第1話 俺が作ったAIを奪った会社から、俺が追放された
朝の白い光が、ブラインドの隙間からデスクの端に落ちていた。
佐藤任三郎はマグカップに残っていた冷たい牛乳を飲み干し、灰皿の縁に置いていた煙草を指先でつまみ上げた。火をつけ、ゆっくりと煙を吸い込む。肺の奥に広がる乾いた苦味が、徹夜明けのぼんやりとした頭を少しずつ現実に引き戻していく。
目の前に並んだ三枚のモニターには、昨夜から走らせていた最終テストの検証結果が表示されていた。
次世代統合解析AI『KAGUTSUCHI』。
大量の公開情報と発信履歴から情報の伝播経路を辿り、人間が見落とす微細な相関関係や反応の推移を導き出すシステムだ。最終テストの全項目に、完了を示す緑色のマークが並んでいる。エラーによる停止は一度もなく、応答速度も予測精度も、当初の目標値を大きく上回っていた。
「……よし。やっと終わった」
誰に聞かせるでもなく呟き、任三郎は紫煙を細く吐き出した。
二十四歳になってからのこの半年、生活のほとんどすべてをこの設計と調整に費やしてきた。
任三郎はマウスを動かし、最終報告へ向かう前の確認として、個人用ワークステーションの暗号化されたローカルストレージを開いた。
暗号化ストレージには、KAGUTSUCHIの完全なバックアップと開発履歴、そして開発統括部長の迫田隆文から届いた個人環境での作業承認通知が保存されていた。
昨夜までの最新の作業記録まで揃っていることを確かめ、任三郎はストレージにロックをかけた。
伸びた黒髪を指で軽くかき上げ、煙草を灰皿に押しつけて消す。モニターの明かりに照らされた整った顔には、徹夜の疲れが滲んでいたが、その目つきにはまだ鋭さが残っていた。
今日、出社して最終報告を上げれば、長かった開発期間にようやく一区切りがつく。任三郎は立ち上がると、前屈みになっていた細身の身体を伸ばし、少し皺の寄ったシャツを脱ぎ、外出用のジャケットに袖を通した。
★★★★★★★★★★★
株式会社ノヴァシードAIのオフィスは、都心の新しいオフィスビルの十四階にある。
エレベーターを降りると、ガラス張りのエントランスには『人とAIの誠実な未来を創る』という企業理念が掲げられ、受付のモニターには代表取締役である守屋崇のインタビュー映像が絶えず流れていた。若手の登用とクリーンな経営をアピールする守屋の笑顔は、経済誌やネット番組でもよく見かけるものだった。
社員証をかざして執務エリアに入った任三郎は、足を止めた。
まだ午前十時前だというのに、広報部と営業部の社員たちが慌ただしく通路を行き交っている。会議室の前にはプロモーション用のパネルや撮影機材が運び込まれ、業者らしき男たちが配線の確認を行っていた。
「ずいぶん早い準備だな……」
開発現場からの最終完了報告は、まだ上げていない。
任三郎が自分のデスクへ向かおうとしたとき、奥の区画から開発統括部長の迫田隆文が歩いてきた。四十代半ばの迫田は、少し緩んだ顎のラインと、中肉中背の身体に合わせた仕立ての良いスーツの襟元を気にしながら、任三郎の姿を見つけて足を止めた。
「おはようございます、迫田部長。ちょうど今、ご報告に行こうと思っていました」
「ああ、佐藤くん。おはよう、今日も早いね」
迫田は愛想の良い笑みを浮かべたが、その視線は任三郎の目をまっすぐ捉えることなく、わずかに横へ逸れた。
「いえ、今朝まで最終検証を走らせていましたので。KAGUTSUCHIですが、全項目をクリアしました。負荷テストの記録もすべて揃っています。いつでも本番環境への移行が可能です。……ところで、会議室の前の撮影機材は何ですか? ずいぶん大掛かりですが」
「ああ、いや、あれはね……とにかく、本当にご苦労さん」
迫田は言葉を濁すように頷くと、声を少し落として続けた。
「実はね、その件も含めて守屋社長が君を呼んでいるんだ。荷物はこのままでいいから、すぐ第一会議室へ来てくれないか」
「社長が、直接ですか?」
「そうだ。いいから、早く」
最終完了の報告を直接聞きたいのだろうか。そう考えながら、任三郎は迫田の後ろについて廊下を歩いた。
フロアの奥にある第一会議室の扉を開けると、革張りのチェアに代表取締役の守屋崇が座っていた。三十代後半の守屋は、洗練されたスリーピーススーツに身を包み、テーブルの上に広げられた書類に目を通していた。
「失礼します。佐藤です」
「ああ、入ってくれ。そこへ掛けて」
守屋は穏やかな声で向かいの席を示した。迫田は任三郎の隣ではなく、守屋のすぐ脇の席に腰を下ろした。
任三郎は椅子に座りながら、テーブルの上に置かれているカラー印刷の資料に自然と目が留まった。
『次世代AIシステム・対外発表用資料』と題された広報用の原稿と、外部企業向けの技術仕様概要書だった。対外向けの案内資料が、すでに最終稿の形で刷り上がっている。
そして、概要書の表紙には、見過ごせない文字が印字されていた。
