323話:叡智の魔法(1)
イディオンは、それを見た。
シェイラの声が聞こえてきてすぐに、豪雨のような重低音が鳴響したかと思うと、周囲の〈魔導霧〉が意志を持ったように、廃城砦の上空へと渦を描いて集まっていった。戦っていた蟲の形を崩し、巻き込まれるほどのすさまじい風圧で、霧が集約していく。
……目だ。
〈魔導霧〉が空一面を覆い、その中心に大きな、台風の目がある。渦潮の中央。
その中央を縁取るように赤黒い円環が見えた。イディオンが閃光を放つ時の外周に圧縮されたような円環の陣。なかは虚空の深い闇につながる。
足が見えた。鋭い鉤爪。それから、鱗。びっしりと覆われた鱗は、すべて螺鈿できているようで、灰と霧の空で、虹のように、遊色のように、稜鏡のように輝いて見えた。
みしっと罅が入った。空が割れるようにして、円環のたわむ音がする。ほどなくして、その姿が見えた。
──天地一体を占める、巨大さ。
視界に入りきらない、巨躯。
朧の、竜。
戦場を焼き切るような咆哮が、響いた。荒れ地を抜け、山脈を越え、竜の叫び声が残響する。空からは、赤雷、紫電、青雷。落ちたそばから、地を穿つ。旋風は、蒼炎を煽ぎ、雹が落下する。大地は揺れ、割れて、隆起し、立つこともままならない震えが、軍営を襲う。恐慌は、一瞬ですべてを呑み込んだ。
イディオンは、そのさなかに、シェイラの影を見た。
上空に、薄紫の光が、ぽつんとある。鱗粉が、光の粉が舞っている。
眼球に、はじめて出会った時が思い起こされた。
──流れ星、なのだろうか。
イディオンは、高台にある欄干に座りながら見たのだ。星ノ都には、流星に祈れば、願いが叶うという言い伝えがある。ならば、イディオンの願いも叶うだろうか。
──魔法が、使えるようになりますように。
そう願えば、叶うだろうか。
追いかければ、空から優雅に、紫水の月光蛾が降りてきた。落胆はなかった。むしろ、流れ星がこの世で一番美しい生きものとなって、イディオンのもとへ降り立ってきてくれたのだ、と思った。石段に座って、揚げ麦粉焼をおいしそうに食べる姿が、眼球の奥に焼きついた。
「シェイラっ!!」
イディオンは、叫んだ。
彼女が最大の魔法を放って、墜落する姿を目にする。イディオンは{転移}した。
〜*〜
シェイラは、{朧竜}の出現とともに、またたきのうちに起きたできごとを目にした。愕然とする暇もなかった。
竜の雄叫びは、氷雷を呼び、大地を裂いた。絶命したユベック・エペストスの体は、あっという間に裂け目に喰われ、つづいて霧使いのイダ・ロータを呑み込んでしまった。叫び声もないなかで、悲鳴はべつのところから上がった。
「メリルっ!」
反応したのは、マーロ・スパンだった。
シェイラの相手をやめ、海上のようになった地の、崩れはじめる廃墟の粉塵のなかに飛び込んでいく。
絶望を喚いたのは、リマスだった。
「なぜだっ!!」
空を割るような絶叫だった。
「角笛は、竜を呼ぶとともに、自壊を招く魔術じゃなかったのかっ!」
リマスの声は竜の次なる唸り声でかき消えた。開いた地の底から溶岩が噴き出し、嘲笑う声が聞こえた。
──呪われろ呪われろ。
──だから、言ったであろう。
女の声だ。おぞましく、怨嗟の声が嗤笑する。
──人とは、醜い。
──結果を急ぎ、我慢ができない。
──こうして、供物を捧げる代わりに願いを聞き届けよと言う。
せせら笑う声が聞こえる。
──聞いてやろうとも。人がいなくなれば、平和になろう。
──魔法がなくなれば、よいのであろう?
──魔法があるから、困るのであれば、魔法を使う人間など滅ぼしてしまえばよいだろう。
呪詛の声は、リマスを嘲弄する。竜が笑っているのか、地が笑っているのか、世界が笑っているのか、シェイラにはわからなかった。
だが、心底世界を憎んでいることだけはわかった。その憎しみは、竜のなかにあって、角笛によって呼び出されたのだとわかった。
盲目のフランが、リマスを呼んだ。ふたりの姿はすぐに崩れる瓦礫で見えなくなってしまった。
スヴェリの姿も見えない。焦りが背を伝う。
シェイラに助ける余力はなかった。落ちてくる霰雹を弾き、雷を避ける。暴風雨のなか、翅を開き、落ちないように舞うしかない。
(まだ……!)
シェイラは、待っていた。{通信}が届いた結果を、待っていた。
シェイラひとりでは、準備に手間取ってしまう。だから、待っていた。
「──シェイラータ!」
そうして、詩人の魔導師ワレリーノ・パレとともに、ラムルやフェノアが姿を現す。さらには、手の空いた老師や、魔導師たち。
{朧竜}を認めると、パレ老師はシェイラに言う。
「止められなかったか」
「……間に合いませんでした」
「想定していた事態だ。やろう。発動は、任せていいね?」
「はい」
パレ老師はシェイラの返事を受けると、集った魔導師たちに告げた。
「いいか、お前たち」
ロン、と竪琴が鳴る。
「シェイラータが呪文を紡ぎ終えるまで、拙らが防衛をするぞ。あわよくば、あの竜を倒せるものがいればいい」
雅な笑みを浮かべると、パレ老師はラムルに振り向いた。
「ラムルや、行くぞ」
ふたりが紡ぎはじめたのは、遥か遠き地平線へ沈んだ古い神を奉り、呼び起こす神代の叙事詩であった。今や文献にはほとんど残っておらず、オルリア聖教によって、焚書となった古い言い伝えは、竪琴の爪弾きとともに蘇る。
そのあいだに、巨人となったエテルーネ・ファブロ老師が吶喊の声を上げ、剛腕の老師とともに竜の巨躯へと突っ込んでいった。




