第2話 無職になった天才、二ヶ月の子犬を買う
目を覚まして枕元のスマートフォンに手を伸ばすと、画面に表示された時刻はすでに午後一時を回っていた。
任三郎はベッドの上でゆっくりと瞬きをした。アラームは鳴らない。設定する必要がなくなったからだ。
ノヴァシードAIから解雇を言い渡されてから、三日が経っていた。
任三郎はベッドから起き上がると、少し乱れた黒髪を手櫛で整えながらキッチンへ向かった。
冷蔵庫を開け、いつもの習慣で牛乳パックに手を伸ばす。しかし、掴んだパックは拍子抜けするほど軽かった。グラスに注ごうと傾けても、白い雫が数滴落ちただけで空になる。
「切らしてたか」
空になった紙パックを軽く潰してゴミ箱へ捨て、任三郎は小さく息を吐いた。
リビングのデスクに目をやると、モニターがスリープ状態から復帰し、淡い光を放っている。画面の端では、KAGUTSUCHIによる公開情報の自動収集プログラムが、静かにログを刻み続けている。
ここ数日でノヴァシードAIが出したプレスリリースや技術紹介資料はすでに集まり始めているが、関連企業の動きまで含めた抽出処理が終わるまでにはまだ少し時間がある。何より、冷たい牛乳のない朝——時計の上では昼過ぎだが——は、どうにも頭の切り替えがうまくいかなかった。
任三郎は洗面所で顔を洗い、無精髭を剃ると、シンプルなシャツの上に薄手のジャケットを羽織った。デスクの上の灰皿と煙草を一瞥したが、今は火をつけず、財布とスマートフォンだけをポケットに入れて部屋を出た。
★★★★★★★★★★★
平日の昼下がりの商店街は、スーツ姿の会社員と買い物袋を提げた主婦たちがそれぞれの歩調で行き交っていた。
数日前までなら、任三郎もオフィスの開発フロアでモニターに向かっていた時間帯だ。日差しの下をこうして目的もなく歩いていると、自分だけが街の時間の流れから外れてしまったような、妙な浮遊感があった。
駅前のスーパーで牛乳を二本買い、ついでに数日分の簡単な食材を袋に詰めて帰り道を歩いていたときだった。
角を曲がった先にあるペットショップの前で、任三郎の足がふと止まった。
通りに面した大きなガラス窓の向こうに、いくつものケージが並んでいる。通りすがりに何気なく向けた視線が、一番端のケースの隅で動かなくなった。
そこに、白い毛玉のような小さな生き物がいた。
生後二ヶ月と書かれたプレートの下で、ホワイト・ポメラニアンの子犬がちょこんと座っている。純白の柔らかい毛並みに、黒く丸い瞳と小さな鼻。他のケージの子犬たちが昼寝をしたりおもちゃを転がしたりしている中で、その一匹だけがガラスのすぐ近くまでトコトコと歩み寄ってきた。
そして、ガラス越しに任三郎の顔をじっと見上げ、前足を透明な仕切りにちょんと乗せた。
目を逸らそうとしても、まっすぐに向けられた黒い瞳が離れない。任三郎が半歩だけ横に動くと、子犬も短い足を懸命に動かして同じ方向へついてくる。
「こんにちは。よろしければ、中へどうぞ」
店のドアが開き、エプロンを着けた女性店員が柔らかな笑顔で声をかけてきた。
任三郎は少しだけ迷ったあと、促されるままに店内へ足を踏み入れた。温かな空調の風とともに、乾いたフードとシャンプーの混ざった匂いが鼻をくすぐる。
「その子、さっきから外を通る方にはあまり反応しなかったのに、お客様が立ち止まったらすぐ前に出てきたんですよ」
「そうなんですか? たまたま視界に入っただけだと思いますけど」
「ふふ、どうでしょうね。まだ小さな女の子なんですけど、ちゃんと相手を見てるんですよ。よかったら、少し抱っこしてみますか?」
店員の言葉に、任三郎はケースの奥で尻尾を細かく揺らしている子犬を見た。
「いえ、俺、こういう小さな生き物を扱ったことがなくて。不器用なので、うっかり落としたりしないか少し心配なんですが」
