風に乗せて歌おう——秋の日、雛菊(マーガレット)そして君
私は朝を待ち焦がれていた。あと一歩を踏み出しさえすれば、すべてが変わってしまうかのように。
頭のなかで際限なく紡ぎ出される架空の言葉が、どうしても眠りを寄せつけなかった。眠るのを諦めた私は寝台に横たわったまま、彼女の口からこぼれるかもしれない答えをあれこれと思い描き、それに対して自分がどう応じるべきかを、繰り返し繰り返し考え続けていた。もし彼女が残ると言ってくれたなら、どうするべきか。もし迷っているのなら、どうやって説得すればいいのか。眉をひそめて、そんなの夢物語だと言う彼女の顔まで、前もって想像し終えていた。まるで、起こりうるすべてを、もう予行し終えてしまったかのように。
窓から差し込むかすかな月明かりを借りて、私の胸に渦巻く問いは、どんどんふくれあがっていく。
あと少しだ。
マーガレットに会えれば、ただ会えさえすれば。彼女があの辻に姿を現したなら、そうしたら、私はその問いを口にするのだ。
そうして、空がまだぼんやりとした黒みを帯びているうちに、私はもう約束の場所に立っていた。石塀の苔は朝露に濡れて黒ずみ、遠くの教会からは鐘の音がゆるやかに届いてくる。塀にもたれかかって、気のないふりをして待ってはみたが、視線だけはどうしても、彼女の現れるはずの方角へと泳いでいった。
黄ばんだ木の下、一面に散った落ち葉を数えようとした。けれど五十ほどまで数えたところで、こらえきれずに顔を上げてしまう。
誰もいない。
また、はじめから数え直す。
今度はまだ二十にもならないうちに、風が吹いて道端の落ち葉を動かし、私はまた思わず顔を上げていた。
やはり、誰もいない。
私はつい、ほんの少し笑ってしまった。
彼女が何も言わずに行ってしまうはずがないと、わかっているのに。きっと、ちょっとした用事に手間取っているだけで、もしかしたら私が来るのが早すぎただけなのかもしれないと、それもわかっているのに。胸のあたりが、自分の口からこぼれる数字に、少しずつ締めつけられていくようだった。
呼吸を整えようとしたが、心臓はこれまでにないほどはっきりと脈打っている。自分を落ち着かせるためのどんな方法も、急に何の役にも立たなくなってしまった。
それから、また少し経った。
辻は相変わらず、がらんとしている。
私はとうとう身を起こし、何か名づけようのないものに引き寄せられるようにして、石塀を離れ、教会の方角へと歩き出した。
朝もやはまだ晴れておらず、遠くの屋根には灰色がかった白いヴェールがかかっている。道端の草の葉は露を宿し、踏みしめるたび、湿った泥の道がかすかな粘るような音を立てた。やがてその泥の道は、まばらに継ぎ合わされた石畳へと変わっていった。
最初は、それが何なのかさえわからなかった。ただ、石畳の継ぎ目のあいだに、ぽつりと一筋の暗い色が落ちているのが目に入った。誰かが絵の具をぶちまけたみたいに。うつむいてまじまじと見ると、その色はまだ弱々しい明かりの下では、いくぶん黒ずんで見えた。
さらに数歩、足を進める。
二滴目。
三滴目。
それらは点々と石畳に落ちて、道に沿ってまっすぐ前方へと伸び、しだいに引きずるような跡へと変わっていく。私の足は遅くなり、言い知れぬ違和感が胸の底から込み上げてきた。
風が吹き抜ける。とたんに、かすかな鉄錆びの匂いが鼻をつき、その刺激のある臭いに、私は一瞬息を詰めた。
それから顔を上げた。
小道のつきあたりに、誰かが座っているように見えた。その人は石塀のそばにもたれかかり、うつむいて、長い髪が垂れ落ちている。朝もやの向こうで、はっきりとは見えない。
