ep.2 弟子志願(1)
森をさまよっていた少年の名は青。
青を妖獣から救った仮面の男は、藍鬼と名乗った。
「ひとまずここで一晩休め。明るくなったら森を出る」
藍鬼は青を、森の中の庵へ迎えた。
山の岩壁に、水の侵食によってぽっかりと穿たれた小さな洞。
その自然のくぼみを活かし、簡素な草ぶきの小屋が建てられている。
湿気のためか木造の外壁はところどころが苔むしていて、板の隙間には細かな草の根が絡みついていた。
入り口の引き戸を引く時に、ガタガタと立て付けの悪い音がする。
歪んだ桟と戸がかみ合わず、隙間風が容易に想像できた。
「青、お前の姓……名字は?」
「……ミョウジ?」
「分からないのか」
狭い室内の上下左右を興味津々に見渡しながら、ここでも首を傾げる青の反応に、藍鬼はもはや驚く様子を見せなかった。
「お前いつから旅をしていた」
「ずっと」
あっけらかんとした様子で、青は短く答える。
物心がついた頃から、記憶にあるのは母との旅。
どこから来て、どこへ行く旅なのか。
母の出自、父親という存在――無知であることに、何も疑問を持たなかった。
「――そうか」
青の無知な返答すべてに対し、藍鬼はそう応えた。
こうした境遇の子どもが、珍しいわけでもない。
「手当をしてやる。そこに座れ」
藍鬼は、狭い土間に立ったままの青を、床板が張られた居間へ上がらせた。
促されるまま、青は部屋の真ん中に置かれた踏み台に腰掛ける。
粗末な外観とは裏腹に、室内は掃き清められ、清潔さを保っていた。カビ臭さもない。
「おじ……藍鬼さんは森に住んでるの?」
「ここはただの作業小屋だ」
おじさんこと藍鬼は、本やモノで埋め尽くされた壁面棚の前に立つ。
棚は経年で色褪せ、あちこちに染みが浮いているが、そこに詰め込まれた本や箱は整然としていた。
棚の下段には薬研や乳鉢、様々な形状の瓶、計量器――雑多な道具がこちらも無駄なく納まっている。
興味深げに眺める青の前で、藍鬼は小瓶や木箱を棚から取り出した。
それらを、青の前に並べていく。
「お家は、町にあるってこと?」
「……ああ」
一通りの道具や薬品を揃えて、藍鬼は青の前に腰を下ろした。
まずは、最も目立つ足首の傷を診はじめる。
脚絆を外し、血で汚れたサラシを取り外しにかかった。
「その町は『ナギノクニ』っていうところ?」
「そうだ。俺は凪の国民で、この森も凪の領地内だ」
藍鬼は自らの左腕に装着した革帯を示した。
それは刃物差しでもあり腕章も兼ねていて、紋章が刻印されている。
「母さまは、凪之国に行きたかったのかな……」
母が何の目的で、どこへ向かっていたのか、青には分からない。
どこへ行く、という青の問いに、ただ母は「青が幸せになれる場所よ」とだけ答えていた。
言葉にした途端、胸の奥に残っていた痛みが、堰を切ったように広がった。
膝上に乗せていた青の手が、薄浅葱色の裾を強く握る。震える指先、幼い爪が白くなるほどに力がこもる。
小さな丸い甲に、涙の粒がぱたりと、雨に似た音をたてて落ちた。
一粒ごとに、母親の記憶がこぼれていくようだ。
「……」
手当をする藍鬼の手が止まる気配はない。慰めの言葉もない。
ただ狭い小屋の中で藍鬼が作業をする音――小瓶が触れ、布が擦れ合う微かな音だけが流れた。
静寂を終わらせたのは、青だった。
「……ねぇ、藍鬼さん」
ぐずぐずと鼻をすする音と、呼吸を整えようとする浅い咳が続く。
「……そのお面、いつも着けてるの?」
泣き腫らした瞳が、仮面を覗き込んだ。
「……黒い猫……? 何の動物なの?」
「鬼豹。伝承上の幻獣だ。お面じゃない、仮面と呼べ」
藍鬼の態度は、変わらなかった。
「家の中なのに、外さないの?」
妖獣と戦っている最中も、戦いを終えた後も、そして小屋の中でも、藍鬼は終始、仮面を外さない。
「まだ、知る必要はない」
「……ふうん」
薄暗い森や室内で、よく転ばずに動けるな、などと青は内心で感心する。顔に見られたくない傷があるのか、それとも素性を隠すためか――理由は分からないが、幼いながらにも、何かしらの事情を抱えているのだろうと、青は察するのだった。
「エンシン・ヘキと、サンって、どういう意味?」
代わりに継いだのは、新たな問い。
「ん?」
急な話題転換に少し面食らったようだが、藍鬼の手当ては止まらなかった。
「術を使う時に、言ってたでしょ」
それは、藍鬼が妖獣を牽制した時に用いた術を指す。
青は無知だが、記憶力は確かであった。
「エンシンは炎の神、ヘキは壁、サンは散る、だ」
「それってジンツウジュツって言うんだよね?」
「神通術について誰かに聞いたのか」
「水の術を使った人は見たよ」
足首の手当を受けながら、青は旅の道中で出会った術の使い手について語った。
「スイジンって言ってたから、水の神様って意味だったんだね。他にも風とか土とか光とか闇もあって、七つの神様の力を借りる術なんだって、おば……ち、違った『キレイなお姉さん』って言えって言われたんだった、キレイなお姉さんが言ってた」
「っん……そ、そうだな」
ガキに「おば」ちゃん呼ばわりされた名も知らぬ女を思いやって、失笑を抑え込みつつも、藍鬼の手元は淀みなく動く。
薬草から作った薬を手のひら大に切ったサラシに塗布し、青の細い足首の傷に重ねた。草の青臭さも、薬臭さもなく、傷に触れてもまったく染みない。
「……その薬は何からできてるの?」
青が腰を屈めて足首、藍鬼の手元を覗き込む。
「お前が手当てしていたのと同じ、ヨモギだ」
「本当? じゃあ母さまが教えてくれた通りだった」
思わず嬉しくなり、青の足がぶらぶらと揺れる。
「動くな」
と藍鬼に短く窘められた。