幸福を捕らえる代償 11
翌日になると、まだ外にはいくらか雨の名残が残っていたが、酒場はいつもの喧騒を取り戻していた。
隣の卓の連中が、なぜか急に殴り合いを始めた。もっとも、こんなことはべつに珍しくもない。
「どうしたんだ?」
「どうも、贖罪券のことで。このあいだ道端で売ってたやつがいただろう、お前も知ってるだろ。結構な騒ぎになってた」
「贖罪券一枚で? 冗談だろ。そんなことなら、俺が何枚か送ってやればよかった。そうすりゃ一つ恩も売れたのに」
つい口をついたその言葉に、そばにいた男の目が、はっと見開かれた。
「ほんとかよ。お前、贖罪券を持ってるのか? いまじゃ金を積んでも買えやしねえんだぞ。もし持ってるなら、高く買う!」
私の怪訝な顔を見て、彼は声を潜め、さらに続けた。
「まだ知らねえのか。教会が出す贖罪券には、数に限りがあるんだ。売り出されるやいなや、商人どもが買い占めちまって、いまじゃどこも高値で買い集めてる。しかも厄介なことに、最近になって教典が変わった。贖罪しなきゃいけない箇所が、以前よりずっと増えちまってるんだ。はあ……」
「金持ちってやつは、ほんとに罪が尽きねえのかね。まるで棺に詰めるみたいに買いやがって」
私は酒壺を手に取り、彼らの杯に酌をしてやった。
だが話はまだ終わっていなかった。私は急に、はたと気づいてしまった。
これまでの出来事が、欠けた破片のようにつなぎ合わさっていく。
教義を書き換え、必要を生み出す。贖罪券の数を絞り、値を吊り上げる。商人が買い占め、最後は高値で転がす。
そういうことだったのか。あの村役人は、おそらく前もって風向きをつかんでいたのだ。まんまとあいつに一杯食わされた。
「教義のどこが変わったんだ?」後悔に苛まれながら、私はどうにか声を絞り出した。
「いろいろあるさ。でも、なかでも一番でたらめなのが、たしか――『およそ人は、生まれ落ちしことにより償いを負う』だとか、そんなのだ」
私の手にした酒壺が、ぐっと止まった。掌に、冷や汗が一瞬でにじむ。この言葉が、何かを強く呼び覚ましていた。
……ジェス。
私は愕きを必死に押し隠し、不安のなかでなんとか休憩時間までもたせると、酒場から逃げ出した。
あれからもうずいぶん経つ。おそらく村役人は、とうに贖罪券をどこかへ転がしてしまっただろう。それでも私は、まだ淡い望みを捨てきれずにいた。
足を速め、いくつもの場所を訪ね歩いたが、村役人の姿はどこにもない。そうして散々歩き回った末、橋のたもとの商人のそばで、ようやくあの男を見つけた。
彼は歯をむき出しにして、上機嫌で商人の肩を叩いている。何やら話し込んでいるようだった。
「サンデル」
彼は会話をやめ、振り返って私を見た。
「よう、誰かと思えば。酒場の小僧じゃねえか」彼は一拍置いた。「クローズ、だろ」
私はその言葉には乗らなかった。
「この前の贖罪券だが、買い戻させてほしい。頼む」
「おうおう、贖罪券ねえ――」彼は近づいてきて、私の肩に手を置いた。鼻をつくような酸っぱい臭いが、むっと押し寄せる。けれど私は身をかわさなかった。こちらには頼みがあるのだから。
「もちろん、いいとも」彼は商人に話しかけるように言った。その大げさな表情からは、何の本心も読み取れなかった。
それでも私は、この前彼に売ったときの銀貨を取り出した。
彼はそれを手のひらに受け、私の目の前で数え始めた。「一、二、三……」
「足りねえな」
「あんたが俺にくれたのは、これで全部だ」私は声を潜め、どうにか弱みを見せることで、彼の気を変えさせようとした。
「値が上がったんだ。いまこれがどうなってるか、お前、知らねえわけじゃあるめえ」彼は銀貨を私の手のひらに、ぽんと打ちつけるように返した。
私は黙っていた。元の値で戻してくれるはずがないことくらい、わかっていたからだ。迷っているような素振りを見せながら言った。
「じゃあ、親方に掛け合って、給金を前借りしてくる。それでもう銀貨一枚、どうだ……?」