私は思わず足を速めた。心臓が、急に激しく跳ねはじめる。
そんなはずはない。
それが自分への慰めなのか、誰への慰めなのかもわからなかった。
そんなはずはない。
距離が縮まるにつれて、あの、赤く染まった布のスカートが、少しずつはっきりと浮かび上がってくる。
私の足は、がくんと止まった。頭のなかの何かが、一瞬、真っ白になった。
風が吹いて、彼女の垂れた髪を揺らす。
ジンジャーハニーのような長い髪が、かすかに揺れている。
ちがう、昨日まで笑っていた人が、どうしてこんなところに横たわっているんだ。ちがう、ちがう。
心のなかでは否定しているのに、足はもう駆け出していた。
石畳が足の下で矢継ぎ早にこだまする。私は彼女の目の前に駆け寄り、膝をついた。
「マーガレット」
返事はなかった。
手を伸ばして肩に触れる。その体は、ぞっとするほど軽かった。
「マーガレット」
声に出して初めて、自分が震えているのに気がついた。
彼女はなおもうつむいていて、長い髪が半ばの顔を覆い隠している。そして私の手のひらの下で、生温かくねっとりとした感触が、ゆっくりと指のあいだに滲み込んできた。
彼女が、ゆっくりと目を開いた。
私の姿を目にしたその瞬間、それまで強張っていた表情が、ようやくほどけたように見えた。血の気の失せた唇が、かすかに動く。
「……来てくれたんだね」
私は彼女を抱きかかえた。手のひらの触れるところすべてが、生温かく、ねばつく血だった。
「大丈夫だ、大丈夫……」自分でも、彼女を慰めているのか、自分を慰めているのかわからなかった。「ここから教会まですぐだ。いま人を呼んでくる。すぐに呼んでくる——」
そう言って立ち上がろうとした。
けれど彼女が手を伸ばして、私の服の裾をつかんだ。その手にはほとんど力が入っておらず、私に触れたかと思うと、もう力なく落ちていった。
「待って……」
声はあまりに軽く、今にも風に攫われてしまいそうだった。
彼女は口のなかに溜まった血を、飲み下したようだった。呼吸が、急にせわしなくなる。
「行かないで」
「どうして?」
私は一瞬つかえて、血に浸った彼女のスカートの裾を見ながら、声が勝手に震えるのを止められなかった。
彼女は目を閉じ、ずいぶん長く息を整えてから、もう一度口を開いた。
「真っ暗で……急に現れたの。でもあの人、私が何を調べているか、知ってた」彼女は一旦言葉を切り、息がさらに速くなった。「クローズ……怖かった。もう誰を信じればいいのかわからなくて、あなたのところにしか行けなかった……」
「それなら、誰かに助けてもらえるはずだ!」
私はほとんど叫ぶように言っていた。
「誰かが——」
彼女はかすかに首を振った。目元がほんの少し潤み、まるで私を、いや自分自身を否定するかのようだった。
「銅貨……あの銅貨……あの人たち、探してる……」
彼女は苦しげに息を継ぎ、まだ何かを思い出そうとするかのように、もっと多くのことを私に伝えようとしていた。けれど腹の傷からくる激しい痛みに、身体がひとりでに縮こまる。こぶしを握りしめて必死に耐えようとしても、もうほとんど力は残っていなかった。最後の気丈ささえ、どうしても保ちきれなかった。
涙が、その頬を伝った。
その少女は、ついに声を上げて泣いた。
「ごめんね、クローズ……ごめんね……痛い……」
彼女は激しく咳き込み、鮮血が口の端を伝って流れ落ちた。
「思い出せない……さっきまでは……ちゃんと……ちゃんと伝えようと、思ってたのに……」
「大丈夫、大丈夫だ、マーガレット」
「ごめん……あなたの暮らし、めちゃくちゃにしてしまったみたい」
彼女はまだ何かを言いたそうだったが、開きかけた口からは、なかなか声が出てこなかった。
