332話:シェイラとイディオン
イディオンが、呼んでいる。
何度も何度も、シェイラの名前を繰り返している。
頬に、落ちるものを感じた。ぽたっ、ぽたっ、と恵雨が降り注ぐようなのに、それでも、シェイラはそこに手を伸ばした。
──泣かないでください。
あなたに泣かれると、わたしは、いつも困ってしまいます。
シェイラは、薄く、まぶたを開く。紫苑ザクラの香りを運んでくる風に、ほどけた銀の髪が揺れている。背に、螺鈿から移ろった花片が舞っていた。
「シェイラ……っ」
「イ、ディ……さ」
シェイラが視線を向けると、イディオンは縹の瞳から、次から次へと涙を流していた。
青年になってからはじめて見る泣き顔に、シェイラは残りの力を振り絞った。ほんとうに、わずかな力しか残っていなかった。それで、最後に祈りを伝えられたらいい。
「泣か……ない、で」
「シェイラ……!」
イディオンがシェイラの頭を引き寄せる。
抱え込まれると、針葉樹のにおいがして、どうしようもなく心地よかった。シェイラも、やっとの思いで、わずかに抱擁を返す。
「悲しま、ないで……」
「いやだ……っ、やだ、だめなんだ」
駄々っ子のような言い方にシェイラは苦笑する。
「わたしの、〈命脈〉は……もう、尽きます……」
「……いやだ」
「どう、しようもない……」
「ぼくは、まだ、約束を果たせてない! 南瓜のとろみ汁を作るって約束した……っ」
イディオンの台詞に、シェイラは顔をくしゃっとさせた。
「ごめん、なさい……守れ、なくて」
「シェイラ、なんで、……諦めないで。ぼくは……、ぼくは、ずっと──」
イディオンが泣きながら言おうとすることに、シェイラは笑う。
「ずっと……、わたしの寿命に、ふれないように……してきてくださった?」
「…………」
「なぜ……ですか?」
「あなたから、言ってほしかったんだ」
イディオンは、顔を拭った。青年の顔つきになる。
「あなたに、心から望んでほしかったんだ」
「なにを……?」
シェイラは、自分のなかに象られているものを意識する。それを取り上げようとしたところで、イディオンから手を取られた。
「ぼくが、魔法を使う理由を知っているか?」
シェイラは虚を衝かれて、ゆるゆると首を振った。
「……いいえ。教えて……くださる約束、でした」
再会の約束に、それを含ませたのは、シェイラだ。
イディオンは、シェイラの両手を取ると、覚悟を決めたようにぎゅっと力を込めた。
「──あなたの、未来を象るために」
「え……?」
「生きることを諦め、未来を諦めてしまったあなたの道を描くために、ぼくは魔法を使うと決めた。それが、ガザン老師に問われた、ぼくの答えだった」
イディオンは、つづける。
「ぼくは、それを……あなたに押しつけたくなかった。ぼくの望みだったからだ」
「…………」
「ぼくは……あなたに生きていてほしかった。あなたの未来と幸せを表象したかった。五年近く前、あなたがこれに祈りをこめてくれたように」
イディオンは、黒い手甲を見やる。
「でも、わかっていたんだ」
イディオンの目に、また涙が滲んだ。
「あなたは望んでない。生きることも、未来も望んでないと……。自分がかつて願ったことを後悔もしていなくて、殉ずる気持ちでいることを……わかっていた。だから、言いたくなかった」
かつての願い。
──ヴィクトルの隣に、ただずっといたい。
それが少女の頃の、ほんとうの願いだった。
「どうしたら、あなたが未来を考えてくれるようになるのか、生きることを望んでくれるのか……わからなかった。再会しても、わからなくて……ただ、ぼくには隣にいることしかできなくて……」
涙がまた、落っこちてくる。
「でも、隣にいたら……、ぼくはまた、ずっとあなたにいてほしくなった。ぼくの隣にずっと、いてほしくて……それで……」
イディオンはまた顔を拭った。
「これはもう、ぼくの望みでしかない」
シェイラを見つめる。
「それでも、描きたい。あなたの未来を」
「……イディ、さん」
「考えた。どうやったら、あなたの未来を……どうしたら代償を払った〈命脈〉の呪いに代わるか。あなたのかつての願いを無駄にせず、どう置き換えればいいか、考えた。どんな〈ゆえある裂け目〉があれば、表象できるか」
イディオンの視線は強かった。
「──二十年、ぼくはあなたの未来を描ける」
イディオンは、そうして腰からひとつのファル石を取った。
紅いファル石。金の光がところどころ脈打つように輝いて、透明な瑪瑙のような石だった。
「ヴィクトル王太子から預かった。シェイラに返したい、と。これで、八年」
シェイラは驚く。ヴィクトルの強い意志を感じられる輝きに、その石を見つめる。
それから、とイディオンはつづけた。
「ぼくの寿命を半分削って、十二年。足して、あなたに二十年あげられる」
「イディさん……!」
シェイラは声を上げたが、イディオンはかたく首を振った。
「どうせ、ぼくは長命だ。仮に六百年あったとしても、三百年になるだけで、大差はない。もとよりあなたに導いてもらった道だ。あなたがいないなかで、そんなに長く生きていたいとも思わない」
「です、が……!」
「聞いて、シェイラ。でも、それだけじゃ魔法を描くのに足りない。足りなかった。足りないと……ぼくは思ってしまった。あなたのかつての願いを無碍にしないためにも、この魔法を表象するためには、ひとつ、〈ゆえある裂け目〉が必要だ、と」
イディオンは、唇を噛んだ。
「──あなたは、魔法を失う」
シェイラは、はっとした。
「〈命脈〉を失う。魔法が使えなくなる。代わりに……二十年、未来を象ることができる」
イディオンは、苦痛をたえるように言って、視線を逸らす。
「でも、これは、あくまでぼくの望みなんだ。シェイラが望まなければ……、もし望まないで、このままを選ぶなら──」
「そうしたら、イディさんは……泣き、やんで、くださいますか……?」
シェイラは、吐き漏らすように尋ねた。
涙に濡らすイディオンの頬を両手で包む。
「そう……したら、あなたの、隣に……いられますか?」
イディオンの顔が歪んだ。
「ああ……」
シェイラの手に手甲が重なる。
頬が寄せられる。
「ぼくの隣は、ずっと、あなたのためにある」
シェイラは、イディオンの顔を見て、まぶたを閉じた。
「でしたら、わたしは……」
自分のなかにあるものを感じる。
シェイラは、青金色の目をゆっくりと開く。
「わたしの望みは──」




