319話:戦いのはじまり
ひばりは、ヴィクトルとイディオンが会話しているのを遠目に見ていた。
強風が吹きつけてきて、寒い。着込んでいるが、北部の九月末は、こんなに冷えるのかと驚いた。
ひばりはここで、聖女としての最大の役目を求められている。大任に、背筋が凍りつくような気持ちがして、後ろ背に逃げたくなった。
「──ヒバリさま」
そっと、近くにいたユベックが、ひばりに囁いた。
「聖剣を取るべき時が来ました。この場から外れましょう」
「今……?」
ひばりは、怪訝にユベックを見やった。
「はい。あなたさまが、元の世界に帰るために」
「でも……」
この状況で、ひばりが帰って聖剣が失われれば、この世界の人々は困るのではないだろうか。
「今しかありません。あなたが行方をくらませば、必ずや殿下はあなたをさがしに来ます。その隙に聖剣を奪取さえすれば、異世界へ帰る門を開くことができます」
「そうかもしれないけど……」
ひばりには、迷いが生じていた。
ヴィクトルとシェイラがふたりで会っていたと聞いた時は、心が真っ暗闇に染まって、どうにかなってしまいそうだった。捨鉢になった。
けれど、その夜、ヴィクトルが詫びに来てくれたら、少し、気持ちがやわらいだ。
なぜか、ヴィクトルはそれからも、少しずつ以前と同じように話しに来てくれるようになっている。この数カ月のことだった。
──シェイラさんは?
彼女のことは、もういいのだろうか。
なにか、あったのだろうか。
ふたりで、なにを話したのだろう。
ヴィクトルはこの数ヶ月で表情がよくなった。同時に、おだやかさが顔を覗かせるようになった。
ひばりは、気になってたまらなかった。
同時に、ユベックとの関係がどうしようもなく後ろ暗くて、拭っても拭っても取れない黒泥のようで、ひばりを蝕んだ。
(……助けて)
──だれか、助けて。
ひばりは、叫びたかった。ヴィクトルの手を、取りたかった。
(裏切ってるのに)
自分の選択を、助けてほしくてたまらなかった。
「行きましょう、ヒバリさま。今なら、抜けられます。アマリアに言伝を」
「ユベック、わたし……」
「おはやく」
急き立てられるままに、ひばりはアマリアに言伝を残して、近くを見回りに行ってくることを告げた。聖女が周囲を見に行くことに不審さはなく、だれかに止められることもなかった。
ひばりは、ユベックの{転移}に導かれるまま、軍団がひしめく地をあとにする他なかった。
〜*〜
山の端より、陽が昇る気配があったが、煙雲の濃い空は、薄暗かった。次第に濛々と雨が降りはじめ、外気が急速に下がっていく。
まもなくして、上空に影が広がりはじめた。一部から段々と空を覆っていく。
「〈浮塵子〉だ……っ!」
だれかが、そう叫んだのが、はじまりの合図となった。各国陣営が、指揮に従って飛翔しはじめる。陣営全体をまとめあげているのは、ヴェッセンダリア十二老師のうち、オモノン老師であった。紫電をまといながら、{強化}した激励の声は、かつて信じられた雷神のようであった。
「討ち滅ぼせー!」
同時刻、大陸全土を〈魔導霧〉が覆った。
サージェシアは霞衣をまとったようになった。恐慌に陥ったのは、王を失った国、防衛にかかりきりになった国、内戦に陥った国々。
そうした各国に、ひらりと長外套をまとった影が降り立った。
残る、老師たち。
「片づけてあげるね」
言ったのは小人の魔導師エテルーネ・ファブロ。親指大ほどの大きさだった彼女は、またたきのうちに巨神もかくやという大きさになると、技術国に降下した。
「仕方ねえ」
悪態をついたのは、{解析}の医療魔導師サルオン・ブルック。煙管を吹くと、そこから都を覆うほどの歯車と腕が生えた山を生じさせ、祖国である医術国に下りた。
{束縛}の魔導師ゾメタス老師は、オルトヴィア共和国に。
工学の魔導師シア老師と、剛腕の魔導師セベスタ老師は、モルベンド獣国に。
仮面の老師は、芸術の国フィシューユに、魔法薬の老師は、星ノ国アベルにそれぞれ助力しに行った。
オルリア聖王国と、ガルバディア魔法王国はともに、残る王子や王女、貴族たちが前衛に出て、責務を果たす。
老師たちのまとめ役である詩人の魔導師ワレリーノ・パレだけは、塔ノ都に残った。
来たる可能性──{朧竜}に備える。




