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魔法が使えない魔導師と、霧の大陸の教え子たち  作者: 稿 累華
第16章:魔法が使えない魔導師─前編─

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307話:秘密の関係

 ひばりは、そっと起き上がった。絹の掛布が、しっとりとすべり落ちていく。漠然と、目の前の壁を見やる。


 ぽっかりとなにかを失った感覚は、いよいよ拡がって、ひばりの内側そのものをすべて削り取って、空にしてしまったようだった。

 ぼんやりと曖昧模糊なものが思考を覆っている、そんな感覚。

 ただ、言われるがまま、なされるがまま、人形になってしまったかのような、そんな感覚になってから、随分と経った気がしている。こうした気持ちで朝を迎えるのも。


「──ご起床でございますか」


 ひばりがぼうっとしているうちに、笑顔のアマリアがやって来た。


「……うん、おはよう」


 微笑を返す。アマリアと話すと、少しだけ自分の感覚が戻ってくる。

 アマリアも笑みを返してきて、それからだれも見当たらないのに、辺りを憚るようにして、小声でひばりの耳元に囁いた。


「昨日は、ついに……?」

「ち、ちがうよ……!」


 ひばりは、かあっと顔を真っ赤にした。自分の感覚が戻ってきて、体中が着火したようになる。

 アマリアはにやにやとしながらも、少し恥ずかしそうにしていて、こういう話題に彼女自身も免疫がないのだと知る。


「ええ、ちがうんですか?」

「わたしがまだ、覚悟がないの」

「我慢させてるんですか?」

「ちがうから……!」

「ひばりさま、悪女ですねえ」

「アマリアっ!」


 ひばりが叫ぶと、アマリアは、きゃーと言って楽しそうに叫んだ。


 ──護衛のユベックと、ひそやかに付き合っている。


 その事実を知っているのは、アマリアだけだった。機会があれば、ひばりとユベックがふたりだけになれるよう、アマリアは時間を作ってくれている。ひばりが、ヴィクトルとうまくいってないことを知っているからこそ、心優しい彼女がそうしてくれているのだ。


 ユベックは、理想的な騎士だ。

 ひばりに尽くして、あまい言葉をかけてくれる。唇や首にキスをしてくれて、ひょっとしたらその先に進みそうになるのを止めるのに、いつも申しわけなくなる。


「いやですか?」

「そうじゃないの」


 昨夜も、そういう空気になった。

 アマリアが一時間、ふたりになれるよう時間を作ってくれたのだ。


「なぜか、お聞きしても……?」

「その、まだ……心が決まってなくて……」


 ひばりの寝室には、香炉が焚かれていた。香るにおいに、淫靡なものを感じられるが、それでもひばりは、ユベックとそういう関係になる覚悟がつかなかった。

 ユベックは数秒黙っていたが、ほほ笑むと、ひばりの体から離れた。足元に跪いて、手を取り、そこに唇を落とす。


「かわいらしい方だ。そういうところが、愛らしい」

「ユベック……!」


 ひばりは、顔を赤くした。

 昨夜もそうだが、ユベックは、ひばりに無理強いしようとしない。言葉とやさしさをくれるだけの理想的な騎士で、欲もあるだろうに、ひばりを押し倒すようなことはしないのだ。だから、申しわけなくなってしまう。


「……ちがったら教えていただきたいのですが」

 そんなユベックが、昨夜はぽつりと食い下がるように訊いた。


「王太子殿下へのお気持ちから……でございますか?」


 ひばりは、ぴくっとなった。ぎゅっと手元の両手を重ね合わせる。

 ユベックは、そんな仕草ひとつで、察したようだった。途端に、険しい顔になって、倦厭(けんえん)を口にする。


「……生まれに胡座をかいているというのに」


 そうじゃないよ。

 ひばりは、ユベックに言わなかった。


(そうじゃない。ヴィックは……)


 ただ、寂しいだけだ。深い愛情を求めているのに失ってしまって、なのに、わがままを言うことを許されない立場。彼はただ、ほっとよりどころになる家族を求めているだけなのだ。

 かわいそうな人なのだ。


(わたしが、そうなれたらよかったのに……)


 ■■■■■関係を望む自分だったら、ほっとできる場を用意できたはずなのだ。


(まただ)


 なにか、自分が思っていたことを深めようとすると、頭に靄がかかる。ぼうっと、する。


 そのまま眠りについて、今朝だった。

 ぼんやりと天井を見る。


「今朝は、一段と霧が濃いですね」


 ひばりをからかってすっきりしたアマリアは、ひばりの身支度を手伝いながら、窓の外を眺めた。

 薄紫の霧がたちこめて、外はよく見えなかった。


「受け持ちの者たちはなにをやっているのでしょうか。ここのところ、多いように見えます」


 ひばりは、たしかに、とアマリアの言葉について思った。

 この数ヶ月、いろいろなものが滞っているように見えるのは、ひばりだけではないようだった。


(グスターが死んだせい)


