ep.2 弟子志願(1)
「ひとまずここで一晩休め。明るくなったら森を出る」
藍鬼は青を、森の中の庵へ迎えた。
月光を拒むかの岩壁に、ぽっかりと黒い口腔のような洞が穿たれている。穴の暗がりを塞ぐように、簡素な草ぶきの小屋が建っていた。
湿った夜風に晒された外壁はところどころが黒く苔むし、板の隙間には細かな草の根が、まるで小屋を締め上げる血管のように絡みついていた。人の住処というよりは、森に取り残された骸のようにも見える。
「……」
青の足が縫い止められたように止まる。すがるように手を伸ばし、藍鬼の下衣の布地を指先で手繰り寄せるように握りしめた。
「!」
不意にかかった重みに、藍鬼もまた歩みを止めた。腰元の小さな気配を見下ろす。
「何もいない。入るぞ」
大きな掌が、戸へ導こうと青の背に添えられた。
入り口の引き戸を引く時に、歪んだ桟と戸がかみ合わず、ガタガタと立て付けの悪い音がする。藍鬼が力任せに引いてようやく戸が全開し、長く閉じ込められていた夜の冷気が、二人の頬を撫でた。
底知れぬ洞窟のような闇が口を開け、かろうじて視認できるのは、入り口の踏み固められた土間だけだ。
「青、お前の名字は?」
問いかけながら、藍鬼は先に暗渠へ足を踏み入れた。
指先に灯した火を行燈に移すと、闇に室内の輪郭が浮かび上がる。
「ミョージ?」
青も恐る恐る土間へ片足を踏み入れる。
揺らめく灯りに照らし出されたのは、六畳ほどの狭小な空間だった。
四方の壁は背の高い木棚で埋め尽くされ、棚板には、背表紙の擦り切れた書物や、葉や蔓がはみ出た木箱が詰め込まれていた。
「上の名前だ」
「上に名前があるの?」
天井を見上げる青の反応に、藍鬼は嘆息ひとつ吐くことなく、淡々と灯の加減を調整する。
「お前、いつから旅をしていた」
「ずっと」
「何のために」
「わかんない」
あっけらかんとした様子で、青は短く答える。
無知であることに、何も疑問を持っていない。
「そうか」
藍鬼は早々に追求を諦めた。
こうした境遇の子どもが、珍しいわけでもない。
「そこに座れ」
藍鬼は、狭い土間に立ったままの青を床板が張られた居間へ上がらせた。
促されるまま、青は部屋の真ん中に置かれた踏み台に腰掛ける。
「おじ、藍鬼さんはここに住んでるの?」
「ただの作業小屋だ」
おじさんこと藍鬼は、本やモノで埋め尽くされた壁面棚の前に立つ。
棚は色褪せ、あちこちに染みが浮いており、下段には石の輪っかや、目盛りの刻まれた板――何に使うのか見当もつかない道具らしきものたちが、隙なく収まっている。
興味深げに眺める青の前で、藍鬼は小瓶や木箱を棚から取り出した。
「お家は別の場所なの?」
「ああ」
一通りの道具や薬品を揃えて、藍鬼は青の前に腰を下ろした。
まずは、最も目立つ足首の傷を診る。
脚絆を外し、血で汚れたサラシを取り外しにかかった。
「お家は、『ナギノクニ』っていうところ?」
「そうだ。俺は凪の国民で、この森も凪の領内だ」
「リョーナイ?」
「凪之国の中ってことだ」
藍鬼は自らの左腕に装着した革帯を示した。
それは刃物差しでもあり腕章も兼ねていて、紋章が刻印されている。
「母さまは、凪之国に行きたかったのかな……」
母が何の目的で青を連れて、どこへ向かっていたのか、もう分からない。
「ひっく……」
かあさま、と言葉にした途端、青の胸の奥に残っていた痛みが、堰を切ったように広がった。膝上に乗せていた小さな手が、薄浅葱色の裾を強く握る。震える指先、幼い爪が白くなるほどに力がこもる。
小さな丸い甲に、涙の粒がぱたりと、雨に似た音をたてて落ちた。
一粒ごとに、母親の記憶がこぼれていくようだ。
「……」
手当をする藍鬼の手が止まる気配はない。
慰めの言葉もない。
ただ狭い小屋の中で小瓶が触れ、布が擦れ合う微かな音だけが流れた。
静寂を終わらせたのは、青だった。
「ね、おじ……藍鬼さん」
ぐずぐずと鼻をすする音と、呼吸を整えようとする浅い咳を挟む。
「そのお面は、ネコちゃん?」
泣き腫らした黒い瞳が、仮面を覗き込んだ。
「鬼豹だ」
「見たことない」
「御伽噺に登場する幻獣だ」
藍鬼の態度は、変わらなかった。
「外さないの?」
藍鬼からの答えはなかった。
「……ぶつからないで歩けるの、すごいね」
顔に見られたくない傷でもあるのだろうか。
幼いながらにも、何かしらの事情を抱えているのだろうと青は察するのだった。
「ねね、藍鬼さんが使った炎の術って、ジンツウジュツ?」
代わりに継いだのは、新たな問い。
「神通術について誰かに聞いたのか」
「水の術を使った人は見たの。おば……ち、違った『お姉さんって言え』って言われたんだった――キレイなお姉さんだったよ!」
「そ、そうか」
名も知らぬ女を思いやって、藍鬼は失笑を抑え込んだ。
「スイジンは水の神様って意味だって。他にも風とか雷とかもあって、全部で七つの神様の力を借りる術なんだって言ってた」
足首の手当を受けながら、青は得意げに語った。
藍鬼は手を止めず、薬草から作った軟膏を手のひら大に切った白布に塗布し、青の細い足首の傷に重ねた。草の青臭さも、薬臭さもなく、傷に触れてもまったく沁みない。
「その薬は何からできてるの?」
青が腰を屈めて、藍鬼の手元を覗き込む。
「お前が手当てしていたのと同じ、ヨモギだ」
「本当?! じゃあ母さまが教えてくれた通りだった」
思わず嬉しくなり、青の足がぶらぶらと揺れる。
「動くな」
と藍鬼に短く窘められた。