『開発統括・設計責任者:迫田隆文』
自分の名前は、どこにも記載されていなかった。
「……守屋社長、迫田部長。そちらの資料ですが」
任三郎は声を荒らげることなく、テーブルの上の紙を指し示した。
「対外発表の準備が前倒しされているのも聞いていませんが、この表紙……設計責任者の欄が、迫田部長のお名前になっています。KAGUTSUCHIの基礎設計から実装、検証まではすべて俺が担当したはずです。印刷の手違いでしょうか」
会議室の中に、短い沈黙が落ちた。
守屋は手元のペンを置き、困ったように眉を下げてみせた。
「手違いではないよ、佐藤くん。見せ方の問題さ。会社の公式発表として、今回のプロジェクトは迫田部長の主導で完成したものとして統一することになった」
「見せ方、ですか?」
「そう。うちは今、大手企業との業務提携や大型の外部提供をいくつも進めている大事な時期なんだ」
「いや、だからといって——」
「佐藤くんね、少しは経営の目線でものを考えたまえ」
横から迫田が口を挟んだ。先ほどまでの遠慮がちな態度は消え、背もたれに深く身体を預けている。
「二十四歳の若手が一から一人で作りました、なんて外に出してみろ。取引先やスポンサーがどう思う? うちの管理体制を疑われるんだよ。開発統括部長である私が全体を設計し、君はその下で実務を手伝った。そういう形にするのが、会社にとっても一番丸いんだ」
「手伝った、ですか」
任三郎は迫田の顔をまっすぐ見た。
「迫田部長は先月の進捗会議でも、KAGUTSUCHIの解析構造について一度も質問にお答えになりませんでしたよね。そもそも、開発環境のリポジトリに一度もログインされていませんが、一体どの部分を設計されたんですか?」
任三郎の指摘に、迫田の頬がぴくりと引きつった。
「なっ……なんだその口の利き方は! 私は統括だぞ、細かいコードの話をしているんじゃない!」
「コードではなく、基本仕様の話をしています。それに、外部提供を急いでいるとおっしゃいましたが、KAGUTSUCHIは出力の特性上、運用ルールを厳密に定めなければ誤用される危険があります。中身を理解していない状態で外に出すのはリスクが大きすぎます」
「その心配はいらないよ、佐藤くん」
守屋が穏やかな声で言葉を遮った。彼はテーブルの下から別のクリアファイルを取り出し、任三郎の前へ滑らせた。
「そもそも、君には今日でこの会社を辞めてもらうことになったからね」
任三郎は差し出されたファイルに視線を落とした。
一ページ目に入っていたのは『解雇通知書』。そして二ページ目には『社内規定違反および不正データ持ち出しに関する調査報告書』という書類が挟まれていた。
「……守秘義務違反と、社内データの不正持ち出し?」
任三郎は報告書の日時に目を止めた。
「昨夜の二時十四分……俺の業務用PCから、機密領域へ不正アクセスがあった?」
「ああ。情報システム部門から報告が上がっている」
迫田が我が意を得たりという顔で頷いた。
「我が社はコンプライアンスを何より重視している。どれほど優秀な社員であっても、会社の資産を盗み出そうとした人間を残しておくわけにはいかないな」
「待ってください。その時間、俺は自宅で負荷テストを回していました。業務用PCは昨日の夜から会社のデスクに置いたままです」
任三郎は報告書から顔を上げ、迫田を見た。
「第一、自宅環境での検証作業は、迫田部長ご自身が承認通知を出されたものですよね?」
「わ、私はテストの許可は出したが、社内データを抜けなどと言った覚えはない!」
「抜いていません。そもそも、この報告書のアクセスログ自体がおかしい」
「おかしい?」
迫田が眉をひそめた。
「ええ。認証ヘッダの形式が実際の記録と一致していません。このログは誰が抽出したものですか? 元の生データを出していただければ、今すぐこの場で確認できますが」
守屋は小さく息を吐き、冷ややかな目で任三郎を見た。
「佐藤くん。ここで技術的な言い訳を並べても意味はないんだ。会社の調査委員会が不正と認定し、今朝の取締役会で君の解雇を決定した。それがすべてだよ」
「……今朝の、取締役会で」
任三郎はテーブルの上の印刷済みの発表資料と、目の前の二人を交互に見た。
「なるほど。だから俺の最終報告を待たずに、表の撮影機材がもう入っていたんですね。最初から、完成と同時に俺を切る段取りだったわけだ」
「人聞きが悪いことを言うな」
守屋は背もたれに肘をつき、指を組んだ。
「本来なら懲戒解雇にしたうえで、警察に被害届を出す案件だ。だが、君のこれまでの貢献に免じて、今回はこちらから公表することは控えてあげる。君が大人しく退職合意書にサインして出ていくなら、すべて内々で処理してやろうと言っているんだ。若い君の将来を思っての温情だよ」
「温情、ですか」
「そうだ。自分の立場がわかっているのか?」