 それだけではない。霧の厄というのも近い。


(聖王陛下もお亡くなりになった)


 少し前のことだ。

 暗澹とした気分を抱きながらも、いつも通り、教会での祭礼をすませた。朝は蟲が出ていたというが、きちんと駆逐されたらしい。祭礼を終えれば、霧は霞む程度になっていた。


 祭礼を終えて、枢機卿たちと話をしてから、城へと戻る。祭礼の時間だけは、いつもヴィクトルがいてくれたが、今日は急用があったということで珍しく欠席だった。


(なんかあったのかな……)


 また、だれか死んだのだろうか。

 ひばりが、無骨な王城へと戻ってきたのは、午後をすぎた頃合いだった。ヴィクトルがいないぶん、{祝福}には時間がかかってしまって、重たい衣装がずしんとする。


「お部屋に戻られましたら、楽な服にしましょう」


 アマリアは有言実行で、柱廊をすぎて部屋に戻ると、すぐに聖女の装いを取ってくれた。装飾の多い、重い衣装を片づけにアマリアたちは部屋を出ていく。


 ひばりは、ひとりになって、やっと一息つこうとした。

 椅子に腰かけると、にわかに、なにか焦げつくようなにおいがする。


「え……?」


 瞬間、ひばりは、自分の内側を焼かれるような感覚を抱いた。悲鳴をあげるよりも先に、体を折って痛みに倒れる。すぐに、痛みはおさまった。葵葉草(ゼラニウム)甘橙(オレンジ)の混じったようなどこか懐かしい香りがしたかと思うと、内側からすうっと清涼な感覚が抜けて、楽になっていく。


「な、に……?」


 痛みで目尻にうっすらと浮かんだ涙をぬぐって、ひばりは自分の身に起きたことに戸惑う。

 自らが(あずか)り知らぬところでなにかが起きたような気がして、ぞっとする。両腕で、掻きいだくように自分を抱きしめる。

 そうしているうちにやって来たのは、アマリアではなく、ユベックだった。美麗な騎士の顔が、憤怒の表情に歪んでいて、ひばりは驚く。


「どうかしたの?」

「ヒバリさま……」


 ユベックは、ひばりを哀れむようだった。


「あなたさまは、あれでも、あの男を慕うのですか?」

「どういうこと……?」


 なぜだか、ひばりは嫌な予感がした。


「殿下は、ヴェッセンダリアから来た魔導師とふたりきりで、お部屋に籠もっていらっしゃいます。シェイラータという名の魔導師です」


 ひばりは、その時、自分が感じたものを言葉にできなかった。自分を抱きしめていた両腕が力なく、下がる。


(そっか……)


 だから、今日、ヴィクトルは、祭礼に来なかったのだ。

 そう思うと、ひばりは泣き叫びたくなった。自分の限界が叫ぶ。


 ──帰りたい。

 もとの世界に帰りたい、と。


 ユベックは、すべてを察して、ひばりを抱きしめるようにした。あやすようにひばりに口づけ、耳を食み、首筋に顔を埋める。


「──私が、」


 ひばりが静かに流しはじめた涙をすくわれる。


「私が、あなたの願いを叶えて差し上げます」

「……願い?」


 はい、とユベックが肯定する。

 ふれる甲冑はつめたかったが、今はただ、慰撫されるようなぬくもりにすがりたい。


「どんな願いでも……?」

「ええ。必要なものが揃いさえすればなんだって」

「必要なもの?」


 ひばりはもう、限界だった。

 ──あの■■■■■日常を取り戻すことができるのだろうか。


「ふたつ、あります。ひとつは、あなたの力です」

「わたしの力?」

「あなたの、聖女としての力です。聖なる魔法」

「……それを差し出せば、もとの世界に帰れる?」


 ひばりの問いに、ユベックは肯いた。


「もうひとつは……?」


「──聖剣」


 ユベックは、つぶやく。


「聖剣が、必要です。それを依り代に、あなたをもとの世界に帰して差し上げます」


 あなたを喚んだのは聖剣なのですから。

 ユベックの緑の目は、どこか爛々としていた。魅入られるような緑に、ひばりの心は傾く。


「……わたしは、なにをすればいいの?」

「借りてきていただきたいのです」


 ユベックは言う。


「聖剣を、持ってきていただきたいのです」


 ひばりに後ろめたさのあるヴィクトルは、ひばりの頼みならなんだって聞き入れてくれるだろう。聖剣だって、少しのあいだなら、貸してくれるはずだ。

 ユベックの言葉に、ひばりは、無意識に、手首の組紐をぎゅっとつかんだ。


「……考えさせて」


 なぜだか、灰になった香木のにおいを感じたように、迷いが生じた。



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