私は彼女を、もっと強く抱きしめた。
「もう、しゃべるな」
「頼むから、しゃべらないでくれ」
「マーガレット……」
彼女は私の腕に寄りかかったまま、胸の上下が、だんだんと浅くなっていく。私は彼女の名前を何度も呼び続けた。まるで、それをやめなければ、彼女はまだここにいてくれるかのように。
「マーガレット」
「マーガレット……」
目尻からこぼれ落ちたものが、彼女の顔に落ちた。
彼女は目を開けなかったが、そのぬくもりを感じたかのように、ほんのほんのわずか、口元を動かした。
ずいぶん長いあいだのあとで、あの、しゃがれてほとんど聞き取れない声が、もう一度だけ届いた。
「それ……私のために、泣いてくれてるの……」
彼女は長いこと息を詰めてから、さらに細くなった声で言った。
「じゃあ、これで……おあいこだね……」
私の息は、ぐっと詰まった。
私は額を、彼女の冷たくなった手の甲に押し当てた。一晩中ずっと準備してきた言葉が、喉の奥でつかえてしまった。
それを口にしようとした、まさにそのとき、彼女は何かを感じ取ったかのように、最後に残った力を振り絞って目を見開き、ゆっくりと手を持ち上げ、そっと私の唇に触れた。
私を、止めた。
彼女は、私がその言葉を口にするのを、望まなかったのだろうか。
焦点の合わなくなっていくその目が、私を見つめて、長いこと沈黙していた。
それから、笑った。
あの日、草地のうえに寝転がっていたときと、同じように。
「クローズ」
「がんばって」
彼女はなんて身勝手なんだろう。そんな言葉で、私が彼女のことを諦められるとでも思っているのか。
私も、なんて身勝手なんだろう。
目を閉じた彼女にしか、その返事を返せないのだから。
私はうつむいた。
朝の風が、湿った冷たさを運んでくる。
そのとき初めて、私は知った。
死んだばかりの人でも、唇はまだ、温かいままだということを。
夢を見た。
夢のなかは、とても暗かった。
まるで誰かが空一面を墨で塗りつぶしてしまったかのように。
背後から迫る音がだんだんと近づいてきて、不安に駆られて、私は勢いよく身を翻した。闇のなか、ふいに一条の冷たい光が走り、もともと身体を貫くはずだった刃は、脇腹をかすめただけだった。灼けるような痛みが、瞬く間に広がっていく。
私は一瞬、動けなくなった。
けれど黒い影は、止まらなかった。
そいつは何の声も発さずに、ただ再び手を持ち上げた。
恐怖が、痛みよりも一足早く全身を覆い尽くした。
私は背を向けて、走り出した。
耳に残るのは、荒い息と、乱れた足音だけ。スカートの裾が風に引きちぎられそうに翻り、私は振り返ることもできず、ただ必死に前へ進もうとする。
背後の足音がすぐそこまで迫ってきて、助けを呼ぼうとした。けれど喉は何かに塞がれたみたいに、声が出なかった。
その次の瞬間、背中に走った激しい痛みで、身体は力を失くしたように、どうすることもできず前に倒れ込んだ。膝が地面に打ちつけられ、砕けた石粒が皮を裂き、肉に刺さるような痛みが絶え間なく襲ってくる。
這うようにして立ち上がり、まだ走ろうとした。けれど、身体に力が入らず、足もひどく萎えて、またも地面に崩れ落ちてしまった。
その影は、それでも慌てるふうもなく、ゆっくりと後ろからついてくる。
まるで、私がまだどれだけ走れるのかを、たしかめているかのように。
ようやくよろめきながら立ち上がったときには、もうその切迫した足音が、目の前まで来ていた。
そしてすぐに、腹のあたりに、言い表しようのない激痛が突き抜けた。
生温かい液体が、一気に溢れ出した。
