風に乗せて歌おう 16
人とは、ほんとうに妙なものだ。
何かを失うとわかればわかるほど、脳は普段なら気にも留めないような些細なことばかりを、一つひとつ克明に刻みつけていく。
卓の隅に落ちる陽の角度、風が髪をさらっていくとき頬をかすめる感触、話すときの、あの間の取り方、ぼんやりしているとき相手がどこに視線を向けるかまで。そんなものがこれから先、自分を責め苛むだけのものになるとわかっているのに、それでも覚えずにはいられない。脳裡に刻みつけずにはいられないのだ。
あの日から。
私たちは暗黙のうちに、別れのことはもう口にしなくなった。まるで、どちらかが先に口にしたら、そのぶんだけ別れが早く訪れてしまうかのように。
カレンに字を教えるという約束を、マーガレットはただの言葉で終わらせるつもりはないらしかった。
あの古びていながらもきちんと片づいた木の机。少しずつ中身の減っていく本棚。
仕事の合間の休みがあると、私はいつもそこへ足を運ぶようになった。
ただ、顔を上げた拍子に、マーガレットが頬杖をついて、すぐそばに座り、静かに私たちを見つめていることに気づくことがある。
以前のマーガレットはいつも、しなければならないことに追われているようだった。教会の仕事、帳簿の照合。けれど最近は、ここにいる時間がどんどん長くなっていった。急に暇になったかのようにも見えるし、何かを少しずつ、自分のために残しておこうとしているようにも見えた。
家に帰る前、私たちはときどき一緒に市へ出た。
べつに、はっきりした目的があるわけじゃない。ただ通りに沿って、ゆっくり歩いていくだけだ。
今日はパン屋でまた何か新しいものを焼いていないか、市にはどこの遠方の商人が来ているか、川辺で大きな魚を釣り上げた者はいるか。普段なら気にも留めないそんな小さなことが、急にどれも面白く思えてきた。
マーガレットは道すがら、こっそり私とカレンに贈り物を買ってくれた。一本の木の剣と、一つの髪飾り。それがどういう思いからだったのかは、わからない。ただの思いつきかもしれないし、そうでないのかもしれない。私はそれ以上、深く考えようとはしなかった。
日々は、やはり変わらずに過ぎていく。
けれど、いつからか、その日その日にしたことの一つひとつが、まるで「最後」という番号をひっそりと振られているように感じられてならなかった。
ある日の午後。
カレンが字の練習を半分ほど終えたところで、マーガレットは、あの子がいつも持ち歩いている二枚の銅貨に気づいた。
カレンがこくりと許したのを確かめてから、手を伸ばしてその銅貨をつまみ上げ、指先で表面の傷をそっと撫でた。
「どうした?」と私は尋ねた。
マーガレットはしばらくためらってから、小さな声で言った。
「これ、見たことがある気がするの」
それから、教会の文書の話を持ち出した。あちらの伝票や書簡のなかで、似たような朱い印を見かけたことがある、と。
それはほんとうは、マーガレットが触れるべきものではなかった。そのせいで一度、叱責を受けたことも。私はその銅貨の出どころを知っていた。あれは、私がカレンに渡したものだ。だから、その話はさほど気に留めなかった。けれど本人は、どこかずっと引っかかっている様子で、迷った末に、すこし気にかけてみる、と私に言った。
そのさらに後のこと。酒場で、バンデリの徒弟が何者かに殺されたという話を聞いた。いきさつは何もわからなかったが、それでも、慣れ親しんだ世界からまた何かが欠け落ちたような心地がした。こういうことを、あるいは「別れ」と呼ぶのかもしれない。
だからその後、マーガレットの口から、とても世話になったという老修道女が別の町へ異動になるので、見送りに行きたいのだと聞いたとき、私は迷わず同行を承諾した。




