幸福を捕らえる代償 15
雨は絹糸のように通りへと降り注ぎ、水たまりに立つ漣の音だけが、この暗がりの唯一の白い雑音だった。やがて雨脚が強まり、サンデルの歩みがふと止まった。古びた軒の下に、身を寄せる。
「ずっと後ろをつけてくるなんて、まさか、散歩ってわけじゃないんだろう?」
彼のその一言が、私が影のなかに隠してきた躊躇いを、ぐさりと突き刺した。私は深く息を吸い込むと、壁ぎわの闇から足を踏み出した。
暗い通りにはほとんど灯りがなく、ただ空の果てからこぼれたわずかな月明かりだけが、どうにか人影をぼんやりと引き伸ばしている。
サンデルは目を細め、そのかすかな光だけを頼りに、私の姿を確かめていた。私だとわかった瞬間、それまで張り詰めていた肩の線が、ふっと緩んだ。強盗に備えていたような真剣な顔が、あの軽薄で、どこか揶揄うような笑みに、あっという間に入れ替わる。
私は、影のなかで手をぎゅっと握りしめた。呼吸を整えてから、ここまでの道すがら考え抜いた台詞を口に出す。
声はひどく低く、けれどはっきりと響いた。
「がっかりしたか、俺だと」
彼は腰をかがめ、ぞんざいに服についた雨をはたいた。
「つまらなさ具合で言えば、そうだな」
そう言ってすぐに背を向け、まるで私など取るに足らない通行人でしかないかのように立ち去ろうとした。
「ジェスの控えの割符、俺が拾ったんだ」
私はわざとゆっくりと、そう言葉を継いだ。彼が背を向けようとする、その顔に、何かほころびが見えないかと。
「何の控えだ?」
彼の足が、ほんの一瞬、止まった。その間は、ほとんど気づかれないほど短く、次の瞬間にはもう、あのいつもの気のない笑みを顔に戻していた。けれど、それがわざとらしい無関心であればあるほど、私は胸の内で、自分の読みが当たっていることを確信していた。
私はすぐには返さず、たださらに言葉の速度を落とし、波一つ立たせない静かな声で、少しずつ主導権を手繰り寄せていった。
「これなら、つまらなくはないだろう」
彼は笑いながら、ゆっくりと頷いた。けれどその目は、見えにくい探りを隠している。
「前より、だいぶ話が面白くなったじゃねえか。てっきり、このあいだのことをまだ根に持ってるんだと思ってたぜ」
私は黙り込んだ。その、暗黙の肯定のように映った沈黙は、彼にこちらの状態を誤って読ませるためのものだけではなかった。たしかに、彼のその言葉に、私は少しばかり気まずさを覚えてもいたのだ。
「ジェスの税、お前、一度どころじゃなく取ったんだろう」
てっきりこの言葉が、彼の何かを動かすだろうと思っていた。けれど彼の落ち着きは、私の予想をはるかに超えていた。まるで、話に出されたのは、自分にはまるで関係のない小さなことであるかのように。
「冗談かよ」彼は鼻で笑い、両手を軽く広げた。その口調には、わざとらしい無垢ささえ滲んでいる。「税は財務署と突き合わせるんだ。俺はただの、使い走りだぜ。好き勝手に農民を困らせることなんてできやしねえよ」
彼のその否定こそが、まさに私の狙いどおりだった。私は彼が言い終わるのを待たず、わざと声を張って、彼の言葉を遮った。その声は、雨音のなかにあっても、やけにはっきりと響く。
「言ったはずだ。初めの控えを、俺が拾ったんだと」
これ以上、彼に考えたり言い返したりする時間を与えるつもりはなかった。私はさきほど、あの修道士の口から得た情報を、そのまま彼にぶつける。
「お前、今日、酒場に来ただろう。それも、ついさっきのことだ」
彼の目に、ほんの一瞬、鋭い光がよぎった。私を走り抜けたその視線には、まだ何かを探ろうとする色がある。
「酒場でお前の顔なんざ、見てねえが」
彼の声は相変わらず落ち着いていた。けれど、語尾にほんの少し、緊張が混ざったのを、私は聞き逃さなかった。
「だからだ。俺が後から行ったときに、あそこに落ちていた控えを拾ったんだよ」
私はごく早く、まるで事実をそのまま述べているだけのような、そんな自然な声音で返した。
彼は黙り込んだ。指先が知らず、腰の布袋へと伸びかける。けれど、あと少しで袋の口に触れようかというところで、その手はぴたりと止まった。しばし迷うようにしてから、結局、ゆっくりと引っ込められる。
