風に乗せて歌おう 6
翌日の酒場。サシスがぽつりぽつりと入ってくる客を相手にするなか、私は馬小屋の水桶に水を足し終え、外から戻った。まだ鼻の奥にこびりついている馬糞の臭いよりも、いつの間にか腰を下ろしている招かれざる客の姿のほうが、よほど胸をむかつかせた。
サンデル——彼は隣の、髭面の男と何やら話し込んでいる。
ここで働いていれば、いつかまた顔を合わせるだろうとはわかっていたが、いざこうして目の当たりにすると、なんとも言えない気分になるものだ。
幸い、サンデルは私が入ってきたことに気づくと、ちらりと一瞥しただけで、すぐに話を戻した。
私はカウンターに戻り、雑巾を手に取って、隅の卓の片付けに取りかかった。
どの卓もそれぞれの物語を語っている。さっき通りすがりに聞こえた話では、どこぞでまた人が死に、体を何か所も刺されていたという。かと思えば、別の卓はいつもの世間話と愚痴に移っていく……
「あの爺さん、昨日もまた骨をたくさん抱えて工房まで行ったんだぜ」と、バンデリが不満げに賽を卓に投げつけた。「あの臭いときたら、半通り離れてもわかるくらいなのに、よりにもよって人混みの中に突っ込んでいくんだ」
ふと耳に入ったその言葉に、私は一瞬手を止め、拭く動きが鈍くなった。
「あの間抜けな孫娘が手伝わなきゃ、爺さん一人じゃとても無理だろ」と、向かいに座る男が銅貨を指で弄びながら、真剣に考えるふうを装って言った。「でも、馬鹿って臭いもわからないのかね?あの子、牛の腐った足の骨を抱えたまま、平気でずっと歩いてるんだぜ」
疑わしそうな顔は、言い終えたあとで、そっと笑みに変わった。
私は手を完全に止めた。昨日、カレンの姿を見かけずに一人で帰る途中、マーガレットに会ったときのことを思い出す。大方、その用事で手が離せなかったのだろう。
酒を注いでいたサシスは、それを聞くと急に興味をそそられたようだった。
「え?」
「前、何度か表で見かけたことがあるんだよ、あの馬鹿」と、男は声を潜め、指でこめかみを指しながら、大げさな顔を作った。「聞くところじゃ、小せえ頃に熱を出して、頭をやられたらしい。まともに喋れもしねえって。お前んとこに子どもがいても、近づけさせんなよ。うつるかもしれねえからな」
相手はそう言われて、少し後ずさりしたようだった。
「そう言われると思い出した」と、彼は自分の頬を撫でながら言った。「ここに傷のあるやつだろ?この前……あいつが表の戸口のそばに、ずっとしゃがみ込んで、死んだ鼠をじっと見てたんだ。まともな人間があんなことするか?」
サシスが空の酒杯を手に取った。
「ほんとかよ。クローズ、お前は見たか?」
卓を拭いていた手が止まった。雑巾のしみが木の上でじわりと広がり、それはまるで汚れが広がっていくようだった。
「……どうだろうな」
声はひどくかすれていて、ずっと遠くから届くようにしか聞こえない。サシスはちらりと私を見たが、またうつむいて酒杯を弄びはじめ、何かおかしいとは気づかなかった。
思い出すのは、カレンが酒場の外にしゃがみ込んで、蟻が引っ越すのをずっと見ていたことだ。陽の光があの子の影を長く伸ばし、あの子は蟻たちがせわしなく出入りするのをじっと数えている。口元には、私の知らない笑みが浮かんでいた。
彼らが話していることと、私が見たのは、まるで別人のようだった。
「俺はあの子を知ってる」
口をついて出た言葉に、私自身がいちばん驚いた。
立ち去ろうとしていたサシスがこちらを見る。
「あの子はただ……蟻でも見てたんだろう」
サシスはそれを聞くと肩をすくめ、急に興味を失くしたように、「へえ」と言って離れていった。
彼らの口からなんとなく吐き出された言葉は、ただの話の種でしかなく、真実ではなかった。だから誰も、どうだってかまわない。
まるでこの前、教会が唱えた弔いの詞のように。大方の者は、誰のことを言っているのかさえ知らなかったのではないか。
彼らの「冗談話」は、いつまでも耳の奥から離れなかった。私はため息をついたが、どこから湧いてきたのか、苛立ちはちっとも鎮まらなかった。
洗っていた雑巾を水桶に浸し戻す。水面が揺れて、ぼやけた自分の顔が映った。私はその顔を、さざ波が砕くまでじっと見つめた。
「頭が良くないからって、うつりはしないだろう。それにあの日は、ただ蟻を見ていただけだ」
