風に乗せて歌おう 15
どれほどそう見つめていたのか、私がようやく視線を外した、そのほんのわずかな隙に、母屋の扉が突然、押し開かれた。
マーガレットが、中から出てきた。
目元がほんの少し赤らんでいるのに、涙の痕はどこにも残っていなかった。
私は思わず顔を上げて、二階を見た。
あの固く閉ざされていた窓が、いつのまにか細く押し開かれている。
窓の背後には、一人の男が立っていた。
男は窓枠にかけていた手をゆっくりと引き戻す。垂れ落ちた袖口は精巧で、よく整えられていた。高いところから見下ろすように私を見据える、その両の目からは、これといった感情が読み取れなかった。冷たさというよりは、取るに足らないものを眺めるのに近い目だった。
私はすぐに視線を逸らし、マーガレットのほうへ歩み寄った。
「もう、帰るのか」
マーガレットは小さく頷いた。
「うん、行こ」
私は手を伸ばして、その手を握った。
指先が触れた瞬間、かすかに震える冷たさに、初めて気がついた。
私たちは長廊に沿って、外へ向かった。
東屋のあたりで、母親がようやくマーガレットに気づいたように、思わず口を開きかけた。
だが、その視線がわずかに持ち上がっただけで、何かに気づいたように、ゆっくりと止まった。
結局、母親はただ無言のまま、目をそらしただけだった。
私は何も尋ねなかった。
ただ、マーガレットの手を、さっきよりもずっと強く握りしめた。
高い塀の外に出たところで、さっきまで私が引いていた手が、不意に握り返してきた。まるで、どこかへ遠ざかろうとするものを、つかみ止めようとするかのように。片方の手で私を引き、もう一方の手でスカートの裾をたくし上げ、走り出した。屋敷から数百メートル先まで伸びる石畳の上を、靴のかかとがせわしない足音を叩きつける。やがて石畳が土の道に変わると、その音もこもった、くぐもった響きに変わった。裾をつまんでいた手が腕の振りにほどけて離れ、私の手を握っていた手も、滑り落ちていった。
私は足を速め、マーガレットの手のひらに、もう一度自分の腕をからめた。
邸の外の小道は、畑へとつながっている。麦畑の向こうは一面の荒れ地で、草はすねの高さまで伸び、ずっと遠く、見分けのつかないあたりまで広がっていた。空の視界が、一気に押し広げられたように感じる。来るときにはまるで気づかなかった光景だった。雲は風に押されて流れ、影が地面を大きな塊のまま滑っていく。
マーガレットは私を引っ張って、その荒れ地のなかへ走り込んだ。白いスカートの裾が、枯れ草のあいだで、風にちぎられた雲の切れ端のように揺れている。
「マーガレット?」
答えはなかった。足も止めなかった。
空に向かって大声で叫んだ。胸のなかのすべての悔しさを、風に任せて運び去ってもらおうとでもいうように。声は見渡すかぎりの野にこだましたが、こだまはひとつも返ってこなかった。
私はその姿を見つめた。胸は激しく上下し、風に解けて流れる髪が、視界のなかで揺れている。深く息を吸い込み、もう一度叫んだ。風が喉に流れ込み、胸のあたりが引き裂かれるように痛んだのか、思わず歩みが緩んだ。
自分がなぜそんなことをしたのか、わからなかった。ただ、その声を続けたかっただけかもしれない。私は後を追うようにして叫んだ。
自分のものでありながら、まるで知らない声だった。怒りでも、悔しさでもない。それが何なのか、そのときの私にはわからなかった。誰にも聞こえないとわかっていたからかもしれない。ずっとずっと長く詰まっていた息が、胸の奥でくすぶり続けて、突然その出口を見つけた、そんな声だった。
空が揺れる。青と灰色がかき混ぜられていく。波打つ血管が、心臓の刻みとずれた拍子を打っているようだった。
マーガレットが横を向いて、私を見た。ほんの少し笑って、また叫んだ。
私たちはまるで二人の馬鹿みたいに、荒れ地のなかに立って、空に向かってめちゃくちゃに叫んだ。遠く地平線のあたりに見える小さな町が、走りのなかで、かすかな切り絵のように上下に揺れている。まったく力が尽きるまで叫んで、私たちはそのまま草の上に倒れ込んだ。