「大丈夫ですよ、最初は皆さんそうおっしゃいますから。そちらの椅子に座って抱きかかえていただければ安心です」
店員がケースの扉を開け、両手で丁寧に子犬をすくい上げた。椅子に腰を下ろした任三郎の腕の中へ、その柔らかい身体がそっと渡される。
受け止めた任三郎は、思わず腕に力を入れ直した。想像していたより、ずっと軽い。手のひらには、小さな身体の温もりがじかに伝わってくる。
純白の綿毛のような被毛の奥で、心臓がトクトクと速いリズムを刻んでいた。子犬は怖がる様子もなく、任三郎の指先に鼻先を寄せると、ぺろりと舌で舐めた。
「きゅぅ」
甘えるような細い鳴き声が聞こえ、そのまま任三郎の腕のくぼみに顎を乗せて落ち着いてしまう。
「あら、すっかり落ち着いちゃいましたね」
「温かいですね。見た目は綿菓子か何かみたいなのに、抱いてみると意外としっかりした重みがありますね」
「ええ、これでも毎日少しずつ大きくなってるんですよ。お気に召しました?」
「いえ、そういうわけでは」
言いかけた任三郎の指先を、子犬がもう一度ぺろりと舐めた。
任三郎は言葉に詰まり、子犬の身体を支えながら、空いている手で白い毛並みをそっと撫でた。力を入れすぎないように気をつけていると、子犬が気持ちよさそうに目を細めた。
無職になったばかりで、犬を飼うなんて。
そう思っているのに、腕の中の小さな身体を店員へ返す気になれなかった。あのケースの隅から自分を見上げていた丸い瞳が、頭から離れない。
「あの、すみません」
「はい、なんでしょうか?」
「仮に、の話なんですが。犬を飼うのが初めての人間が、今日いきなりこの子を迎え入れるとしたら、やっぱり無謀ですかね」
「いいえ、ちっとも。必要な環境を整えて、お世話の仕方を順番に覚えていただければ大丈夫ですよ」
「そうですか。じゃあ、そのために何を揃えればいいか、一から教えていただけますか」
店員がぱっと顔を輝かせた。
「本当ですか! ありがとうございます、きっとこの子も喜びますよ。でしたら、まずは寝床になるケージとベッド、それからお食事用の食器とトイレトレーですね。まだ生後二ヶ月ですので、フードはぬるま湯でふやかしてあげる時期なんです」
「ぬるま湯、ですか。お湯の温度やふやかす時間にも目安がありそうですね。すみません、メモを取るので、必要な品と一緒に順番に教えてもらえると助かります」
子犬用の食器、クッションベッド、サークルケージ、離乳期用のドッグフード。ペットシーツと消臭スプレーも選び、フードの分量や与え方は店員に確認してメモを取った。途中で何度も質問する任三郎を、店員は微笑ましそうに見守っていた。
★★★★★★★★★★★
夕方前、大きな紙袋とキャリーバッグを抱えてマンションへ戻った任三郎は、まず玄関に荷物を置くと、リビングへ直行した。
デスクの上の灰皿と煙草の箱を引き出しの奥へしまい込み、窓を開けて部屋の空気を入れ替える。さらに部屋の隅にあった空気清浄機を強運転に切り替え、床に落ちていたケーブル類をすべてデスクの裏側へ束ねて固定した。子犬が誤って噛んだり足を引っ掛けたりしないようにするためだ。
一通りの環境を整え、部屋の温度を適温に調整してから、任三郎はリビングのラグの上にサークルケージとベッドを設置した。
キャリーバッグの扉をゆっくりと開ける。
「ほら、おいで。今日からここが部屋だ」
任三郎が床に膝をついて声をかけると、キャリーの奥から白い鼻先がひょこりと覗いた。
周囲の匂いをくんくんと嗅ぎ、安全だと判断したのか、子犬はおずおずと外へ踏み出した。まだ頼りない四本の足で、てち、てち、とラグの上を歩き回る。
途中で自分の短い足がもつれて、ぽてんと横に転がった。
任三郎が慌てて手を伸ばしかけると、子犬は何事もなかったかのようにむくりと起き上がり、「わふっ」と鳴いて任三郎のくるぶしに鼻先をすり寄せた。
