8話 神の目
谷を吹き抜ける風は冷たかった。
谷の入口では、黒狼隊がゆっくりと隊列を整えている。
黒い狼の紋章。
それを遠目に確認した村人たちは、誰もが青ざめていた。
「黒狼隊だ⋯⋯」
「終わりだ⋯⋯」
「あいつらだけは駄目だ⋯⋯」
老人が震える声で呟く。
「あいつらは食料を奪うだけじゃない。村を焼く。男は殺され、女も子どもも連れていかれる⋯⋯」
子どもを抱いた母親が、我が子の耳を塞ぐように抱き締めた。
黒狼隊。
ガルディアス帝国でも悪名高い略奪専門部隊。
正規軍が攻め落とした土地へ入り込み、食料や財貨を奪うこともあれば、独断で国境付近の集落を襲うこともある。
抵抗した村が地図から消えた。
そんな噂まで残る連中だった。
神殿では、直人がその姿を見つめていた。
(絶対に止める)
身体はない。剣も持てない。敵兵一人を直接倒す力すらない。
それでも、自分にしかできないことがある。
直人が意識を集中させると、視界が大きく広がった。
谷を歩く人間たち。
敵兵一人ひとりの位置まで、ぼんやりとではあるが認識できる。
まるで空の上から戦場全体を見下ろしているようだった。
(これなら⋯⋯戦える)
一方、谷の中ではザイードが静かに剣を抜いていた。
その背後には六十人余りの敗残兵たち。
数だけなら敵の方が多い。装備も、馬も、経験も向こうが上。
普通にぶつかれば勝てない。
それでも、誰一人として逃げようとはしなかった。
「聞け」
ザイードが振り返る。
「俺たちは村を守る」
短い言葉だった。
だが、兵士たちは力強く頷く。
「隊長」
「ああ」
「今度こそ守りましょう」
ザイードは右頬の古傷へ一度だけ触れた。
かつて自分たちは敗れた。
守れなかった者も大勢いた。
だからこそ。
「全員、生きて帰るぞ」
「応!」
低い声が重なった。
谷の反対側。
黒狼隊、第三十八番小隊の隊長ガラムが、その様子を見て鼻で笑う。
「六十人程度か」
「しかもイルヴァナト王国の敗残兵じゃねーっすか?」
副官が答える。
「くだらん」
ガラムは剣を抜く。
「正面から潰せ。左右からも回せ。村に入った者には好きにさせろ」
黒狼隊の兵士たちから、下卑た笑い声が上がる。
「進め!」
二十騎近い騎兵が一斉に谷へ突入した。
同時に、森の中へ別部隊が消える。その瞬間。
「リシェラ!」
神殿で直人が叫んだ。
「敵が分かれる!」
「はい!」
リシェラは胸元の銀色の首飾りを強く握る。
声が震えそうになる。
自分が一言間違えれば、人が死ぬ。
神様の言葉を正しく届けなければならない。
そう思うだけで喉が乾いた。
それでも大きく息を吸う。
「神託です!」
澄んだ声が谷へ響いた。
「左の森へ十五騎!正面は三十!残りは右から回り込みます!」
敗残兵たちが一瞬ざわめく。
「そんなところまで見えるのか⋯⋯?」
だがザイードだけは迷わなかった。
「第二隊、左へ!第三隊、右の岩場を押さえろ!
正面は俺についてこい!」
兵士たちが走る。
数十秒後。
森から本当に十五騎が飛び出した。
「今だ!」
待ち構えていた兵士たちが槍を突き出す。
突然現れた槍衾に馬が驚き、先頭の騎兵が地面へ叩きつけられる。
「伏兵!?」
「なぜここにいる!」
黒狼隊が慌てて隊列を立て直そうとする。
だが狭い森の中では、馬の機動力を活かせない。
ザイード側は無理に追わない。
「深追いするな!予定の位置まで下がれ!」
勝てる場所だけで戦う。相手が追ってくれば退く。
退けば、また別の兵が待ち構えている。
直人の目と、ザイードの経験。
二つが噛み合い始めていた。
(右⋯⋯)
直人は戦場を見続ける。
岩陰。三人の弓兵が身を伏せている。
ザイードの背後を狙っていた。
「リシェラ!」
「はい!」
「右前方の岩陰!弓兵が三人!」
「ザイードさん!右前方、岩陰に弓兵三名です!」
ザイードは振り返らない。
「弓隊!」
味方の弓兵が一斉に弦を引く。
矢が岩場へ降り注ぐ。
「ぐあっ!」
隠れていた男が転がり落ちた。
敗残兵たちの表情が変わる。
「本当にいた⋯⋯」
「全部見えてるのか⋯⋯?」
「神様が⋯⋯俺たちの戦場を見てくださっている」
恐怖が消えていく。
代わりに、生き残れるという確信が広がっていく。
「押し返せ!」
「神様が見てるぞ!」
「隊長についていけ!」
兵士たちの声が強くなる。
黒狼隊は逆だった。
「隊長!」
「左が止められました!」
「右もです!」
「弓兵まで潰されています!」
ガラムの眉間に深い皺が刻まれる。
「馬鹿な⋯⋯」
こちらの動きが全て読まれている。
偵察兵でもいるのか?しかし、探しても探しても、それらしい者はいない。
「誰が見ている⋯⋯?」
ガラムは初めて不快ではなく、不安を覚えた。
神殿では直人が必死に視界を維持していた。
神力を使い続けるほど、自分という存在そのものが熱を持つ。
(きついな⋯⋯)
呼吸はしていない。
身体もない。それでも疲労に似た感覚がある。
視界が一瞬霞む。だが止められない。
自分を信じて戦っている人たちがいる。
(あと少しだけ⋯⋯)
さらに遠くを見る。
その時だった。
「⋯⋯まずい」
谷のさらに奥。
崖の上。十騎ほどの騎兵が、戦場を大きく迂回していた。
戦っているザイードたちではない。
その先にあるのは——村。
(別働隊か!)
黒狼隊は最初から、全員でザイードたちを倒すつもりなどなかったのだ。
正面で引き付けている間に、別働隊を村へ向かわせる。
老人も、子どもも、リシェラもいる。
「リシェラ!」
直人の声に、リシェラが弾かれたように顔を上げる。
「神様!」
「まだ終わってない!谷の上だ!十騎が村へ向かってる!絶対に食い止めるんだ!」
リシェラの顔から血の気が引く。
それでも、すぐに叫んだ。
「ザイードさん!」
その声が谷へ響く。
「別働隊です!崖の上から十騎、村へ向かっています!」
ザイードが勢いよく顔を上げる。
「何だと!」
そして。
その叫び声を聞いたガラムも、初めて表情を失った。
「⋯⋯なぜだ」
別働隊の存在を知っているのは、自分とごく一部の部下だけ。
偵察では説明できない。
偶然でもない。まるで空から、自分たち全員を見下ろしている何かがいる。
ガラムの背中を冷たい汗が伝った。
「まさか⋯⋯」
黒狼隊の隊長が、初めて神殿のある方角を見る。
「本当に、神がいるのか⋯⋯?」
評価、ブックマーク、感想など励みになります。
モチベーションになりますので、よろしくお願いします。
また、作者Xにて更新通知を行っております。
新作の通知なども行いますので、ぜひフォローお願いします。
@MokaSufure




