13話 イルヴァナト村
春の風が、広い畑を渡っていく。
直人がこの世界へ来て初めての春から、一年が経った。つまり直人にとって、この世界に来てから二度目の春である。
あの頃、神殿から見えていたのは焼けた家と痩せた人々ばかりだった。それが今では、神殿を中心に多くの家が立ち並び、その外側には新しく開かれた畑が広がっている。
人口は約千八百人。一年前の倍以上だった。
冬を越した後、「神託の村」の噂を聞いた近隣の集落から人々がやって来た。最初は数十人、その次は百人単位となり、今では元からあった村の境界すら分からなくなっている。
「ずいぶん大きくなったな」
直人が呟くと、祭壇の前を整理していたリシェラが顔を上げた。
「神様のおかげです」
「いや、俺は場所を教えたり、相談に乗ったりしただけだよ」
「その『だけ』で何度助けられたと思っているんですか?」
少し呆れたように言われ、直人は返す言葉に困った。
この一年、神託を求める人間は急激に増えた。
畑をどこへ広げるべきか。
新しい井戸をどこへ掘ればいいか。
狩りへ行くなら、どの森が安全か。
橋を架けるなら、どこが適しているか。
夫婦喧嘩の仲裁まで頼まれた時には、さすがに断った。
もっとも、直人が問題だと思うより先に、村人たちは神託を生活の一部として受け入れていた。
「今年の畑は、神様に聞いてから決めよう」
「新しい道も神託を待った方がいい」
「神様が見てくださっているなら間違いない」
そんな声が当たり前のように聞こえてくる。
(⋯⋯頼られすぎな気もするけど)
困っている者を放っておけない直人自身、頼られれば結局答えてしまう。その結果、ますます神託への信頼は強くなっていた。
その日、神殿前の広場には大勢の村人が集まっていた。
議題は、この場所の名前だった。
人口が増え、周辺の集落まで一つの共同体として暮らすようになったため、いつまでも「神託の村」とだけ呼ぶのは不便になっていた。
「昔の名前を使いたい」
一人の老人がそう口にした。
人々が静かになる。
「イルヴァナト」
滅ぼされた祖国の名前だった。
「王国はなくなった。それでも、わしらまで名前を捨てる必要はないと思うんだ」
反対する者はいなかった。
やがてリシェラが祭壇を振り返る。
「神様は、どう思われますか?」
「俺が決めていいことじゃないと思う」
直人は少し考えて答えた。
「みんながその名前を残したいなら、俺は良い名前だと思うよ」
リシェラがその言葉を伝えると、村人たちの表情が明るくなった。
こうして、神託の村は正式に「イルヴァナト村」と呼ばれることになった。
名前が決まった日の午後、広場では別の騒ぎが起きていた。
「売り切れだ!」
「またかよ!」
「次の荷車はいつ来るんだ!」
旅商人たちが、積み上げられた小瓶を奪い合うように買っている。
中身は黄金色の蜂蜜だった。
一年前、直人が広げた神の視界で森を調べていた時、村の東側に大量の蜜蜂が生息している場所を見つけた。
最初は単なる食料として集めていたが、遠方から来た商人が驚くほど高い値を付けた。
そこで直人は考えた。
(野生の巣から取るだけじゃ、そのうちなくなるよな)
前世で地域振興の事例を調べていた時、養蜂について読んだ記憶があった。
もちろん巣箱の細かな構造までは覚えていない。
そこで村の木工職人や、昔から蜂蜜を採っていた老人たちへ相談した。
直人は蜂が多く集まる場所を神の目で探し、職人たちは試行錯誤を繰り返す。
失敗した巣箱も多かった。蜂に逃げられたこともある。
それでも一年をかけて、ようやく安定して蜂蜜を採れるようになった。
その蜂蜜は今やイルヴァナト村最大の特産品になっていた。
「神様が蜂の巣を見つけてくださらなかったら、こんな商売はできなかったな」
「次は何を見つけてくださるんだろう」
「神託を聞けば、もっと儲かるものがあるかもしれないぞ」
そんな会話を聞きながら、直人は少し苦笑する。