声はさほど大きくはなかったが、ちょうど噂していた数人の耳には届いた。
「ああ……あ、そうか?」
一人がやや動揺し、最初に鼠を見たと言った男は、私の言葉など気にも留めず、きっぱりと言った。
「お前の勘違いだ。鼠を見てたんだよ」
「何の鼠だ?どこかでまた疫病でも出たのか?」別の卓の男が、難しい顔をして首を突っ込んできた。
「疫病なんかじゃねえよ。ただの餓鬼が、死んだ鼠をじっと見てるって話だ」
「気持ち悪いな。そんな奴もいるのかよ」
私は、周囲でふくれあがっていく言葉を聞いているうちに、記憶が書き換えられるかのように、遠くからカレンがそこにしゃがんでいる光景がちらつくのを感じた。あの子が見つめていた場所を必死に思い出すと、たしかにそこには名状しがたい、黒い塊があった。
手にした雑巾から水が絞り出された。
「あの子は」私は一瞬間を置き、声を少し張った。「あの子はただ、俺を待っていたんだ」
皆がぱたりと静まり、視線がここに集まっているのに気づいたが、私は声を半音ほど落としただけだった。
「蟻を見ていただけだ」
数人は一瞬沈黙した。言い出した男も少し間を置き、酒杯を握る手が急に強ばった。不愉快そうに顔を横へそらす。
「なんだ、お前は皆が見たのは嘘で、お前の言うことだけが本当だってのか?」
サンデルが、例の持ち前の笑みを浮かべた。まるで急に面白くなったとでも言いたげに。
私は冷たい目で彼を見据えた。
さっきの言葉が、サンデルにただの見物料を渡すようなものだと、わかっていた。だが、後悔はなかった。
「あの人たちが間違ってるとは言ってない。俺はただ、俺が信じているもの、俺が見たものを言っただけだ。それが本当か嘘かなんて、皆さんにとって——どうでもいいことでしょう」
サンデルは私の答えを聞くと、満足そうに酒をあおりはじめた。
彼はそれ以上、口を出さなかった。
「ああもう、クローズ、なんだってそんな言い方をするんだ。皆、話して楽しんでただけじゃないか」
バンデリが皆の間で手を振り回し、気まずさを掃き出そうとするかのように言った。
「そうさ。ほんとに知り合いなら、あとで顔を見に行ったって、何も減りゃしねえだろう」
「もともと骨ばかりで、痩せっぽっちなのに」と一人が冗談めかして言った。
皆がその一言に大声で笑い、場の空気は一気にゆるんだ。サンデルにいたっては手を叩き、その台詞に喝采を送ろうとさえしている。
呼吸がゆっくりと深くなっていく。私はその言い出した男を、睨みつけた。
口を開こうとしたその瞬間、サシスが遮った。
彼は私を見つめ、何かを伝えようとする目をしていた。
「なあ、そういう言い方はないだろう。クローズとあの子は仲がいいんだ。あの子をかばったからって、皆もそう怒るなよ。話は話、酒は酒だ」
「クローズがそんな気性だったか?いやあ、ずっと見くびってたな」
古くからの常連が、手にした鍬を戸口に立てかけながら、空いた席を探して言った。
「前は自分だって、そこで一緒になって言ってたのに、今じゃ俺たちを責めるのか。なんだったかなあ、人は変わる生き物だってな」
私は言い返さなかった。彼のその言葉だけは、さっきの話のなかで、めずらしく真実だったからだ。
サンデルはまるでそれを味わうように、突然、隣の男の耳に顔を寄せて、何かを囁いた。
男はいきなり卓を叩いて立ち上がった。
「そうだ。なんでだよ。なあ、今度はお前が被害者だからって、急に気にし始めたのか?クローズ、きれいごと言うんじゃねえよ」
皆の不満の声は、この一言で火がついたように、あちこちで低くうねりはじめた。
「もういいだろ、もういいだろ」
バンデリがまだ私のために取りなしてくれていたが、周りがそれを受け入れないのは明らかだった。
先ほどまでの苛立ちは、まるで水を打たれたように、すっかり力をなくした。
カレンの話は偽りだと、私は知っている。私の話は真実だと、それも知っている。
ちょうどそのとき、店主が外から戻ってきた。彼は戸口の外で足を止め、横を見てから、こくりと頷いた。そして足早に厨房へ入ると、すぐに首だけを覗かせた。
「クローズ、クローズ、行って、ナドルドに伝えてくれ」彼は少し考えてから言った。「そうだな……三百ポンドの麦芽を届けてくれと、そう言え」
皆は店主の急かす声に遮られた。