私は思わず傷口を押さえた。けれど血は、指の隙間から絶え間なく滲み出てくる。
どうして、こんなに流れるんだろう。
どうして、抑えきれないんだろう。
恐怖がついに、理性のすべてを押し潰した。
背後に広がる闇が、どこまでも追いかけてくるようで、周りのあらゆるものが、急に知らないものへと変わっていった。家並みはぼやけ、道も歪み、遠くの鐘楼の輪郭さえも揺れている。
誰かに助けを求めようとした。
けれど、あの住民たちの姿も、あの聖職者たちの影も、みなあの黒い影と重なって見える。私はまるで臆病な蟻みたいに、目の前の誰もがみな、巨大なものにしか見えなかった。
目頭が急に熱くなり、悔しさと怖さが、一気に溢れ出してきた。
ふと気づく。もう、誰を信じればいいのか、わからなかった。
でも、混乱した脳裏で、ただ一つの姿だけが、どんどんはっきりと浮かび上がってくる。
だから、それでも進み続けるしかなかった。
掌はもう血でぐっしょりと濡れて滑り、一歩踏み出すたびに、腹のあたりに引き裂かれるような痛みが走る。
痛い。
ほんとうに、痛い。
傷つくことが、こんなにも痛いだなんて、今まで知らなかった。
涙が、どうしようもなく流れ落ちてくる。
それでも、私は立ち止まれなかった。
だって、まだ伝えたい言葉があったから。
まだ、会いたい人がいたから。
どれだけ歩いたのか、もうわからなかった。
心臓の鼓動も、息づかいも、少しずつ自分のものではなくなって、はるか後ろに置き去りにされていくようだった。
けれど、あの思いだけは、ますますはっきりとしていく。
どうしても、あの人に会いたい。
どうしても、あの人と、話がしたい。
……
視界が、急にふわりと持ち上がった。
まるで魂が、身体から抜け出してしまったみたいに。
私は、眼下にいるあの生姜色の髪の少女を見下ろしていた。
彼女が、傷口を押さえるのを見ていた。
彼女が、石塀にすがるのを見ていた。
彼女が、よろけながらも、私たちが会う約束をしたあの場所を目指すのを見ていた。
彼女の唇が、かすかに開いては閉じる。
まるで泣いているみたいだった。
まるで、たった一つの名前を、何度も何度も繰り返し呟いているみたいだった。
「クローズ……」
「クローズ……」
その声はまるで夢の続きを辿って現実までついてきたようだ。それとも、私はずっと目覚めていないだけなのか。
それからの日々
私は笑わなかった。笑えば周りの不安を和らげられると分かっていても。涙も流さなかった。彼女は私が泣く姿を見たがっていたから、隠れたあいつの思う壺にはなれない。だが本当は、ただ泣けないだけなのか。
窓からさわやかな秋風が吹き込む。まるで失う直前の最後の別れの調べのように。カレンが贈ってくれた花はほとんど黄ばんで枯れてしまった。新しい花を届けてくれなかったわけではない、ただ、あらゆる花の季節が終わろうとしているだけだ。
幼い、ごく幼い頃のことを、よく思い出す
ふう……
人に好きな色や好きな花を尋ねられるたび、私はいつも返す言葉を見つけられない。昔の私は、ただ一つ、最も優れ、最も特別で、自らの心にぴったり馴染むものを選び出そうとしていた。
だが時が流れるにつれ、その色は移ろい、その花もまた変わっていった。
やがて私は悟った。色であれ花であれ、他との差異から生まれる特別さが重要なのではない。そこに宿る記憶こそが、それを唯一無二にし、私に本当の愛を与えてくれるのだと。
それゆえ今では、無意識のうちにマーガレットの前で足を止める。まるで時間の舟が、あの秋の岸辺に再び停泊したかのように。
Bad end 秋の日に葬られた雛菊 終
正直、個人的に言えば、マーガレットが一番好きだと




