305話:シェイラとヴィクトル(1)
シェイラが訊くと、ヴィクトルもベイドルも、その存在をやっと思い出したと言う顔をした。
ヴィクトルが応じる。
「それは母上からだが……」
苦虫を噛み潰したような声に、ベイドルが反応した。
「すぐに出どころを突き止めて参りましょう」
立ち上がると、シェイラから香炉を取って、扉へと向かう。
「ほう。私も協力できるかもしれませぬな」
香炉に刻まれている古詩を認めて、面白そうにあとを追ったのはラムルだった。
意図せず、シェイラは、ヴィクトルとふたりで取り残された。その状況に気づいたのは、声をかけられてのことだった。
「──ラータ」
背後からかかった声に、シェイラは振り返った。
力をなくした笑い方で、ヴィクトルがシェイラに懐かしい目を向ける。
「少し……話さないか」
シェイラは、束の間、瞳を揺らした。
わずかに逡巡を覚えて、だが、ぎゅっと青銀石を握り込むと、小さく肯く。
ヴィクトルに促され、席に腰かけた。
八年、いや、それ以前からわだかまっていた互いへの感情が、硬い鉱石となって鎮座しているような沈黙があった。
切り出したのは、ヴィクトルからだった。
「息災、だったか?」
彼らしい、おだやかな声音だった。竪琴のような音。
昔と変わらない音に、シェイラは張り詰めていた緊張を、ふっと肩から下ろした。
「はい。元気でした」
「……そうか」
「……トールは?」
「私は……」
尋ねると、ヴィクトルは言い淀んだ。窪んだ下瞼や、見えるようになった頬骨の影が色濃く見える。
シェイラは、正直に心配を唇にのせた。
「元気に……見えませんね」
「…………」
「わたしに……聞く権利はありません。ですが……」
シェイラは自嘲するように笑ってから、息を継いだ。
「どうして、そうなってしまったのかと思いを馳せるだけで、つらく苦しく……。あなたの道のりを一緒に歩めなかった十五の自分の選択を、悔いるしかありません」
「……ラータ、ちがう」
ヴィクトルは紅い双眸を強く振った。
シェイラもまた、静かに首を振り返す。
「いいえ、わたしは、とても……愚かだったのです」
シェイラは、この一年で思い返したことを口にした。
「当時のわたしは、視野が狭くて……自分の望みを叶えるためには、魔法を使えるようになるしかないと思っていました。そうずっと思い込んで、自分の心からの気持ちを、あなたに話してこなかったのです」
そう思ったきっかけは、イディオンとのあいだに起きたすれちがいの喧嘩だった。
自分の気持ちは、相手に伝えなければ、伝わらないのだ。たとえ行動で示していたとしても、わからないこともあるのだ、と。それは、ターニャやリヨンから教わったことでもあった。
「あなたの……隣にいたいと思っていました。ずっと、{導線}を走るしかないあなたの隣にいて、わたしが孤独なあなたの道のりを支えたかった……」
シェイラは、言葉を区切って、ヴィクトルを見た。
「あなたと一生、ともにありたかったのです。ほんとうは、魔法なんて使えなくてよかった……。あなたの隣にいられれば、ただ、幸せだった。自分のほんとうの願いを忘れてしまっていたのです」
「…………」
「それなのに、あなたがずっと伝えてくれていた気持ちを、ずっと無碍にしてしまっていました。最後も、ひどい言葉をぶつけてしまって……申しわけございませんでした」
「ラータ」
立ち上がったヴィクトルは、シェイラの横に跪くようにして両手を取った。
「ちがう。ちがう。私だ。……私なんだ」
「……トール」
「君の気持ちを……ずっと理解してこなかった。君がどれほど私のことを想ってくれていたのか知ってたのに、君の魔法が使えるようになりたい気持ちを誤魔化すようにして……そうまでして、一緒にいてくれようとした気持ちを……知ろうとしてこなかった」
ヴィクトルが額づくように、シェイラの手にふれる。
「魔法は使えなくてもいい。そう言って、君の赤心を傷つけてきた」
「…………」
「イディオン王子が、教えてくれたんだ。魔法は使えなくてもいい。その言葉は残酷である、と」
「イディさんが?」
シェイラはびっくりして、ヴィクトルの頭を見つめた。
「ああ。君の……教え子だった彼が、私に、気づかせてくれた」
「そう、ですか」
シェイラは、顔がくしゃっとなった。
不意なところに、イディオンの心が転がっていて、たまらない気持ちになった。
イディオンは、だれよりもシェイラの気持ちを知ってくれていたのだろう。それを感じられてしまって、胸のなかがあたたかくなった。
「──すまなかった、ラータ」
ヴィクトルの謝罪に、シェイラは首を振る。
「いいえ……」
「すまなかった。君の気持ちを知らず、私こそ別れ際に、試すようなひどい言葉を……」
「もう……、いいんです」
「いや、到底……許されない。許されるべきことではない。君は……命まで削って、心を砕いてくれたというのに……」
シェイラは、ヴィクトルのその台詞に、冷水を浴びせられたかのように頭が真っ白になった。