周りが一気に静まりかえる。隣のサンデルは、先ほどのことは何もなかったかのように、すでに連れと陽気に笑い合っていた。
「早く行け!」
店主が大きな声で急かす。
肩をすくめたサシスの顔をちらりと見て、もう逃げられないと悟った。
私は皆の視線のなかを出ていった。二歩ほど歩いたところで、誰かが咳を一つし、酒杯を持ち上げ、また置いた。それから全員が申し合わせたように同時に口を開き、さっきよりもずっと大きな声で話し始めた。
外に出る間際にも、あの男が隣の者にひそひそと何か言っているのが聞こえた。大方、私の口の利き方がなっていないとか、ちょっとした冗談で話をしていただけなのに、わかっていないんじゃないかとか……そんなところだろう。
私は、さっきの言葉に少しも傷ついてなどいないと思っていた。他人の非難など、平然と受け止められるつもりでいた。
ところが、外に出たとたん、どれほどここに立っていたのかわからないマーガレットと目が合ったとき、心臓が大きく跳ね上がった。
頭の中が真っ白になり、自分の見苦しさが一気にあらわになったような気がした。
マーガレットはどうしていいかわからず、視線をさまよわせている。
「ご……ごめんなさい。わざと盗み聞きしようとしたわけじゃないの。私……」
私はその言葉を最後まで聞かなかった。ただ「大丈夫だ」とだけ絞り出し、その場から早足で逃げた。
マーガレットはもう何も言わず、ただ追いかけてきて、私の後ろをついてきた。
静かに、そして、とても用心深く。
いくつの通りを過ぎたかわからない。一度、また一度と、私は横目で確かめようとした。けれど結局、あの一歩を踏み出すことはできなかった。
マーガレットが何度そうしようとしたのかはわからない。だが、ついにその手が私の手をぐっと掴み、その場に引き留めた。
あの人は、私よりもずっと勇気がある。
立ち止まった私たちは、どちらも口を開かなかった。互いに言いたいことがあるとわかっていても。
掴まれた手のひらから、かすかな体温が伝わってくる。私たちの呼吸に合わせて、それが波打っているように。
マーガレットは慎重に、手を引いた。
そのかすかな温もりごと。
指先をゆっくりともみ合わせ、そこに残ったぬくもりを確かめるようでもあり、何度も躊躇した勇気を、もう一度手繰り寄せているようにも見えた。
「何を言えば、少しだけ信じてもらえるんだろう」マーガレットは真っ直ぐに私の目を見つめた。「たぶん、何を言っても、あなたをうんざりさせるだけかもしれない。でも、私は、何もしないままじゃいたくない。私は」
そして一瞬言葉を詰まらせた。さっきまで絞り出した勇気が、私の沈黙のなかで尽きてしまったかのように、続けることができなかった。
こんな私を知れば、去ってしまうだろうと思っていた。だが、去ったのはマーガレットではなかった。去ったのは私だ。逃げていたのは、私だった。
呼吸が速まっているのに、息のできない実感だけが、どんどんはっきりと胸を圧迫してくる。
私はなんとか視線を向け、その表情をはっきりと見ようと試みた。
しかし、視線がぶつかった瞬間、また無意識に逸らしてしまった。けれど、それはほんの一瞬だったが、初めてこんなにはっきりと見た。一筋に束ねられた長い髪が肩の後ろに垂れ、柔らかな光に当たった半面は蜂蜜のように輝き、影に沈んだもう半面は、ただのくすんだ茶色に沈んでいた。
「これで幻滅して、あなたが去ってしまうかもしれない」
マーガレットは、一秒でも返事が遅れれば、言葉の重みが失われてしまうとでも言いたげに、私が言い終わるか終わらないかのうちに、口を開いていた。
「私は去ったりしない。話してくれていい」
慎重に窺うように向けた私の視線は、ちょうど彼女とぶつかった。でも今度は、もう逸らさなかった。
「そんな顔、あなたのする顔じゃない」
「あなたのする顔でもない」
ふいに力が抜けるような感覚が込み上げてきて、その言葉を聞いた私の口からは、ほとんど無意識に言葉がこぼれていた。
声はかすれて判別できないほどだったが、相手にはきっと届いた。
なぜなら、私には見えたからだ。マーガレットの手が、はっと震えたのが。そしてすぐに、その手を背中の後ろに隠したのが。
「彼らがあなたをどう見ているか、私には関係ない。私が自分で感じたものだけを信じる」
「真実も嘘もないようなことを、いったい誰が気にするっていうんだ」