「クローズ」彼はわざと声を張り上げた。どう値切ろうかと考え続けていた私の頭は、それで一瞬、まっ白になった。
通りすがりの者が、みなこちらを見る。
「お前、自分は賢いとでも思ってるんじゃねえか」彼は私から距離を取り、まるでこちらにだけ光を当てるかのように言った。「いつも、すべてを見抜いてますって顔をしてやがる。この世の中で、自分だけがちゃんとわかってるみたいに思い上がってるのか」
周囲から突き刺さる視線に、全身がこわばった。彼の言葉に、どう応じることもできなかった。胸の奥が、ひやりと冷たくなる。見抜かれた、そんな気がしたからだ。これまで何人もの相手と交わした会話と、そのとき自分が浮かべた表情とを、頭のなかで必死に思い返せば返すほど、その一言に雁字搦めにされていくようだった。
「ほんとはな、ずっとお前のことが気に食わなかったんだよ。酒を飲みに来るたびに、俺を見下してるのが伝わってきやがる」彼は身を寄せ、私の耳元で小さく言った。
「皆を馬鹿だと思うなよ!」彼はさらに声を張り上げ、それからくるりと背を向けて言った。「もう、失せろ」そう言って、何事もなかったかのように商人との話に戻っていった。
周囲のささやきはやまなかった。けれど我に返った私には、ようやくわかっていた。あれは単に、私に売り戻す気がないからこそ、わざと仕掛けた言葉の罠なのだと。
立ち去り際、私は気づいてしまった。彼の口元に、ほんのひと筋だけ浮かんだ、あの笑みを。
心のなかで彼を呪いはしなかった。たとえそれが、自らの威を示すための方便にすぎないとわかっていても。なぜなら、私という人間は、あるいは本当に彼の言うとおりの、卑怯な人間なのかもしれなかったからだ。そのことは、否定できない。これまでずっと、自分を悪のぎりぎり手前のところに置き続けてきた。だがもし、その論理の囲いを、私自身の手で壊してしまったのだとしたら……
私はため息をついた。疑念は、もう胸のなかに種を下ろしてしまっていた。サンデルの言葉は、私を辱めることよりも、どうやってジェスと向き合えばいいのか、その道筋をいっそうわからなくさせた。
そして翌日、乱れた思考のために、私はどうしても心をひとところに留めておくことができなかった。あの家族が、あの件で苦しんでいる姿を見るのがどれほど怖くても、確かめに行かずにはいられなかった。
ジェスの家の扉を叩く。今回はジェスが自分で出てきた。かすかな蝋燭の明かりが、どうにか一人ひとりの輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。室内はしんと静まり返っていた。けれどそれよりも私を苦しめたのは、彼らが私の姿を認めると、まるでこの気まずい空気を私にうつさないようにとでもいうふうに、精一杯ほほえみを浮かべてくれたことだった。私はどうしていいかわからず、ジェスに続いて外へ出た。
「どうなんだ。あの贖罪券の話、さっき聞いたばかりなんだが」
「税のことは、ようやく片がついたばかりで、もうどこにもやり繰りできる余裕はなくてね。どうしても……」彼の声は途切れ途切れになった。「あちこちで借りるしかない」
彼が私には金の話を持ち出したくないのだとわかった。けれど彼は、やがて観念したようだった。
私はこの前、贖罪券を売ったときの銀貨を取り出した。これが、私にできるただ一つのことだった。
「これ、とりあえず受け取ってくれ。親方から、金はまた余裕ができたときにと言われてる。あんたも長い付き合いだからな」
彼は必死に、目のなかに浮かぶ涙をこらえているようだった。横を向いて、手でさっとそれを拭った。
「うちは、ずいぶんと色々してもらってばかりで、ほんとうに感謝してる。クローズ」
彼はこの金が、本当は店主から出たものではないことを、うすうす感じ取っているようだった。
「俺は……」風船から空気が抜けるみたいに、私の声はしぼんでいった。どう答えればいいのかわからない。「うん、きっと良くなる」
人が本心から向けてくるものに触れたとき、私はかえって喉を詰まらせてしまった。どう返すかは、ただもう衝動のままに口にしていた。
