307話:秘密の関係
ひばりは、そっと起き上がった。絹の掛布が、しっとりとすべり落ちていく。漠然と、目の前の壁を見やる。
ぽっかりとなにかを失った感覚は、いよいよ拡がって、ひばりの内側そのものをすべて削り取って、空にしてしまったようだった。
ぼんやりと曖昧模糊なものが思考を覆っている、そんな感覚。
ただ、言われるがまま、なされるがまま、人形になってしまったかのような、そんな感覚になってから、随分と経った気がしている。こうした気持ちで朝を迎えるのも。
「──ご起床でございますか」
ひばりがぼうっとしているうちに、笑顔のアマリアがやって来た。
「……うん、おはよう」
微笑を返す。アマリアと話すと、少しだけ自分の感覚が戻ってくる。
アマリアも笑みを返してきて、それからだれも見当たらないのに、辺りを憚るようにして、小声でひばりの耳元に囁いた。
「昨日は、ついに……?」
「ち、ちがうよ……!」
ひばりは、かあっと顔を真っ赤にした。自分の感覚が戻ってきて、体中が着火したようになる。
アマリアはにやにやとしながらも、少し恥ずかしそうにしていて、こういう話題に彼女自身も免疫がないのだと知る。
「ええ、ちがうんですか?」
「わたしがまだ、覚悟がないの」
「我慢させてるんですか?」
「ちがうから……!」
「ひばりさま、悪女ですねえ」
「アマリアっ!」
ひばりが叫ぶと、アマリアは、きゃーと言って楽しそうに叫んだ。
──護衛のユベックと、ひそやかに付き合っている。
その事実を知っているのは、アマリアだけだった。機会があれば、ひばりとユベックがふたりだけになれるよう、アマリアは時間を作ってくれている。ひばりが、ヴィクトルとうまくいってないことを知っているからこそ、心優しい彼女がそうしてくれているのだ。
ユベックは、理想的な騎士だ。
ひばりに尽くして、あまい言葉をかけてくれる。唇や首にキスをしてくれて、ひょっとしたらその先に進みそうになるのを止めるのに、いつも申しわけなくなる。
「いやですか?」
「そうじゃないの」
昨夜も、そういう空気になった。
アマリアが一時間、ふたりになれるよう時間を作ってくれたのだ。
「なぜか、お聞きしても……?」
「その、まだ……心が決まってなくて……」
ひばりの寝室には、香炉が焚かれていた。香るにおいに、淫靡なものを感じられるが、それでもひばりは、ユベックとそういう関係になる覚悟がつかなかった。
ユベックは数秒黙っていたが、ほほ笑むと、ひばりの体から離れた。足元に跪いて、手を取り、そこに唇を落とす。
「かわいらしい方だ。そういうところが、愛らしい」
「ユベック……!」
ひばりは、顔を赤くした。
昨夜もそうだが、ユベックは、ひばりに無理強いしようとしない。言葉とやさしさをくれるだけの理想的な騎士で、欲もあるだろうに、ひばりを押し倒すようなことはしないのだ。だから、申しわけなくなってしまう。
「……ちがったら教えていただきたいのですが」
そんなユベックが、昨夜はぽつりと食い下がるように訊いた。
「王太子殿下へのお気持ちから……でございますか?」
ひばりは、ぴくっとなった。ぎゅっと手元の両手を重ね合わせる。
ユベックは、そんな仕草ひとつで、察したようだった。途端に、険しい顔になって、倦厭を口にする。
「……生まれに胡座をかいているというのに」
そうじゃないよ。
ひばりは、ユベックに言わなかった。
(そうじゃない。ヴィックは……)
ただ、寂しいだけだ。深い愛情を求めているのに失ってしまって、なのに、わがままを言うことを許されない立場。彼はただ、ほっとよりどころになる家族を求めているだけなのだ。
かわいそうな人なのだ。
(わたしが、そうなれたらよかったのに……)
■■■■■関係を望む自分だったら、ほっとできる場を用意できたはずなのだ。
(まただ)
なにか、自分が思っていたことを深めようとすると、頭に靄がかかる。ぼうっと、する。
そのまま眠りについて、今朝だった。
ぼんやりと天井を見る。
「今朝は、一段と霧が濃いですね」
ひばりをからかってすっきりしたアマリアは、ひばりの身支度を手伝いながら、窓の外を眺めた。
薄紫の霧がたちこめて、外はよく見えなかった。
「受け持ちの者たちはなにをやっているのでしょうか。ここのところ、多いように見えます」
ひばりは、たしかに、とアマリアの言葉について思った。
