317話:目前の日常
アベルの月終わり、各地で蟲の襲来がヴェッセンダリアに報告され、厄災のはじまりが取り沙汰されるなか、次に起きたのはモルベンド獣国での氏族長同士の諍いであった。
「なにをしている!」
老師会の卓で、オモノンはその報告に激昂して雷鳴を轟かせた。
「そんなことをしている場合ではなかろう!」
モルベンド獣国は、魔獣を国の懐に抱える国で、魔導師モルベンドに由来する使役魔術を得意としていた。そのため、〈霧の厄禍〉においては使役した魔獣たちによる、蟲への対抗が期待されていた。各国へと、代表する氏族長たちが赴くはずだったのだ。
ところが、期待どころか、内戦が起きている。
オモノンは、六百年前の厄災を思い起こした。各国連携のばらつき。それによって生じた被害の拡大。大陸全体が混沌とし、聖女と聖剣によって払われるまでの悲惨な状態を。
オモノンはその時まだ子どもで、目の前で両親が蟲に喰われるのを瓦礫のなかから見ることしかできなかった。
同じ事態を繰り返さないために、邁進してきた六百年。
名声のあった絶対女王は死に、医療を業とした医術国は、王が崩御してから次代典医長争いで、役目を忘れている。聖王国はなんとか国の立て直しが間に合おうが、統率の炎は今にも消えかかっている。
オモノンの周到な準備は無駄になる。
「ワレリーノ!」
オモノンの叫びに、十二老師のまとめ役ワレリーノ・パレ老師は立ち上がった。低い竪琴の音を鳴らす。
「致し方あるまい」
ロン、と弦が鳴る。
「拙らが出るしかあるまいね」
パレ老師は決断する。
「{朧竜}はどうする?」
冷静に、{束縛}のゾメタス老師が嗄れ声を出す。
「シェイラータに期待する」
「だが、シェイラータは……」
ゾメタスが言葉を濁す。
それを、サルオンが受け取った。
「まだ死にはしねえ」
煙管をふかしながら、つづける。
「眠っちゃいるが、あいつは生きるのを諦めてねえからな。必ず、起きる」
そう言ったできごとがあったことを、シェイラは起き上がった寝台で、フェノアから聞いた。
オルトヴィアの月第一週に、入っていた。
シェイラの体はいつの間にか、サルオンの塔に移され、特別に設えられた寝台に寝かされていた。{自動}と{導線}の{分岐点}を活用し、{浮遊}させる褥瘡防止の寝台で、眠っている人間の体を転がすことができるという奇妙奇天烈な寝台であった。
シェイラは眠りこけていた二週間、寝台に転がされていたらしい。
(一緒に筋力が落ちないようにしていただければよかったのですが……)
二週間でやせ細った自分の手と、薄く浮かび上がっている線上文字の〈命脈〉を見ながら、体をずっと起こしておくことにも疲労を感じた。
「……それで、フェノアはどうしてこちらに?」
「三王に厄介払いされたのよ」
フェノアは、いやになっちゃうわ、とシェイラに茶を淹れながら、きれいな声で言う。
「フィシェーユの防衛は人手が足りているから、ヴェッセンダリアに役立つことをしろって追い返されたのよ」
「フィシェーユは大丈夫なんですか?」
二週間のうちに各国で起きたできごとは、厄災のはじまりを示すもので、芸術の国フィシェーユとて難は逃れていないはずだった。
「まあ、他の国よりはましなんじゃない? そもそも、魔導師フィシェーユの魔法というのは、防衛に優れているのよね。攻撃ではなく」
「芸術では蟲は殺せませんものね」
「ものによるわよ? でも、向いてないのは事実」
フェノアから差し出された茶を、シェイラは飲む。病人にやさしい薄い茶であった。
「それよりもすごいのは、ガルバディアね。イディオン王子の活躍は、一部の人々にとって希望になってるわ。このあいだは、空に舞う蟲の群れを一瞬で消し飛ばしたんですって。あ、王子じゃなくて、王太子だったわね」
「まだ、戴冠はされてないのですね」
「厄災が終わってからにするのですって。戴冠式に費用を割かないためっていうふれがあったとかで、イディオン王太子の評判はすっかり他国にまで伝わってるわ」
「……イディさんは、すごい人ですから」
シェイラは、安心する。イディオンの話が聞けて、うれしかった。
視線を茶器の表面に移すと、自分の痩せた顔が見えた。
「それで、おばかなシェイラは、あんなに慕ってくれていた王子さまを逃しちゃったの?」
物思いにふけりそうになったところで、フェノアがずいっと顔を出した。
ふざけているのかわからない金の眼に、シェイラは一瞬言葉に詰まったが、ほんの少し真意を漏らした。
「わたしには果たさなければいけないことがありますし……それに、寿命がありますから……」
シェイラは、長命なイディオンの隣には、ずっといられない。
「あら、シェイラ、死ぬの?」
フェノアがけろっと忌憚なく尋ねてくるので、シェイラは毒気が抜かれた。正直な笑みを向ける。
「ええ。半年後には。……でも、実際に起きていられるのは、今月いっぱいかもしれませんね。最近、あまり起きていられなくて」
「それで殿下から、逃げてきちゃったの?」
「イディさんには役目がありました。彼は立派になる方で、きっと歴史に名を残します。寿命のない呪われた魔導師では、支えてあげられませんから」
「ふーん?」
フェノアはシェイラの言葉を聞くと、口元に両手をやってあざとく笑んだ。
「それは随分とおいしい話ね? 歴史に名を残す王の悲恋。劇作家に依頼したら、面白くしてくれそうだわ。わたしがシェイラ役になって歌い継いであげる」
「美人なフェノアにやってもらえるのなら光栄ですね」
「あら、題材にされるのはいやじゃないの? 前はいやがってたじゃない」
「きっと、その歌劇を観たらイディさんは悲しみますが、それでも、わたしは……」
ぽつりと言う。
「どんな形でもいいから……、あの方のそばに残っていたい」
「ええーっ! シェイラ、そんなに殿下のこと好きになっちゃったの? やっぱり、ほだされちゃったやつ? この一年でなにがあったの? モルリオールを出たあとからよね? 詳しく教えて! ねえ、詳しく!」
フェノアのいつもと変わらない様子に、シェイラはほっとした。
聞かれるままに正直に答えていると、気怠い体に発破をかけられるようになって、準備をつづけている魔法にまた取りかかる。
フェノアに{増強}を歌ってもらって、体にはなんとか活気が戻った。
(大丈夫。まだ、動けます)
月末までには、きっと、この手間のかかる魔法を完成させられる。
仔羊皮紙に描いた陣を見下ろしながら、シェイラは思う。
イディオンとも、必ず会える。
翰筆を持ち、計算尺を支える手は、震えていた。
(大丈夫)
シェイラは、自分に言い聞かせる。何度も。何度も。
ただ願いとともに、線を引き、呪文を作り上げ、触媒を用意し、魔法を導く。数カ月をかけた魔法はきっと、魔導師ユベーヌの願いに呼応する。
そうして、シェイラは、一週間のうちにおおよそを完成させた。そこでまた、ひどい眠気を感じて眠りについた。今度は二週をすぎ、三週近く昏々と眠った。起き上がればもう、オルトヴィアの月の下旬で、シェイラは落ちた体力を回復させながら、魔法を仕上げ、各地に出向いた老師たちに報告を終えた。
(きっと、もう……)
次は、ない。
また次に強い眠気を覚えたら、シェイラはもう、二度と目覚めないだろう。
──〈霧の厄禍〉極まりし時が、目前に迫っていた。




