幸福を捕らえる代償 14
教会に着く頃には、曇り空の切れ間から、最後の一筋の光が差していた。やがてそれも絶たれ、教会もまた金色の皮を剥がれ落としていく。入り口に立つ修道士が、外に出てきて雨の気配をたしかめ、あくびを一つ漏らしながら灯りをともした。
道行く人々はあわただしく家路を急ぎ、通りはまるで掃き清められたように人影が消え、あとには足が巻き上げた埃だけが残された。
私は人の目を避けて、あの大樹の下へ滑り込んだ。記憶のままに、その木を使って塔の階上へよじ登る。誰もいないのをちらりと確かめてから、なかへ飛び込んだ。着地したとたん、階下から話し声が響いてくる。私は口で息をし、必死に乱れた呼吸を整えようとした。
がらんとした階段のあいだに、声が谺している。ただでさえ息が弾み、頭のなかは真っ白で、その声が上へ向かっているのか下へ向かっているのか、どうしても判断がつかなかった。
左右を見まわしても、この塔の階段の吹き抜けには、隠れられそうな場所はどこにもない。声がだんだんはっきりと近づき、次の瞬間には、螺旋階段の向こうから誰かが現れそうだった。
私は勢いよく振り返り、窓の縁をつかんで外へと身を躍らせた。指先だけで縁にしがみつき、全身を宙に吊り下げる。位置をわずかにずらして、見つかるかもしれない指を、そっと陰のなかに隠した。
声がすぐ目の前を通り過ぎ、完全に耳から消え去るまで、そうしていた。それから、もう一度室内へと這い戻る。
壁にもたれて大きく息をつき、真っ赤になった手を握りしめるうちに、震えはようやく少しずつ治まっていった。
それから足音を忍ばせて二階へ上がった。もう時刻が時刻だから、教会のなかに残っている者は少なく、案外すんなりとあの部屋の前までたどり着けた。
扉に耳を押し当て、室内の気配をうかがう。なかよりも、自分の心臓のほうが、ずっとやかましかった。
私はゆっくりと扉を押し開き、自分の姿を闇のなかへ滑り込ませると、すぐに扉を閉めた。
箱を開けたとたん、あの目にしみるような赤い印が羊皮紙の上に並んでいる光景ばかりが頭のなかでちらつき、それにつれて呼吸もまた、せわしなくなっていった。
机のそばに跳び寄り、まだ箱があるのをたしかめてから、それを下から引きずり出した。
赤、印章——
目の前の光景に、赤い紗が一枚かぶせられたようだった。私は勢いに任せて箱を開け放った。まるで、このなかにこそ救いが詰まっているかのように。
窓の外から、雑多な人声が、できたての薄い膜のように私の耳を覆う。掃除のあとの香料の匂いが、急に鼻を突いた。
目の前のぼんやりとした赤が、やがて木箱の底の焦げ茶と白い封筒とに覆われていく。空いたほうの手が、知らず自分の髪を掻きむしっていた。腰を下ろす。心のなかで、あの一言が何度もくり返される―――こうなることは、とうにわかっていたはずだろう、と。
まだ心が追いつかないうちに、窓の外から聞き覚えのある声がして、部屋の沈黙が破られた。
私は散らばった封筒をまとめにかかった。持ち上げた拍子に、そのなかから銅貨が一枚、ころりと転がり落ちる。
その銅貨についた傷が、かすかな光の下で、やけにはっきりと浮かび上がっていた。けれどいまはそれに構っている余裕もなく、私はただ無造作に、封筒のなかへそれを戻した。
封筒をしまい、箱を閉じる。
それから壁にぴたりと身を寄せ、窓からほんの少しだけ頭を出して、その声の主を探した。
「今日の午後、西町のあの婆さんが起こした騒ぎ、あれはなかなか大事だったな。ああいう贖罪券は、やっぱり早めに手放したほうがいい」
修道士は両手を体の前で組み、ときおり背後を振り返って誰か通らないかを確かめていた。
「ああいう連中は、とかく一日じゅう、余計なことばかり騒ぎ立てるからな」
聞き慣れた声がその口からこぼれるのを、私はかすかな灯りの下で、じっと見極めようとした。
サンデルか?!
