第16話:侵入
風は、戻っていた。
だが。
バックミラーの奥に、残っている。
揃った視線。
人。
鹿。
区別のつかない“向き”。
ぴたりと、揃っていた。
カイは、何も言わない。
アクセルを踏む。
速度を上げる。
奈良の街が、ゆっくりと後ろへ流れていく。
――逃げている。
はずなのに。
逃げ切れていない気がした。
「……まだ、いる」
セレーナの声。
視線は前。
だが、見ているのは外ではない。
重なっている。
人の流れの中に。
同じ動き。
同じ間。
「……ああ」
カイは短く返す。
それ以上は、言わない。
言葉にすると、現実になる。
車内に、静かな振動。
エンジンの音。
規則正しいリズム。
それだけが、まだ“正常”だった。
だが。
背中に、触れている。
見えない視線が。
ルームミラーの端。
一瞬、何かが動いた気がする。
――気のせいじゃない。
カイは無意識にアクセルを踏み増す。
速度が、わずかに上がる。
振り向かない。
空。
電線。
電線に止まる鴉が、一羽だけこちらを見ている。
ただの鳥のはずなのに。
視線が、重なる。
セレーナが、半拍遅れてバックミラーへ視線を向ける。
「……後ろ」
セレーナは、すでに解析に入っている。
――ほんの、わずかに。
応答が遅れる。
視界の奥に、層が重なる。
数値。断片。ノイズ。
薄く、ちらつく。
現実の景色に、重なっている。
カイは気づく。
だが、何も言わない。
奈良で拾った名前。
――みき。
手術記録。
時期。
施設。
医師。
断片が、並ぶ。
広げる。
つなぐ。
照合。
ノイズを削る。
残るのは、共通項。
――機器。
「……揃いすぎてる」
カイが呟く。
バラバラの病院。
バラバラの医師。
だが。
使われている手術ロボットは、同一モデル。
セレーナは応答しない。
代わりに、画面を展開する。
製造元。
配送履歴。
メンテナンスログ。
点が増える。
線が浮かぶ。
その中に、一箇所だけ。
共通して経由している拠点。
――滋賀。
「……近いな」
カイはハンドルを切る。
進路を変える。
躊躇はない。
もう、戻れない。
しばらくして。
道は、細くなる。
奈良の山道。
緩やかなカーブ。
木々が近い。
窓の外を、春の緑が流れていく。
新しい葉。
柔らかい光。
風が、枝を揺らす。
その合間を、車が抜けていく。
静かだ。
さっきまでの、あの異様な視線が嘘のように。
「……きれい」
一拍、遅れて。
セレーナが、小さく言う。
カイは、ちらりと横を見る。
セレーナは窓の外を見ている。
だが、その視線はただ眺めているわけではない。
記録。
光。
色。
風の動き。
すべてを、取り込んでいる。
「……そんな余裕あるのか」
カイが低く言う。
「……必要」
わずかに、間がある。
短い返答。
「偏る」
「……何が」
「世界の認識」
わずかな間。
「悪いデータだけだと、歪む」
カイは、何も言わない。
ただ、前を見る。
やがて。
視界が、開ける。
木々の隙間。
光が、強くなる。
次のカーブを抜けた瞬間。
――広がる。
大きな水面。
琵琶湖。
空を、そのまま映したような青。
風が、水を揺らす。
細かな波。
光が砕ける。
セレーナの視線が、止まる。
「……広い」
「……ああ」
カイは短く返す。
湖岸の道に出る。
車はそのまま、流れるように進む。
静かな景色。
穏やかな春。
だが。
その裏で。
何かが、広がっている。
奈良で見た“それ”が。
見えないまま。
この先にも。
しばらくして。
カイはウインカーを出す。
湖岸沿いの小さなパーキング。
車を滑り込ませる。
エンジンが落ちる。
遠くで、水の音。
風が、草を揺らす。
カイはシートに背を預ける。
「……少しだけだ」
短く言う。
セレーナは頷く。
ドアを開ける。
外へ出る。
空気が違う。