首もとに、草が刺すようなかゆさが伝わってくる。風が吹き抜けると、草の葉が耳のそばでそっと擦れ合い、かすかなさわさわという音を立てた。
隣には、マーガレットが横たわっている。さっきまで風に梳かれていた髪が、幾筋か、私の顔のうえに落ちていた。荒い息とともに鼻腔に届く、名も知らぬ香り。それがその髪のものなのか、それともそばに咲く花のものなのか。
私たちの呼吸は、しだいに落ち着いていった。叫び声が終わると、野原はまた一気に静まり返り、広大な空間には、ただ二つの心臓の鼓動だけが残されたように思えた。
私は何を言えばいいのかわからなかった。尋ねたいことは唾のように、口のなかでかたちになりかけては、そのまま飲み込まれていった。
横たわったまま空を見つめ、隣の息づかいを聞いていた。息を吸い、息を吐く。
「マーガレット、がんばれ」
呼吸のあいだから、不器用な私の口が、そんな脈絡のない言葉をこぼしていた。頭のなかを探しても、考えた痕跡はどこにも見つからない。
マーガレットが横を向いた。
その動きで、髪が枯れ草のうえをかすかに滑る。眉がほんの少し上がり、目のなかには、まだ息の乱れが残したかすかな光があった。それから、笑った。
顔を空に向けて、声を上げて笑った。肩まで震わせて。
あの妙な言葉が、かえってこわばりを解いたらしかった。私自身、なぜあんなことを言ったのかわからなかったけれど、その笑い声を聞いたとたん、それまで宙に浮いていた心臓が、ようやくゆっくりと降りてきた。
そのとき、マーガレットが寝返りを打った。何を思う間もなく、私の上に覆いかぶさるかたちになる。あの生姜色の髪がさらりと垂れて、向かい合った二人を、そのなかに閉じ込めた。
私たちの顔はずいぶん近くて、呼吸のぬくもりと、その弾みまではっきり感じられるほどだった。私は目を見開いて相手を見つめ、何か言うのを待った。けれど、口は開かなかった。
夕風の音がどっと吹き込んでくる。遠くで、家路につく女が口ずさむ歌が聞こえてくる。その音が、沈黙を破った。
唇が、かすかに近づいた。
その不意の動きに、考えることのすべてを奪われた。本当なら押し返すはずの手に、どうしても力が入らなかった。
私は視線を逸らさなかった。
ただ見つめ、近づくのを見ていた。
けれど、
止まった。
私の腕のそばの草を支えていた手が、草の茎を押し折るかすかな音を立てる。指が、ぎゅっと強張ったかと思うと、力をなくしたように、ふっと緩んだ。
うつむいたマーガレットの髪の先が、私の額をかすめた。声はごく軽かった。
「あなたにだけは、何も隠したくないの」
一拍おいて、続ける勇気を、なんとかかき集めるように。
「だから、ほんの少しだけ。ほんの少しだけでいいから」
もう一度顔を上げて、私を見た。目のなかに、涙の光が揺れている。
「あなたに別れを言わせて」
私は一瞬、沈黙した。まるで心の奥の懸念が、無理やり引きずり出されたみたいに。力を振り絞っても、喉からは乾いた二文字しか出てこなかった。
「……別れ?」
「クローズ、前に言ったよね。教会の手伝いがなかったら、私は一生、修道院のなかで終わっていたって」
私は何かを察した。でも、それを確かめる勇気が持てなかった。
「父がもう教会と話をつけたの。こちらの用件がすべて片づき次第、私、修道院に戻らなくちゃいけないの」
声が震えるのを、必死にこらえているのがわかった。言い終えたあと、そっと下唇を噛み、それからまた離す。口元が、ほんの少しだけ持ち上がった。
その無理にこしらえた弧、結び直すことのできなかった髪。
私は一瞬、頭のなかがぼうっとなった。目の前の姿を見つめ、風のなかで乱れるその髪を見つめ、脳裏にあったすべての思いが風にずたずたに引き裂かれ、あたり一面に散らばっていくのを見ていた。
野原は静かだった。
遠くの歌はもうやんでいる。残っているのは風の音と、私たちのあいだでゆっくりと遅くなっていく呼吸の音だけだった。