「驚かせないでくれよ。今ので怪我はしてないな?」
ほっと息をつき、指先でその頭を撫でる。子犬はすっかり任三郎の足元が気に入ったようで、スリッパに身体を寄せ、その場にちょこんと座り込んだ。
「さて。名前を決めないといけないな」
任三郎はあぐらをかいて座り込み、子犬の顔を改めて見た。
「クッキー」
ふと、ブラウザのCookieが頭に浮かんだ。
「クッキー。うん、悪くない。君の名前はこれでどうだ?」
問いかけると、クッキーは耳をぴくりと動かし、短い尻尾を左右に振った。気に入ったのかどうかは分からないが、少なくとも嫌がってはいないらしい。
任三郎はキッチンへ立ち、店員に教わった通りの分量でドッグフードを計量すると、ぬるま湯を注いでしばらくふやかした。人肌程度に冷めたことを指先で確かめてから、陶器製の食器をケージの前に置く。
「お待たせ。熱くないと思うけど、ゆっくり食べていいぞ」
クッキーは食器に顔を埋め、夢中になって食べ始めた。舌が動くたびに、食器が床の上でことことと音を立てる。任三郎は食器が滑らないように片手でそっと支えながら、その食べっぷりを最後まで見守った。
食事を終え、満足げにお腹を膨らませたクッキーがラグの上をごろごろと転がり始めたのを見て、任三郎はようやくデスクの椅子に腰を下ろした。
冷蔵庫から新しい牛乳を取り出してグラスに注ぎ、一口飲む。冷たい液体が喉を通り抜け、ようやくいつもの思考の輪郭がはっきりとしてきた。
モニターに、KAGUTSUCHIが収集した株式会社ノヴァシードAI関連の公開データを展開する。
キーボードに指を置き、検索条件のフィルタリングを打ち込み始めた、その時だった。
足元に、ふわりと柔らかくて温かい感触がぶつかった。
視線を落とすと、クッキーが任三郎のスリッパの端を懸命に噛もうとしている。かと思えば、椅子のキャスターに興味を示して前足でちょいちょいとつつき、任三郎の足首にじゃれついてきた。
「きゅぅ、わふっ」
「おいおい、そこは危ないだろ、クッキー。キャスターに足でも挟まったらどうするんだ。椅子が引けないじゃないか」
任三郎は苦笑してキーボードから手を離し、足元のクッキーを両手で抱き上げた。
そのままベッドへ戻そうとしたが、クッキーは任三郎の腕の中で丸くなり、すぐにでも眠りそうなほどトロンとした目をしている。下ろせばまた寂しがって足元へ来るだろう。
結局、任三郎は膝の上に柔らかいタオルを敷き、その上にクッキーを乗せたままデスクへ向かうことにした。
数分もすると、クッキーは規則正しい寝息を立て始めた。膝の上のクッキーを落とさないよう姿勢を保ちながら、任三郎は片手でマウスを操作し、画面の資料を読み進めていった。
★★★★★★★★★★★
モニターに並んだ収集データの中から、任三郎はまず守屋と迫田が並んだ写真が目を引くインタビュー記事を開いた。
見出しには『ノヴァシードAI、独自の次世代統合解析AI「KAGUTSUCHI」の開発に成功。技術概要を公開』と大きく躍っていた。
画面をスクロールし、迫田の発言部分に目を止める。
『一年前のプロジェクト立ち上げ当初から、私が基本アーキテクチャの設計を主導し、社内チーム一丸となってゼロから構築した——』
任三郎は記事を読み返し、添付された技術資料のシステム構成図を拡大した。公開された概念モデルには、任三郎が入社前から使っていたモジュール名が、そのまま載っている。
「せめて名前くらい変えろよ」
さらにプレスリリースへ視線を移す。そこには『当社の高度なセキュリティ基準を満たした社内専用サーバー群のみを使用し、二十四時間体制のクリーンな環境下で全工程の検証を完了』と明記されていた。