「安心しろ。ここ数日のうちに、俺がどうにか片をつける」
「俺の取り分の話だがな」
修道士は笑みを浮かべてにじり寄り、それまで組んでいた手も、落ち着きなく動き始めた。
「ああ、それはもちろんだとも」
サンデルは銀貨を何枚かつまみ出し、修道士の手に握らせた。
修道士は眉をひそめ、一瞬、陰った顔を見せたが、すぐにまた笑顔に戻った。
「こいつは、いくらなんでも、少しばかり少ないんじゃないかね」
サンデルは何かを見抜いたようだった。両の手で、修道士の手を軽く叩く。
「これはただの駄賃だよ」そう言ってから、急に真顔になった。「金に換えたぶんは、もちろんどっさり渡すさ」
「まあ、べつにそういう意味で言ったんじゃないんだがね」さっきまで笑っていた修道士の顔が、ふいに陰る。「このあいだ教会に祈りに来たとき、あの婆さんからずいぶん色々と聞かされてな。なんでも、あの家は二重に税を取られたらしいじゃないか。いやはや、心配になるねえ」
それを聞いたサンデルの表情も、ほんの一瞬だけ止まった。
「サンデル、あの割符の控えの束は、ちゃんとしまっておくんだな。もしも、妙なやつらの手にでも渡ったら……」
修道士はそれ以上は言わず、ただ冷笑だけをサンデルへの戒めにした。
だが、サンデルには何の動揺もなかった。静かな顔にはこれといった波も立たない。ただ、まるで仮面のように張りついた——あの狡猾な笑みを除けば。
「修道士様」サンデルはわざと語気を強めた。「保管はもちろん、ぬかりなくしておりますとも。それに、見渡すかぎり、ここらには文字もろくに読めない者ばかり。どこの誰の手に渡ったところで、何の役にも立ちませんよ」
修道士はサンデルを言葉でやりこめるどころか、むしろ面倒くさそうな顔になり、銀貨をしまい込むと、もう立ち去ろうとした。
「まあいい。その言葉、忘れるなよ」
修道士は背を向けざま、何かを思い出したように、もう一度こちらへ振り返った。
「サンデル、次に会うときは、そんな酒臭い恰好で来るんじゃない。むかつくからな」
そう言い捨てると、仏頂面で歩き去っていった。
修道士の姿が消えるなり、サンデルの顔色がさっと曇った。彼は修道士の去った方を睨み据え、吐き捨てるように言った。
「間抜けが」
私は階下のサンデルを見下ろしながら、先ほどまで空っぽの箱がもたらした失意が、彼らのこの言葉の応酬のなかで、すっかり食い尽くされてしまっているのに気づいた。その代わりに湧いてきたのは、冷めた思考だった。
割符の控えと副券は、木の繊維がもともとひと続きだったことを示すもので、二つに割られた符木の噛み合う断面は、それぞれ一つとして同じものはない。けれど、あの村役人にとっては、そんな決まりごとは、きっと滑稽なだけだろう。
呼吸はしだいに落ち着きを取り戻し、さっきまで縄で赤く痕のついていた手のひらが、知らず握られては、また開かれた。
誰もが心のなかではわかっている、そのまぎれもない真実が、いざ彼らの口からこぼれるのを聞くと、背筋がひやりと冷える思いだった。
いまのこの胸にあるものが、不安なのか、怒りなのか、自分でもうまく言えなかった。けれど、どちらにしても、その源にあるのはきっと、ジェスへの同情なのだろう。
私は立ち上がり、去っていくサンデルの後ろ姿を見つめた。それはまるで、元の場所へしまい戻された、あの空っぽの箱のようだった。
ジェスに枷をはめたもの。それは、あの連中の決めた規則なのかもしれない。
ずっと昔、耳にたこができるほど聞かされた、あの「生きていけ」という願いは、きっともう、とっくに異形のものへと姿を変えてしまっていたのだろう。けれど、いまの私は、それでももう少しだけ、何かをしたいと思った。私の、あの惨めな一線のために。ジェスのために。
細かな雨が、いつのまにか落ち始めていた。人影の絶えた通りに、物音一つ立てずに降りしきるそれが、この静まり返った夜を、ひときわ不気味に際立たせていく。
私は教会をあとにし、サンデルの消えた方角を辿りながら、家々の闇のなかへと身を潜めた。




