風に乗せて歌おう 1
ふう……
いつの年の秋だったか、家から逃げ出した私は、エルデムの街をさまよっていた。ぼんやりと覚えているのは、もう三日か四日は経っていたということくらいだ。通りに一面の落ち葉はなく、道幅こそ広くはなかったが、ブレアの町よりずっと清潔だった。青石板を敷いた大通りは、行き交う人々の足に磨かれて、すこし滑らかになっていた。石の隙間には、車輪が揺れた拍子にこぼれた穀物の屑が詰まっている。
たぶん、あまりにも腹が空いていたせいで、あの匂いだけは妙に心に残っている。
ほのかに漂う、穀物の香り……
空腹で頭がぼうっとしていた私が何を考えていたのか、今となっては思い出せない。でも、あの状態で考えられることといえば、何かを口にしたいということだけだったのだろう。
だからこそ、行き交う人だかりが果物屋の前に群がった隙に、私は痛みかけた果物を一つ、手に取ったのだ。
駄目もとで、傷んだものを取ったのかもしれない。見つかっても、まだ言い訳の余地があるように。けれど今になって思えば、あの歳で、あの状態の私に、そんな計算ができたとは思えない。盗もうとしたのは、生き延びるための本能。傷んだものを選んだのは、あのちっぽけで、存在してはいけないはずの道徳心だったのだろうか。
傷んだものは、誰もいらないもの。だからそれは盗みじゃない。悪いことじゃない——
人間とは、昔から妙なものだと思う。他人の考えなど見えるはずもないのに、やけにそれを気にする。自分が納得すれば、今の自分にとってそれは正しいはずなのに、なぜそれで苦しむのか。
ただ、あの頃の私が何より悔やんだのは、必死に路地をいくつも走り抜けたのに、一口も口にできないまま商人に捕まって、殴られたことだ。
走りながら食べればよかった。あのとき喉を通ったのが、よだれじゃなくて、甘酸っぱい果汁だったらよかったのに、と。
体を丸めて荒く息をしながら、全身の痛みは空腹でかき消されるどころか、それと一緒になって、精神と肉体の両方をじわじわと壊していった。
商人が立ち去ったのを感じ取ると、私は体を横に向け、さっき踏み潰された残り滓をかき集めて口に放り込み、目を閉じて、地面に横たわったまま、その甘酸っぱさをゆっくりと味わった。
その後は……エルデムに仕入れに来ていたロードに拾われたのだ。
今でもぼんやり覚えているのは、うつろな意識のなかで聞こえた、ロードと商人の会話だ。
「こりゃあ、ずいぶんひどくやったな。まだ子どもじゃないか」
「なに? 泥棒に同情しろってのか」と商人は吐き捨てた。
反論したかったが、体にも心にも、もうそんな力は残っていなかった。
あとになって初めて知った。あそこまで腐った果物はたいてい畑に捨てられるものだ。少しだけ腐った部分を切り落とした果物こそ、貧しい者たちに売られるものだ。でも、たとえ傷一つないものでも、馬車で通りかかる貴族にとっては、ただの捨て駒にすぎない。
そうした富の差に、私はどうすればいいかわからなくなった。肉親から押しつけられた「生き続けろ」という呪いは、おそらくあの頃から、静かに芽を吹き始めていたのだろう。
規則は私に「盗むな」と言う。けれど、「なぜ彼らは生まれた瞬間から合法的にそれを所有し、そのあとも合法的に奪い続けられるのか」を、その規則は説明できない。だとしたら、規則を破ることこそ、私にとっては一つの卑小な正義だったのかもしれない。
それから何日か経ち、私はロードとともにブレアの町へ帰る荷馬車に揺られていた。柔らかな藁は夕日のぬくもりに温められて、格別に心地よかった。車輪がゴトゴトと回る音。ロードが口ずさむ鼻唄を聞いているうちに、私はいつしか眠りに落ちていった。