(そこまで万能じゃないんだけどな)
しかし結果だけ見れば、そう思われても仕方がなかった。
水脈を当て、狩場を見つけ、魚の集まる場所も、薬草の群生地も見つけた。
食料だけじゃなく黒狼隊の作戦まで見抜き、そして今度は、村に金をもたらす特産品まで生まれた。
村人にとって、神託は実際に生活を豊かにする力となっていた。
夕方、ザイードが神殿へやって来た。
一年前と比べても身体はさらに鍛えられ、今では百人近い自警団をまとめている。
「リシェラ、神様へ報告を頼む」
「はい」
「北側の見回りは問題ない。商隊が増えているから、街道沿いの警備は少し増やす」
リシェラを通して報告を聞きながら、直人はザイードを見つめた。
この一年で、直人の神力も大きく増えた。
信仰する者が増え、加護を与えられる人数も一人ではなくなっている。
エレナにはすでに治癒の加護がある。
そして今日、もう一人へ新たな加護を与えられるだけの力が整っていた。
「リシェラ」
「はい」
「ザイードさんに伝えてくれる?」
直人は静かに告げる。
「加護を受けてほしい」
ザイードが目を見開いた。
「俺が?」
「そうです」
リシェラが頷く。
「神様は、ザイードさんへ加護を授けたいと仰っています」
ザイードはすぐには答えなかった。
「エレナのように、他に必要な者がいるのでは?」
いかにも彼らしい返事だった。
「今回は君だよ」
直人は迷わなかった。
「この村は大きくなった。守る人も増えた。だから、ザイードさんにはもっと強くなってもらいたい」
その言葉が伝えられると、ザイードはしばらく黙り込んだ。
やがて剣を床へ置き、祭壇へ片膝をつく。
「承知しました」
神力を集中する。
直人が望んだのは、単純な怪力ではなかった。
ザイードが誰かを守るために剣を振るう時、その身体が僅かでも速く動き、少しでも長く戦えること。
その願いに呼応するように、淡い光がザイードを包んだ。
「⋯⋯これは」
ザイードがゆっくり立ち上がる。
試すように拳を握り、腰の剣を抜いた。
一閃。
空気を裂く音が、今までとは明らかに違った。
「すごい⋯⋯」
リシェラが思わず声を漏らす。
ザイード自身も驚いていたが、やがて祭壇へ向き直った。
「神様」
もちろん直人には直接聞こえているが、返事を届けるにはリシェラが必要だ。
「この力、必ず村を守るために使います」
直人は穏やかに答えた。
「うん。頼りにしてる」
リシェラがその言葉を伝えると、普段ほとんど笑わないザイードが僅かに口元を緩めた。
その日の夜には、ザイードが神の加護を授かったという話が村中へ広がっていた。
「神様がザイードさんを選んだ!」
「これなら帝国兵が来ても怖くない!」
「やっぱり神様に任せていれば大丈夫だ!」
歓声が各所から聞こえる。
直人は神殿から明かりの増えたイルヴァナト村を見渡した。
一年前、滅びを待っていた小さな村はもうない。
人は増え、食料があり、商品を売り、守る力まで手に入れた。
その中心には、確かに神託があった。
(⋯⋯俺がいないと困る村になってきたな)
少しだけ気になった。
けれど今は、それ以上に嬉しかった。
自分がいることで、人々が安心して笑えている。
前世では、どれだけ地域を良くしたいと思っても、自分一人の力ではどうにもならないことばかりだった。
ここでは違う。
神として得た力を使えば、目の前の人々を本当に助けられる。
(もっと良くできる)
イルヴァナト村は、まだ大きくなれる。
そう思った直後だった。
村の南側。
街道の向こうから、見慣れない一団が近づいてくるのが直人の視界へ入った。
何台もの荷馬車と、武装した護衛。
そして荷台には、人間が乗せられていた。
首に鉄の輪を嵌められたまま。
「⋯⋯何だ、あれ」
翌日。
イルヴァナト村へ、帝国の奴隷商隊がやって来る。
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