ジェスはまだ何かを言いたそうだった。けれど、ぐっと呑み込んだようだった。
「きっと、良くなる」
それが誰に向けられた言葉なのかは、わからなかった。
彼は私に、感謝の念を抱いてくれているのかもしれない。けれど私の心にあるのは、ただ後悔ばかりだった。
あの奇妙な教義が新たに加えられたことについて、私はどうしても思い至らずにはいられなかった。この前、あの教典に、滅茶苦茶に上書きした自分の手のことを。心のなかで何度、自分には関わりがないと言い聞かせても、不安のあまり記憶はぼやけてしまい、自分が書き換えたその内容だけが、どうしても思い出せなかった。確かだったはずの否定は、しだいに疑いへと変わっていく。もし、巻き添えになったのがジェス一家だけではなかったとしたら。もし、あれがほんとうに私のせいだとしたら……
酒場に戻った私は、何かを口にしようとした。けれど、口を開きかけただけで、喉がぎゅっと締めつけられた。大声で叫び出したいのに、悩みを打ち明けることが、これほどまでに難しいとは、そのとき初めて知った。おそらく、こんなときだけだろう。周囲が人でぎっしりと埋め尽くされているように感じるのは。おそらく、こんなときだけだろう。かすかな声さえも、全員に聞かれてしまう気がするのは。
そして周りの者たちの言葉が、繰り返し繰り返し、張り詰めた神経のなかでジェスにまつわる報せへとすり替わり、私の考える隙間を埋め尽くしていく。狭苦しい酒場は、まるで牢獄のように、私を駆り立てた。
ようやく家にたどり着き、寝台の端に寄りかかって、どさりと身を横たえる。藁の下の石が、痛いほど背中に食い込んだ。
灯心草の蝋燭のかすかな灯りが、いつのまにか部屋の闇に呑み込まれ、疲れがまぶたを押し潰していく……
あたりの光景が、幾重にも塗り重ねられた幻を一枚、また一枚と剥がし落とし、身体がまるで放り出されるようにひっくり返った。天地の逆さまになった世界は黒幕に覆われ、あの夜へと引きずり戻されていく。
「俺が言ったとおりだろ。富っつうのは、誰にとってもなくてはならないものなんだ。どれだけ高尚ぶった奴でも、金の支えがなきゃ、食うや食わずの瀬戸際になったら、この灰色の空の下で贅沢三昧に暮らしてる連中相手に、生きる権利をかけて争うことなんてできやしねえ。ましてや、優位に立ってる奴らが、お前の言う高尚なんざ、味わってくれるわけがねえ。連中は知ってるのかもしれねえが、味わう気なんてさらさらねえのさ」
向かいに座る男は、軽蔑するように笑っていた。なぜなら、私が彼から学んだ技も、知識も、この問いには何一つ答えられないと、彼自身がよく知っていたからだ。
「言い換えりゃあな、富さえ――権力さえ握れば、ルールを決める側に回れるってことだ。そうすりゃ高尚も美徳も、そいつらの匙加減一つってわけだ。俺があんまりにも権勢や富を崇拝しすぎだって思ったか? 悪いがな、ここじゃ誰だって他人より上に立ち、人を使い、誰かを踏みつけたいと思ってるんだよ。金はすなわち、生きる権利と同じじゃねえか。生き延びるためなら、金の作り方に何のためらいもいらねえ。大金を持ってるやつは、そのうちの少しくらい、気にもしやしねえんだ」
私が黙り込んでいるのを見て、彼はまるで私のすべてを見透かしたかのようだった。
「金持ちだけを狙うってのはさ、相手が貧乏なら金がねえからに決まってるじゃねえか。そんなに高尚に言うなら、娼婦だって相手は金持ちだ、それじゃあ賛美されるべき存在にでもなるのか? 結局は、てめえの私欲のためだろ。たまたま今の道徳の対極に立ってねえだけの話だ。もし今やってることをちゃんと自覚してるってんならまだしも、悪事に正義の看板をかぶせてるだけなら、そんなものはするだけ無駄だ。自分を騙せても、他人は誰も信じちゃいねえ」
彼は私の耳元に顔を寄せ、ゆっくりと言葉を区切りながら、まるで私に判決を言い渡すかのように続けた。