この数ヶ月、いろいろなものが滞っているように見えるのは、ひばりだけではないようだった。
(グスターが死んだせい)
それだけではない。霧の厄というのも近い。
(聖王陛下もお亡くなりになった)
少し前のことだ。
暗澹とした気分を抱きながらも、いつも通り、教会での祭礼をすませた。朝は蟲が出ていたというが、きちんと駆逐されたらしい。祭礼を終えれば、霧は霞む程度になっていた。
祭礼を終えて、枢機卿たちと話をしてから、城へと戻る。祭礼の時間だけは、いつもヴィクトルがいてくれたが、今日は急用があったということで珍しく欠席だった。
(なんかあったのかな……)
また、だれか死んだのだろうか。
ひばりが、無骨な王城へと戻ってきたのは、午後をすぎた頃合いだった。ヴィクトルがいないぶん、{祝福}には時間がかかってしまって、重たい衣装がずしんとする。
「お部屋に戻られましたら、楽な服にしましょう」
アマリアは有言実行で、柱廊をすぎて部屋に戻ると、すぐに聖女の装いを取ってくれた。装飾の多い、重い衣装を片づけにアマリアたちは部屋を出ていく。
ひばりは、ひとりになって、やっと一息つこうとした。
椅子に腰かけると、にわかに、なにか焦げつくようなにおいがする。
「え……?」
瞬間、ひばりは、自分の内側を焼かれるような感覚を抱いた。悲鳴をあげるよりも先に、体を折って痛みに倒れる。すぐに、痛みはおさまった。葵葉草と甘橙の混じったようなどこか懐かしい香りがしたかと思うと、内側からすうっと清涼な感覚が抜けて、楽になっていく。
「な、に……?」
痛みで目尻にうっすらと浮かんだ涙をぬぐって、ひばりは自分の身に起きたことに戸惑う。
自らが与り知らぬところでなにかが起きたような気がして、ぞっとする。両腕で、掻きいだくように自分を抱きしめる。
そうしているうちにやって来たのは、アマリアではなく、ユベックだった。美麗な騎士の顔が、憤怒の表情に歪んでいて、ひばりは驚く。
「どうかしたの?」
「ヒバリさま……」
ユベックは、ひばりを哀れむようだった。
「あなたさまは、あれでも、あの男を慕うのですか?」
「どういうこと……?」
なぜだか、ひばりは嫌な予感がした。
「殿下は、ヴェッセンダリアから来た魔導師とふたりきりで、お部屋に籠もっていらっしゃいます。シェイラータという名の魔導師です」
ひばりは、その時、自分が感じたものを言葉にできなかった。自分を抱きしめていた両腕が力なく、下がる。
(そっか……)
だから、今日、ヴィクトルは、祭礼に来なかったのだ。
そう思うと、ひばりは泣き叫びたくなった。自分の限界が叫ぶ。
──帰りたい。
もとの世界に帰りたい、と。
ユベックは、すべてを察して、ひばりを抱きしめるようにした。あやすようにひばりに口づけ、耳を食み、首筋に顔を埋める。
「──私が、」
ひばりが静かに流しはじめた涙をすくわれる。
「私が、あなたの願いを叶えて差し上げます」
「……願い?」
はい、とユベックが肯定する。
ふれる甲冑はつめたかったが、今はただ、慰撫されるようなぬくもりにすがりたい。
「どんな願いでも……?」
「ええ。必要なものが揃いさえすればなんだって」
「必要なもの?」
ひばりはもう、限界だった。
──あの■■■■■日常を取り戻すことができるのだろうか。
「ふたつ、あります。ひとつは、あなたの力です」
「わたしの力?」
「あなたの、聖女としての力です。聖なる魔法」
「……それを差し出せば、もとの世界に帰れる?」
ひばりの問いに、ユベックは肯いた。
「もうひとつは……?」
「──聖剣」
ユベックは、つぶやく。
「聖剣が、必要です。それを依り代に、あなたをもとの世界に帰して差し上げます」
あなたを喚んだのは聖剣なのですから。
ユベックの緑の目は、どこか爛々としていた。魅入られるような緑に、ひばりの心は傾く。
「……わたしは、なにをすればいいの?」
「借りてきていただきたいのです」
ユベックは言う。
「聖剣を、持ってきていただきたいのです」
ひばりに後ろめたさのあるヴィクトルは、ひばりの頼みならなんだって聞き入れてくれるだろう。聖剣だって、少しのあいだなら、貸してくれるはずだ。
ユベックの言葉に、ひばりは、無意識に、手首の組紐をぎゅっとつかんだ。
「……考えさせて」
なぜだか、灰になった香木のにおいを感じたように、迷いが生じた。




