幸福を捕らえる代償 10
それからの朝も、私は変わらず扉を開けた。
一抹の白が、視界いっぱいに広がった。私が口を開くより先に、彼女のほうがもう言葉を発していた。
「おはようございます、騎士さま」
彼女は笑いながら、背中から一輪の鮮やかな花を差し出した。ほのかに、かぐわしい香りが漂う。
彼女が何度ここへ来たのか、私は数えていなかった。ただ、窓辺に花を生けた割れた壺だけが、日増しに窮屈になっていった。
もちろん、彼女の名前も、尋ねはしなかった。
今日の空模様は、どこか陰鬱だった。私はいつもどおり酒場へ着いた。たぶん天気のせいだろう、この日の店はいくぶん寂れていた。
あれからもう一週間以上になるが、ジェスはまだ一度も酒を飲みに来ていない。とはいえ、もうすぐ子どもも生まれる頃だ。さぞかし慌ただしいのだろう。
私は窓辺に座り、最後のひと筋の光が、重く垂れ込めた暗雲に食い尽くされるまでを眺めて、所在なさげにあくびを一つした。店主も奥の間から店先へ顔を出し、ちらりと外を見てから戻ってくると、卓の上を片づけたらもう上がっていい、と私に言った。
けれど、私が戸口へ向かおうとすると、呼び止めた。
「ちょっとこれを、あとでジェスのところへ届けてやってくれ」
店主は、声をできるだけ素っ気なく、なんでもないことのように装おうとした。そう言うと、すぐに背を向けて奥の間へ戻っていった。
籃の上にかかった布をめくると、なかには卵がいくつか入っていた。
曇天は、まるで呼吸でもするかのように、規則正しくうねっている。私がジェスの家に着くまでは、雨粒がほんの数滴、頭のうえに落ちてきただけだった。
「とんとん」
古びた扉をそっと叩くと、鈍くこもった音が返ってきた。
出てきたのはジェスの母親だった。枯れ枝のような脚でどうにかこの身体を支え、腰は九十度近くまで曲がっている。それでも、かすかな蝋燭の灯りの下で見る顔は、案外に穏やかだった。初めて会ったときと比べても、顔色はずっと良くなっている。
彼女は卵を受け取ると、私を家のなかへ招き入れた。ジェスの妻は寝台に腰かけ、傍らの蝋燭のほのかな明かりを頼りに、生まれてくる子の産着を縫っていた。彼女は笑顔で、卵を届けてくれた礼を言った。そして、ジェスが子どもにつけようと考えている名前の話を、私に聞かせてくれた。
「ジェニー……ですか」
二人の驚いたような表情を見て、私はしばらく考えてから、この前ジェスが酔ったときに口にした、子どもの名前のことを話した。それから、うまく父親になれるだろうかと、彼がそう言っていたことも。
私の口にする話を聞きながら、彼女たちは笑っていた。普段あんなに落ち着いているジェスにも、こんな一面があったのかと思ったのか、それとも、彼がそれほど何度も酒場へ通っていたとは思わなかったのか。あるいはその笑い声にこちらまで当てられたのかもしれない。気がつけば私は、普段よりもずっと多弁になっていた。彼女たちも私の言葉に相槌を打ち、自分の思いを返してくれる。それが、私の言葉をまた続けさせてくれる力になった。
私は蝋燭の灯りのなかに身を潜めたまま、急にこのあたたかさに戸惑いを覚えていた。家族が集うというのは、こういうものなのか。話が弾むままに、私は卓のうえにあった十字架の刻まれたパンを手に取り、それを馬車に見立てた。そして、酒場で聞いた遠い花の都の話を語り始めた。穏やかな朝風、果てなく広がる花畑に降りる朝露。それから、夕陽のなかで寄り添う恋人たち。彼らは神を信じず、芝居の登場人物のように、自由に生きているのだと。
その途中で神を信じない部分に触れたとき、はたと気づいた。ジェスの母親は信心深い信者だったはずだ。けれど彼女は、話に聞き入る嫁の顔を見つめ、微笑みながら黙って私が続けるのを許してくれていた。
「いつか行ってみたいな、家族みんなで」。ジェスの妻は優しい目で腹を撫でた。まるで、お腹のなかの子にも語りかけるように。ジェスの母親は古びた教典を脇に置き、そっとその傍らに身を寄せた。
どれほどそうしていただろう。ジェスはまだ戻らず、私は挨拶をして、その家をあとにした。
外へ出たとき、まだやまない雨の音に、不意をつかれた。さっきまで家のなかにいたときには、まったく気がつかなかったのだ。この薄い壁一枚が、内と外とをまるで別の世界のように隔てていたらしい。
あの家族は、あるいはこの前、ここを去りぎわに聞いた言葉どおり、「きっと良くなる」のかもしれない。
それなのに、そこを立ち去るとき、私の足元でぬかるむ土は、やけに重かった。