迫田がテーブルに身を乗り出し、低く凄んだ。
「君の社内アカウントはもう凍結した。業務用PCも回収済みだ。会社の正式な開発記録はこちらで管理している。仮に個人の手元に何か残っていたとしても、会社が認めなければただの不正コピーだ。わかるだろう? もし外で妙なことを言いふらせば、その瞬間にこの不正持ち出しの記録を公表して、損害賠償を請求する。業界のどこにも再就職できなくなるぞ」
迫田は勝ち誇った顔をしていた。守屋はすでに興味を失ったように、手元の対外発表用の資料へ視線を戻している。
任三郎は二人を見比べた。
腹が立たないわけがない。
だが、ここで怒鳴ったところで、この二人を喜ばせるだけだ。
バックアップは今朝確認した。迫田自身が送ってきた承認通知も、まだ手元にある。
任三郎は手元の調査報告書をもう一度見た。
「退職合意書にはサインしません」
任三郎は合意書だけをテーブルの中央へ押し返し、解雇通知書と調査報告書の控えを手に取った。
「不当解雇として争います。この二つは、会社側の公式な主張として持ち帰らせていただきます」
「ふん、好きにしろ。そんな紙切れを持って帰ったところで、君の不正の記録が書いてあるだけだ」
迫田が鼻で笑う。守屋は一度もこちらを見ようとせず、手元の資料をめくる指を止めることすらしない。
「社員証は受付に返却していってくれ。私物は段ボール一つにまとめて、警備員の立ち会いのもとで今すぐ運び出すように。お疲れ様、佐藤くん」
任三郎は何も言い返さず、椅子から立ち上がった。
手にしたクリアファイルをジャケットの内ポケットに収め、一礼すら残さずに会議室の扉を開けて外へ出た。
★★★★★★★★★★★
廊下には、すでに連絡を受けていたらしい警備員が二人立っていた。
任三郎は無言で開発フロアの自分のデスクへ戻り、置いてあったマグカップと数冊の技術書、予備の充電器だけを小さな紙袋に入れた。周囲の社員たちが戸惑ったようにこちらを見ているが、声をかけてくる者はいない。受付で社員証を返却し、そのままエレベーターへ乗り込んだ。
昼前の日差しが照りつけるオフィスビルの外へ出ると、任三郎は歩道で立ち止まり、ポケットからスマートフォンを取り出した。
社内チャットや業務メールのアプリからはすべて強制ログアウトされており、アクセス権限が失われている。仕事の手際の悪さに反して、こういう口封じの手続きだけは驚くほど早い。
任三郎は電車に乗り、昼過ぎに自分のマンションへ戻った。
朝の牛乳のマグカップが置かれたままのデスクに座り、個人用のワークステーションを起動する。
内ポケットから会議室で受け取った『解雇通知書』と『調査報告書』を取り出し、デスクの上に広げた。今朝確認したローカルストレージのフォルダを再び開き、保存されている記録を画面に並べていく。
まず開いたのは、入社時の雇用契約書の控えと、初期の開発履歴だ。
KAGUTSUCHIの根幹となる解析エンジンは、ノヴァシードAIに入社する以前から任三郎が個人で研究開発していた独自のプログラムであり、契約書にも既存の研究成果および個人開発環境における権利留保の条項が明記されている。社内の開発サーバーが頻繁に不具合を起こしていた時期に、迫田から「納期に間に合わないから、佐藤くんの個人環境も使って検証を進めてくれ」と命じられた業務通知の受領データも、一行ごとの作成日時と暗号署名が刻まれた開発履歴とともに残っていた。
続けて、任三郎は調査報告書のアクセスログと手元の通信記録を照合した。
調査報告書には、昨夜の二時十四分に任三郎の業務用端末から社内機密領域へアクセスがあったと記されている。
だが、手元の通信記録には、前日の午後八時に業務用端末を社内ネットワークから切断して退勤した際のログが残っていた。その後の二時十分から二時三十分にかけては、迫田の承認通知に基づいた自宅環境での負荷テストが途切れることなく実行されており、システム側のタイムスタンプと改竄不可能なハッシュ値が正確に刻まれている。
さらに、先月のサーバー更新時に受領していた社内システムの仕様書と照らし合わせると、報告書のアクセスログにある認証ヘッダの記述は、現在のサーバーでは出力されない旧式のものだった。実際の通信を通さず、古いログの雛形を流用して後から時刻とIDだけを書き換えた痕跡がはっきりと残っている。
「……詰めが甘いにも程がある」
任三郎は椅子に深くもたれかかり、モニターの隅にある『KAGUTSUCHI』のアイコンを見つめた。
守屋と迫田は、このAIを自社の独自成果として大々的に売り出すつもりでいる。外部提供の話も、すでに進んでいるのだろう。
「……あの二人、自分たちが何を奪ったのかも分かってないんだな」
任三郎は新しい煙草に火をつけ、KAGUTSUCHIを起動した。
最初に調べるのは、ノヴァシードAIが公開している情報だ。
キーボードに指を置き、収集を開始した。