私はわかっていた。もう疑いの種は、彼の胸のなかで芽を吹き始めている。ならば、ここが賭け時だ――そして私の賭け札は、サンデルのあの用心深さだった。
彼にとっては、その袋のなかに控えがあろうとなかろうと、私の目の前でそれを開いて確かめた瞬間に、もう負けなのだ。そして、彼のあの慎重さが、自分からそんな不利な立場に立つことを、決して許しはしない。
「自分で袋を開けて、確かめてみたらどうだ」
私はそう言いながら、ゆっくりと背後の土塀へもたれかかった。腕を持ち上げて筋肉をほぐす、その仕種の陰に、声の震えがもたらす不自然さを、どうにか隠した。
「存在しもしねえものを、てめえに証明してやる義理はねえだろう。それに、もしお前の言うことが本当だとしても、何の意味がある。あの貴族様たちにとっちゃ、金さえ減ってなければ、それでいいんだ」
彼が一歩引いた、その仮定こそが、揺らいだ心の隙間だった。だが、まさかここまで来てもまだ探りを入れてくるとは思わなかった――もし彼を、この駆け引きの場に完全に引きずり込めなければ、対等に駆け引きをすることなどできない。
「黙認されてるってだけで、それをさらけ出していいことにはならねえ」
私は彼の短い沈黙に乗じて、半歩だけ前に出た。声をさらに低く落とし、雨音のなかに紛れ込ませる。
「証拠が差し出されれば、これまでの推測は確信に変わる。誰も、次は自分の番になりたくはない。もし税の取り立てに差し障りが出るとなれば、領主も教会も、死人が一人増えるくらい、厭いはしないさ」
彼は思いがけず大笑いし、その笑い声はがらんとした雨の巷に谺した。彼はじっと私を見据えている。ほんの一瞬のそのあいだにも、私はさっきの自分の一言一句を、頭のなかで何度も繰り返しなぞっていた――どこかにほころびはなかったか。
「何、いい人ぶってやがる」次の瞬間、サンデルは顔色を陰らせ、その声には蔑みがありありと滲んでいた。
その言葉に、私の背筋はひやりと冷えた。もし彼がこちらのほころびを見つけただけなら、こんなふうに態度を豹変させるはずはない――そういうときは、もっと見下すような嘲笑が先に立つはずだ。
もし私のこの脅しを、ただジェスのために税を取り返そうとしているだけだと思っているのなら……いや、彼は、私がジェスとそこまで関わっていることを知らないはずだ。
呼吸が少し速くなる。まるで雨のなかの水霧まで、一緒に肺へ吸い込んでしまったかのように。その一息一息が、ひやりと冷たかった。
どう答えればいい。
わずかに流した横目が、ちょうど私の表情をうかがう、彼の視線とかち合った。
これもまた、探りなのだ。
私の返答はそのまま、私が思う「真実」を彼に教えることになる。
サンデルという男、ほんとうにしぶとい。
「自分をいい人だなんて思ったことはない。それとも――お前には、俺がそう見えるのか」
私は淡々と口を開き、それからわずかに逸らしていた視線を、まっすぐに彼へと向けた。
彼はしばらく黙り込み、まるで私の目の奥に、何かを探るようにしていた。それが、ふいにまた、あの狡猾な笑顔に変わる。
「最初の言葉を取り消すぜ、クローズ」彼は一拍置き、声にいくぶんの面白がるような響きを含ませた。「お前、たしかに面白いよ」
この、つかみどころのない態度の変化には、まだ胸の底が落ち着かなかった。
こいつは、いったい何を考えているんだ。
「贖罪券、まだ手放してないんだろう」
もし私が彼に税を取り返そうとすれば、ジェスまでも道連れにしかねないし、いまのこのわずかな優位さえも、すべてを失ってしまうだろう。
私の持ちかけた取引を聞いて、彼は笑っているのかいないのか、そんな顔で私を見た。
「どうした、まだ俺に食わされたことを忘らんねえのか」
あからさまに、わざとらしく見せつけるその迷いを見ながら、全部を取り返すことができないことくらい、もちろんわかっていた。けれど、最初から半分だけを求めることが、かえって彼の疑いを招くのも怖かった。
「断るのも、お前の勝手だ」
私はまるで気にしていないふうを装った。けれど、視線だけは彼の手から離さず、贖罪券を取り出す仕種が少しでもないかと、じっと見据えていた。
彼はぷっと吹き出し、雨もかまわずに向こうから歩み寄ってくる。その声の、揶揄うような調子が、より濃くなった。