「いいか。相手が悪人だから、お前が盗んだんじゃねえ。たまたま盗みに入った相手が、たまたま悪人だっただけの話だ。もし金持ちが善人でも、お前は同じように盗んでた。そういうことをやってのけた時点で、お前はもう道徳の柵を飛び越えちまってるんだよ」
その言葉は、当時の私の頭のなかで、爆弾のように炸裂した。まるで一瞬にして、自分が最も嫌う人間に成り下がってしまったかのようだった。私は言い訳をし、取り繕おうとした。けれど、何を言おうとも、それをやってしまった以上、反論する資格は私から消え失せていた。
その後、私は彼と二度と顔を合わせていない。
彼はちょうどこの悪夢のように、時間のなかですり減っていった。けれど、そうなるまでに、私は正しい答えを見つけられずにいた。私は善と悪の隙間で、悪人のものを糧にして生きている。もし、いつかこの世から悪人が一人もいなくなる日が来たら――それはきっと、とても素晴らしい世界だろう。たとえ、最後に残る悪人が、この私だとしても。
最後の余韻が、空間のなかで長く谺し、私はびくりと身を震わせ、夢から抜け出した。
目を開けると、乾いた両目もかまわず、私は必死に呼吸を整えた。
ようやく少し落ち着いて窓の外を見ると、そこにはもう、翌朝の光があった。
頭がからっぽのまま、寝台の端にぐったりと座り込む。時間がただ流れていくのに身を任せていた。朝の部屋のわずかな冷気が、私の呼吸とともに全身を包み込む。じっとしていられなくなり、扉を開けた。
その、すっかり身に染みついた動作のなかに、かすかな異様な期待が混ざっている。
けれど、
あの一抹の白は、現れなかった。今日の空模様もまた……嫌になるほどの曇り空だ。
私はそっと息を吐いた。失望が連れてきた苛立ちが、このみすぼらしい家から逃げ出したい一心にさせたのかもしれない。手早く身支度を整え、外に出た。勢いよく扉を閉めようとしたが、すべての力が抜けてしまったみたいに、うまく力が入らなかった。
たぶん、もう、来ないだろう。
それでもまだどこかで期待している私は、門の外でしばらく足を止めていた。今にも、聞き慣れた挨拶が聞こえてきそうな気がして。なぜなら私にとって彼女は、この、歪み続け、変わり続ける世界のなかで、たった一つ先の読めるものだったからだ。
おそらく、あの白い紙のような少女の口からこぼれるものだけが、私のこの不安の寄る辺だったからだ。
けれど、残念なことに、違った。
私はみじめな思いで門の前を立ち去った。
背後で、小屋の輪郭がだんだんと長く引き伸ばされていく。朝の道も、妙に静まり返っていた。はっきりと聞こえる。あの、早鐘を打つ心臓が、ふくれあがる焦りの淵をさまよっているのが。
けれど、そう遠くへ行かないうちに、背後から駆けてくる足音が私を引き戻した。
振り返って確かめようとした。しかし、自分の胸に湧き上がった淡い望みと期待とに気づいたその瞬間、私は振り返る勇気をなくしていた。
そんなはずはない。そんなはずはない。自分にそう言い聞かせる。
後ろから私の服の裾が、きゅっと引かれた。そのとき、胸のなかの大きな石が、ようやく地面に下りた。
よかった、と思う。こんなふうに私を呼び止めるのは、あの子以外にいないのだから。
身を翻し、救いの藁にすがるみたいに、視界のなかにあの白い姿を探す。
彼女は息を切らし、名も知らぬ花を一輪、私の目の前に捧げ持っていた。裾には泥がはね、腕の擦り傷からは、目に痛いほどの赤が滲んでいる。それが金と白のなかに混ざり合い、どうしようもなく浮き立って見えた。
「おはようございます」
彼女は息を整えると、笑って言った。
私はほっと息をついた。
しゃがんで、彼女の服の裾についた泥を、そっと払ってやる。終わっても、立ち上がれなかった。
ずっと、彼女に応える勇気が出せずにいた。この、取るに足らない感謝こそが、私にとっては審判に他ならなかったからだ。
けれど、その純粋な声から、自分を偽る慰めを少しでも手に入れたくて、私は身勝手にも、そうしてきた。
ただ今回だけは、もっと貪欲でいたかった。
「君の名前は」
「カレン」
「おはよう、カレン」