私は声をひどく低くして、震えを背後に流れる雑音のなかに隠した。
私の言葉を聞くと、うつむいていたマーガレットは、ぎゅっとスカートの端を握りしめた。
「私は気にする。クローズ、私は気にするの」「誰かをよく知らない人にとっては、大勢の人が言うことが、そのままそうだってことになる。だって、自分には影響がないから」声は早口だった。まるで何かを吐き出すように。「だから真実なんて、彼らにはどうでもよくて、むしろ大勢の言うことが真実になるんだ。でも、私の場合は、たまたま、私……」
マーガレットは少し迷って、それ以上は続けなかった。
その瞳の奥を一瞬よぎった悲しみを、口元をほんの少し持ち上げて、すぐに覆い隠した。
そして、苦笑いを私に向けている。
おそらくは、母親のことで、周囲からはあの酔っ払いの口にしたとおりの目で見られてきたのだろう。だからこそ、そういうことに、これほどまでに敏感なのかもしれない。
ずっと遠くに立っていると思っていた人が、気がつくと、とても近くに引き寄せられていた。
私は口を開きかけた。声はずっと遠くから漂い出てくるようだった。
この急激な距離感の縮まり方が、どこか現実味を失わせ、まるで頼りない夢に包まれているかのような、ふわふわとした心地にさせる。
私はマーガレットにたくさんのことを話したように思う。まるで過去に埋めたものを、もう一度掘り返すように。けれど、その具体的な言葉の一つひとつは、記憶のなかに確かな痕跡を残していない。
ただ動いていると感じられたのは、周りの色彩が次第に深みを増していくことと、ゆっくりと背後へ押し流されていく街並みだけだった。
マーガレットにジェスのことを話したようだ。まだ話していないことも、多々あったけれど。
小道を歩きながら、私はもっと心が軽くなり、何かから解放されたような喜びを感じるだろうと思っていた。だが、速くも遅くもならない心臓の鼓動は、ただ晩鐘のように、いつもと変わらず打ち鳴らされているだけだった。そのゴーン、ゴーンという音は、余分な波紋を一つも広げなかった。
私が話し終えるまで、彼女は一言も発しなかった。あの人がそう言ったとおりに、ただ静かに、耳を傾けてくれていた。
唇がかすかに開くのを見て、私はそこから慰めの言葉が出てくるものと思った。
「あなたは、ずっと……自分が彼らを、ああしてしまったと思っているのね、そうでしょう?」
その言葉に、私は一瞬にして、またふわふわとした夢から引き戻された。
「なぜ、そう思うんだ?」
マーガレットは黙って、考えている。
「私もときどき、考えるの。もし母が私を産まなければ、皆、もう少し楽だったのかもしれないって」
その、落ち着く先のない視線の下で、浮かべた苦笑いに、
私のざわついた心臓は、いつまでもしっかりと着地することができなかった。
ふう……
これほど長く歩いてきた道なのに、なぜか今日は、歩けば歩くほど長く感じられた。
やがて通りの終わりに近づき、周囲に人の声が少しずつ増えてくる。
マーガレットはそれ以上何も言わず、ただその場で少し立ち止まった。
そして、私に別れを告げた。
この章を書き終えて、私自身もいろいろと考えてしまいました。
クローズが酒場で意を決してカレンをかばい、普段は深く隠していた自分の最も柔らかい部分を皆の前で晒してしまった。あの時は自分でも平気で乗り切れると思っていたのに、店を出た瞬間にマーガレットと目が合った途端、完全に動揺してしまったのです。
彼がマーガレットをあそこまで気にするのは、恋心や感謝からだけではありません。マーガレットは、この町で初めて、クローズの全ての汚れや弱さを見透かしながらも、「自分が感じたことを信じる」と言い、離れずにいてくれる人だったからです。マーガレット自身も「存在するだけで負担になる」という影を背負いながら、それでも冷たくも麻痺もせず、彼の痛みを静かに受け止めてくれます。マーガレットの「あたしは気にかける」という一言が、クローズのすでにボロボロの殻に亀裂を入れるのに十分でした。
逃げ出したあの瞬間こそ、彼が最も脆くなっていた時——マーガレットに自分の全てを見られて、結局は他の人と同じように去ってしまうのではないかと、怖くなったのです。だからこそ、この「気にかける」気持ちは特別に重いのでしょう。