「相談に乗ってもいいと思ってるんだがね。なにせ、これでもう、お前が俺に売ったときより、何倍にも値を上げてるんでな」
私は胸の奥の高ぶりを必死に押し隠し、わざと視線を逸らして、考え込むふりをした。なかなか返事をしないのは、こちらの言葉に疑いを持たせないためだ。
「じゃあ……半分でいい。いまの相場なら、それでもかなりの儲けになるはずだ」
彼はじっと私を見据え、すぐには口を開かなかった。雨が庇を伝って打ちつけ、私たちの足元にひとしきり水しぶきを跳ね上げる。それはまるで、無数の秒読みのようにも見えた。
「いいぜ」
彼はあの、人を苛立たせるような笑みを浮かべ、腕を持ち上げてふところから贖罪券を取り出すと、指先で数え、その半分を私の前に差し出した。
私がそれを受け取ろうとした、そのとき、彼は急に私の手首をがっしりと掴み、離さなかった。
「控えは」
私は胸の内でどきりとした。けれど、彼の目からは逃げなかった。
なぜなら、私はその控えを、本当には持っていない。こんな相手に、もしそれをちらつかせれば、確かめてからでなければ贖罪券を渡すまいとするだろう。そして、それを延ばすことなど、私にはできない。あの控えは、たしかに彼の布袋のなかにあるのだから。
だからこの返答こそが、私の最後の探りだった。
「控え?」私はわざとゆっくりと言った。「お前が言ったんじゃないか。そんなものは、存在しないって」
彼の指が、一瞬、固くなった。
雨はまだ降り続いている。私たちは動かなかった。雨音が会話の代わりとなり、この通りの主旋律となって、静寂が人を押し潰しそうにのしかかる。
このまま膠着するのが、私にとって不利だということは、よくわかっていた。一秒でも長引けば、彼がそのうちに頭を冷やしてしまうかもしれない。けれど、主導権を明け渡す気はなかった。
「それとも、あってほしいのか、そんなもの」
彼の目が、一瞬で複雑な色を帯びた。視線が私の顔のうえを幾度も走り、まるで私の真意を量りかねているようでもあり、あるいは、この言葉の裏に隠された意味を探っているようでもあった。
「ああ、たしかに、そんなものはねえな」
彼は、私の投げた問いを探るように、そう返した。
けれど、私はもう、これ以上彼に隙を与えるつもりはなかった。彼が言い終えるより早く、言葉を遮った。
「明日、それを俺が持って行く」
もともとは、この不意の転換で彼の思考をかき乱すつもりだった。けれど、思いがけず、これにも彼はまるで動じなかった。
「なら、俺たちの取引は、明日まで続きだな」
もしも連続で攻め立てても彼が揺るがないのなら、もうこれ以上は引っ張れない。私はすぐにふところから金袋を取り出し、それを彼の前に差し出した――なかには、店主からもらった金と、自分で貯めていたわずかな端金が入っている。
「相場どおりに、先に金を渡しておく」
サンデルは私を見つめたまま、その目が、少しずつ変わっていく――怒りでも、慌てでもない。それは、何か……私にはうまく言い表せないものだった。
あるいは、最後に見せたこの焦りが、うっかり綻びを見せてしまったのかもしれない。
万事がこれで決したと思った、そのとき、彼は手を伸ばし、贖罪券を私の手のひらに、ぽんと打ちつけた。
「取引成立だ」
背筋を、冷たいものが這い上がる。それが雨の冷たさなのか、それとも彼の言葉の奥に潜むもののせいなのかは、わからなかった。
「じゃあ、明日、酒場でその品を渡す」
彼はくるりと背を向け、控えを入れた布袋を腰に、ぽんと叩いた。その声が、雨音のなかでやけにはっきりと響く。
「品はもう、受け取った。俺たちの取引は、これで終わりだ」
そう言い残して、彼は雨のなかへと消えていった。
私はそれを見送った。彼が去りぎわに見せた、あの奇妙な笑み。
私はその場に立ち尽くしたまま、その数枚の紙切れを握りしめていた。
ジェスのために、自分のために、喜びが込み上げてきてもよかったはずだ。けれどサンデルのその言葉が、私の顔からどうしても笑みを奪った。私たちは互いに、望んだものを手に入れたというのに……
贖罪券をしまい込もうとした、そのとき、ようやく気がついた。私の手が、ずっと震え続けていることに。