任三郎は別ウィンドウを開き、手元に保存してある当時のサーバー停止通知と、迫田から届いた個人環境での作業承認記録、そして検証ログの日時を並べて照合した。会社側が「社内サーバーのみで完結した」と公式に主張すればするほど、迫田自身の過去の承認記録と正面から食い違うことになる。
続けて、関連企業のプレスリリースや業界ニュースからKAGUTSUCHIが抽出したデータ一覧に目を通した。
任三郎の手が、一つの抽出結果の上で止まった。
任三郎がKAGUTSUCHIの最終テストを完了したのは、解雇された日の朝だ。それにもかかわらず、その二週間以上も前の時点で、ノヴァシードAIが一部の外部企業に対して「完成済みの世論解析・情報伝播予測エンジンの提供」を前提とした提携打診や試験導入の話を持ちかけていた形跡が、複数の公開求人や関連会社の事業報告書の記述から浮かび上がっていた。
「最終検証が終わる前に、もう外へ切り売りする話を進めていたのか」
自分を排除した理由も、これで見えてきた。ただし、まだ確認したいことがある。
任三郎は発見した矛盾点を時系列順に整理し、手元の開発記録と対照できる一覧ファイルとして保存した。
その時、室内にマンションのインターホンの電子音が響いた。
膝の上で眠っていたクッキーが、音に驚いてぴくりと耳を立て、頭を持ち上げる。
任三郎はクッキーの背中を軽く撫でて落ち着かせながら、壁際のインターホンモニターに視線を向けた。宅配便を頼んだ覚えはない。
玄関へ行く前に、膝の上のクッキーをそっとケージの中のベッドへ移した。寝ぼけ眼のクッキーが「きゅぅ」と鳴いて毛布に鼻を埋めるのを確かめ、任三郎はインターホンの前に立った。
画面に映っていたのは、見知らぬ一人の女性だった。
年齢は二十代の後半くらいだろうか。落ち着いたダークグレーのパンツスーツを隙なく着こなし、背筋を伸ばしてカメラの前に立っている。肩より少し短く整えられた艶のある髪と、知的で洗練された整った顔立ち。ただ、その涼やかな目元には、どこか深い疲労か翳りのようなものが微かに滲んでいた。
任三郎はすぐにドアを開けることはせず、通話ボタンを押した。
「はい。どちら様でしょうか」
『突然お邪魔して申し訳ありません。佐藤任三郎さんのお宅ですね?』
スピーカーから流れてきたのは、落ち着いていてよく通る、聞き取りやすい大人の女性の声だった。
「そうですが。営業や勧誘でしたら、よそを当たってください」
『ふふ、残念ながらどちらも違います。田中襟華と申します。少しだけ、お時間をいただけないでしょうか』
「あいにく、予定のない来客に対応する習慣はないんですが」
『でしょうね。ですが、今のあなたにとって、決して無駄な時間にはならないはずです』
田中襟華。記憶にも、在籍時に把握していた社員一覧にもない名前だ。
しかし、解雇直後のこのタイミングで、見知らぬ人間が自宅を訪ねてくる偶然をそのまま信じるほど、任三郎はお人好しではなかった。守屋や迫田が差し向けた弁護士か、あるいは退職合意書に署名させるための交渉人という可能性もある。
任三郎は玄関へ移動すると、ドアチェーンを掛けたまま、わずかに扉を開けた。
その向こうで、田中襟華と名乗った女性が軽く会釈をし、こちらへ視線を向けた。
「チェーン越しのままで失礼します。田中さんとおっしゃいましたね」
「ええ。警戒されるのは当然だと思います。突然訪ねてきた見知らぬ女を、そのまま部屋へ招き入れるような方だったら、私もここへは伺っていませんから」
「それはどうも。では手短に伺いますが、俺の住所をどこでお知りになったのか、それとご用件を先に教えていただけますか」
「ご住所は、以前発表されていた技術論文の登録情報と、いくつかの公開情報から調べました。それと、ご用件ですが——」
襟華は任三郎から目を逸らさずに言った。
「三日前、あなたを不当に追放した会社——株式会社ノヴァシードAIについて、お話があります」




