘わないでくれよ。……壁の花も……満足にこなせないよ」
苦笑いを浮かべた少女の説明を、正確に理解できたのはおそらくレイだけだ。レイはエレオノールが糸を神経に接続することで他者を操る事を知っている。今のエレオノールはその技を自分に向けて使っているのだ。自分で自分を操作しているのだ。
「マリオネットの……操者が。……まさかマリオネットに……なるなんて。……滑稽な話だよ」
エレオノールは自虐的な言葉を口にした。
糸で繋いだという傷口は、おそらく本当に繋いだ程度なのだろう。水の入った革袋を縫ったのと同じだ。体を二つに分けた断面口を閉じたエレオノールは、傷口を縫合してみせたが、そこから血が染み出している。あれは治療では無い。
エレオノールは指先についた血を舐めとった。
「回復薬も……呪文も効かなかった。……多分、明日の……朝日は拝めないかな。……ああ、無念だ。……もうじき、おとうさまがいらっしゃるのに」
「おとうさま? それはいったい誰の事だ」
レイの質問にエレオノールは答えなかった。ただ、オルタナだけが、その単語にわずかばかり顔をしかめたのだが、最後列に居たせいで誰も気が付かなかった。
レイは戦いを始める前に、最後の確認をエレオノールに尋ねる。
「……エレオノール。正直に聞かせろ。《アニマ・フォール》はお前が死ぬと、効果を失う類の魔法なのか」
レイの質問にエレオノールは首を横に振った。
「あれは……呪いというよりも……病原菌に……近い。伝染病は……感染源が……死んでも……一斉に死滅するかい? それと……一緒さ。一度……発病したら、専用の……呪文以外……では治療できない……よ」
予測できた答えだ。エレオノールを殺しても、《アニマ・フォール》は治らない。
「ここに来るまでに、火に満たされた部屋を見た。あれはお前の工房か?」
「そうだよ。……だから、呪文はぼくの……頭の中さ」
その答えもまた、予想していた。レイはコウエンをエレオノールに突きつけた。炎が刀身から零れ落ちる。
「エレオノール。その回復呪文を教えてもらうぞ。感染した仲間を、そして他の感染者を助けるために、お前を倒す!」
レイの宣言にエレオノールは体が反りかえるほど仰け反らせ、狂ったように笑う。
「あっはっはっはっはっはっは、あっはっはっはっはっはっは! いいね。……まるで正義の……味方だ。だったら、悪として、君の希望を潰すのが……ぼくの役目かな」
そして、糸を繰り生み出された白銀の大鎌を両手で構えた。
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