ep.2 弟子志願(2)
「これ、全部おじ……藍鬼さんが作ったの?」
青は軽く背を伸ばし、壁棚へと視線を移した。たしなめられたことなど、気にも留めていない。壁を埋め尽くすほどに小瓶や本がぎっしりと並び、箱からは草花や木の実がこぼれ落ちている。どれも見慣れぬものばかりだった。
「くれぐれも勝手に触るなよ。劇薬や猛毒もある。触ったり吸い込んだら死んじまう」
「さっきの妖獣を倒したやつみたいに?」と訊ねた青は肩を小さく震わせると、「分かった」と真剣な顔で頷いた。
足首の次は、妖獣の放った衝撃波で負った切り傷の手当だ。
藍鬼は青の手を取り、手首のサラシをゆっくりと解いた。
作業を眺めながら、青は問いかけを続けた。
「神通術って、どうしたら使えるようになるの」
「使えるようになりたいのか」
青は細い首を大きく上下に動かして応える。
「そうか」とだけ相槌を打って藍鬼は青の袖をまくりあげ、細い腕に刻まれた無数の傷へ、優しく軟膏を塗り込んだ。
「腹、見せてみろ」
最後に藍鬼は青の上着の裾を捲り上げる。
「……っ!」
刹那、仮面の奥で藍鬼が息を呑んだ。
三ツ目猪が発した衝撃波が腹部の布を裂き、青の脇腹にも薄い裂傷ができていた。痛みが無いので青も気付いていなかったが、傷の大きさの割に周囲の肌が内出血のように黒ずんでいる。
「……妖瘴が残っている……お前……何も感じないのか」
「ヨ―ショー? なあに?」
きょとんと首を傾げる幼子へ、藍鬼は諦めたようにため息をつく。
気を取り直したように、藍鬼の手が腰の道具入れへ伸び、何かを引き抜いた。
人差し指と中指に挟まれているのは、長方形の紙片。
墨で文字が書かれている。
「妖獣や妖魔の呪いや毒のようなものだ」
「ど、毒なの??」
「毒」の一言に、青の顔から血の気が引いた。
毒が塗布された針一刺しで小丘のごとき巨体が沈んだ光景は、まだ幼い少年の記憶に鮮明だ。
「解呪」
短い言葉と共に、藍鬼は指に挟んだ紙片を患部に押し当てた。
紙片の文字列が淡く発光したかと思うと蒼い炎に包まれ、藍鬼の掌がそれを握りつぶした。
「あ、あれ??」
背中を丸めて青は自分の腹部を覗き込む。へそあたりで何かが弾けた気がしたが、痛みはまるで感じなかった。
紙片と炎、ついでに腹部の黒ずみも跡形なく消えていた。
「今、今のは、何?」
不安を浮かべる青の目前で藍鬼が握った手を上向きに開くと、手のひらに微量の黒い粉末がこびりついていた。
わずかに仮面の顎をずらして藍鬼が手のひらに息を吹きかけると、粉末は空気に紛れるようにかき消えた。
「薬剤符を使った解毒の術だ。毒や呪いを取り除く」
「それって、何の紙?」
「薬剤符は薬の効能を閉じ込めた札。解毒法は色々あるが、今のは毒術の応用だ」
「毒術は毒を消せるんだ……じゃあ炎の術は、敵の炎を消せるの?」
「え……?」
初めて、藍鬼は返答に詰まった。
答えがないわけではない。ただ、五歳にも満たぬ子どもが、あまりに本質的な問いを口にしたことに、不意を突かれた。
「――できない。神通術は、神頼み……神から借りる力だ。別の術者がその力を取り消すことはできない。打ち消すには、属性……種類が違う、もっと強い術をぶつけるしかない。例えば炎術なら、それよりも強い風や水を……とかな」
「……毒術と神通術って、全然違うものなの?」
「ああ」
「じゃあ、毒術って、何の神様の力なの?」
「……」
立て続けに投げかけられる青の問いに、藍鬼は沈黙した。
目の前の子どもの、非凡な頭の回転の速さに、驚かされる。
つい先ほどまで初歩的な炎術に驚いていたはずの子どもが、術の根本的な違いを直感的に見抜いている。
年齢にそぐわぬ聡さに、藍鬼の胸中で名もつかぬ感情が芽吹きかけていた。
知識こそ浅いが、素直で物怖じしない。それこそが資質だった。
そして森で妖獣と対峙したとき、青は敵の急所を見極め、投擲の才を垣間見せた。戦う者としても、伸び代がありそうだ。
体系的な教育を受けさせれば、こいつはいずれ、化ける――
「……夜が明けたら、ここを出る」
藍鬼は青の問いには答えず、手を止めた。傷の手当はもう済んでいる。
「凪の役場へ連れて行ってやる」
藍鬼は立ち上がり、道具を手早く片付けると、棚の隙間へ押し込んだ。
「藍鬼さん?」
質問しすぎて、怒らせてしまったのだろうか。
青は当惑して、ただその動きを目で追った。
「そこを頼れば、国が、お前を保護してくれるだろう」
「ホゴ?」
「助けてくれるってことだ」
国には、難民や孤児を支える仕組みがある。住む場所、仕事、生活の手助け、そして教育も。
棚から離れた藍鬼は、再び青の前に膝をつき、目線を合わせた。
「青、学校へ行きたいか」
ぽかんとした幼い顔へ、
「術や、戦い方を教えてくれる」
と言葉を変えた。
「行きたい!」
首が千切れんばかりに、青は大きく何度も頷いた。
「そうか」
青の目には、鬼豹の仮面の目許が柔く微笑んだように見えた。