街のものではない。
湿り気。
土の匂い。
水の気配。
セレーナは、湖の方を見る。
風。
光。
波。
すべてが、緩やかに動いている。
「……記録、更新」
小さく呟く。
カイは缶コーヒーを開ける。
音が、やけに大きく響く。
「……落ち着くか」
「……うん」
短い返答。
わずかな時間。
何も起きない。
ただの、休憩。
――のはずだった。
だが。
カイは、完全に力を抜かない。
いつ来ても、おかしくない。
その感覚だけが、残っている。
駐車場の端。
一台の車。
人影。
動かない。
風の中で。
不自然に、静止している。
カイの視線が止まる。
セレーナも、同じ方向を見る。
わずかなズレ。
ほんの一瞬。
その“影”が。
こちらを向く。
ぴたりと。
揃った角度で。
「……行くぞ」
休憩は終わり。
カイはすぐにドアを閉める。
エンジン。
再起動。
車はそのまま、パーキングを抜ける。
バックミラー。
映るのは。
湖。
空。
そして。
動かない“それ”。
街の色が変わる。
観光地のざわめきは消え、
代わりに。
均質な建物。
広い道路。
物流の気配。
「……ここか」
カイの視線の先。
低い建物。
企業ロゴ。
営業所。
車を停める。
胸の奥に、嫌な重さ。
ここは、外じゃない。
“内側”だ。
エンジンが止まる。
静寂。
耳が、痛い。
ドアを開ける。
外に出る。
空気は、普通だ。
風もある。
音もある。
だが。
人の気配が、薄い。
削がれている。
完全な無人ではない。
だが。
“いない”。
カイは建物を見上げる。
窓。
影。
動かない。
「……ここだな」
セレーナは隣に立つ。
何も言わない。
ただ。
見ている。
外側ではなく。
中を。
奥を。
構造を。
わずかに。
視線が、沈む。
「……いる」
小さく、言う。
「……何が」
カイが問う。
短い間。
「……同じ」
奈良と。
あの動きと。
あの揃い方と。
同じ“何か”。
カイは、息を吐く。
ゆっくりと。
肩の力を抜く。
「……行くぞ」
答えは、決まっている。
止まる理由は、ない。
セレーナが頷く。
二人は、そのまま建物へ向かう。
その直前。
カイの足が止まる。
視線が、建物の外周をなぞる。
カメラ。
配置。
死角。
入口上部。
側面。
搬入口側。
「……見てる」
低く呟く。
セレーナは動かない。
「……どこまで」
「入口周辺。常時記録」
短い解析。
カイはポケットから端末を取り出す。
数秒。
指が走る。
侵入経路の再構成。
ログの書き換え。
ループ。
「……三十秒」
「十分」
セレーナが頷く。
「入る」
カイの合図。
二人は一気に距離を詰める。
扉の前。
セレーナが手をかざす。
――がちゃ。
ロックが外れる。
誰も触れていないはずの音が、静かに響く。
カイは一瞬、目を見開く。
だが。
すぐに表情を戻す。
「……入るぞ」
ドアを押す。
暗い。
冷たい空気。
むき出しの配線。
壁を這う太いケーブル。
被覆の擦れた箇所。
天井から垂れる影。
遠くで、微かな電子音が途切れ途切れに鳴る。
奥から。
低い唸り。
空調の残響。
周期のずれたノイズ。
まだ、動いている。
“何か”が。
奈良で見たものが、頭をよぎる。
揃った視線。
揃った動き。
人でも、鹿でもない“それ”。
カイは一歩、踏み込む。
心拍が、わずかに上がる。
止める。
意識して、抑え込む。
ここで乱れると、終わる。
セレーナの手を引いた感触が、まだ残っている。
冷たい。
わずかに、体温がない。
それでも、確かにそこにある。
もう一歩。
セレーナが続く。
内部へ。
静かな建物の中へ。
侵入する。
ここは、末端だ。
だが。
確実に、繋がっている。
――あれに。
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