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魔法が使えない魔導師と、霧の大陸の教え子たち  作者: 稿 累華
第16章:魔法が使えない魔導師─前編─

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304話:懐かしい香り

 柑橘の、すうっと気持ちのよいにおいに、オルトヴィア目箒(バジル)の清涼な香りが混ざる。あとから、丁香(クローブ)の上品なかぐわしさが漂ってくると、少女のシェイラは、いつも鼓動をどきどきとさせた。


 ──トールの香り。


 ヴィクトルはいくつか好きな香料があったようだったが、シェイラは特にその香りが好きだった。シェイラの好みを知ると、ヴィクトルは、いつも付けてくれるようになった。


「だって、私のことをもっと好きになってくれるだろう?」

「なに言ってるんですか」


 その言葉に、シェイラが頬を染めれば、ヴィクトルは破顔する。


「ほら、その反応だよ」

「……やめてくださいよ」

「君の、そういう素直な反応が安心する」


 ヴィクトルはそう言って、シェイラを後ろ背に抱き寄せる。耳元でそっと囁かれる。


「ありのままの君が、いいんだ」

「トール……」


 シェイラは、恥ずかしく身じろぎする。


「……わたしだって、香料を付けたいです」


 話を誤魔化せば、ヴィクトルは笑った。


「君はなにもつけなくても、いいにおいがする」

「そういうことでは──」

「そのままでいいよ」


 ぎゅっと強く抱き閉められると、シェイラは慌てふためいた。ばたばたとつかまったネコのようになる。


「そのままで……いいんだ。そのまま、いてくれれば。そのまま……家族になろう」


 それは、ヴィクトルの願いのようだった。

 シェイラが隣にいたいという願いと同じ、家族を欲する彼の願い。


(ああ……)


 なぜ、このような昔の夢を見るのだろう。


 シェイラはもう、これが夢とわかっている。叶わずに散った、互いの純粋だった頃の願い。


(懐かしいにおい)

 シェイラの夢をいざなうヴィクトルのにおい。


 シェイラの意識は浮上していく。疑問が浮かぶ。なぜ、知っているにおいがするのだろう。その香りには、またべつのいやなにおいも混ざっている。自分はなぜ夢を見ているのだろう。寝ているのか。横たわっているのか。それとも……


 はっとして、シェイラは飛び起きるように上体を起こした。


 周囲を見渡して、紅い天蓋の垂れ下がった寝台にいることを理解する。壁の基調は白で、赤実ヒイラギと白ヤドリギの模様の壁紙が張られている。金の繰形(モールディング)は、部屋をいっそう華やかにしていた。よく知った、昔と意匠の変わらない部屋。


 シェイラは、愕然とする。

「ここは……」


 扉越しに、話し声が聞こえた。

 寝台から足を下ろして、誘われるままに扉を開く。きぃっ、と蝶番(ちょうつがい)が音を立てる。

 目の前の光景に、そのまま立ち止まった。


「……ラータ」


 ヴィクトルたちは卓を囲って話していたが、起きてきたシェイラを認めると、話をやめた。その場にはラムルと、父ロゼイユ公、そして、かつての婚約者がいる。

 心を決めて出立してきたはずなのに、シェイラは後ろ背に逃げたくなった。


「もう……平気か?」


 一歩下がろうとしたシェイラに、ヴィクトルは変わらず、あたたかな目を向けてきた。思いやりのある眼差し。八年前と変わらない。

 一方で、容貌があまりにも変わりすぎているさまに、一気に冷静と現実を取り戻した。


「トール……」


 やつれた、どころではない。

 人がちがうと言ってよいほど、顔貌から健康さを思わせる色や線がなくなっていた。一年前よりもさらに悪くした姿に、なんと言葉をかければよいのかわからず、口を半分開いて、次を継げなかった。


 なにがあったのか。どうして、そんなふうになってしまったのか。


 シェイラはただ、ヴィクトルの幸せと安らぎを願って、この八年を過ごしてきた。

 あまりにもかけ離れた姿に、返す言葉が見つからなかった。


「だらしないですな」


 水を差すようにして聞こえてきたラムルの一声が、逆に救いだった。片眼鏡が神経質そうにシェイラを見る。


「準師とあろうものが、あれしきの戦闘で消耗ですか?」

「……ご心配をおかけして申しわけございません。少し調子を崩していただけにございます」


 シェイラは頭を下げると、ヴィクトルたちに礼を取った。


「お久しぶりにございます、王太子殿下、ロゼイユ公」


 ヴィクトルの、卓上の薬指がぴくっと動いた。父の顔は変わらない。いつものことだ。


「お部屋を……お借りした無礼を申しわけございません。ありがとうございました。本日は、先ぶれ通り、ヴェッセンダリアより、王国の状況を確認しに参りました。つきましては──」

「そのことだが……」


 顔を白くしたヴィクトルがシェイラの台詞を遮った。

 シャイラが怪訝を浮かべると、今しがた話されていたこと、議論されていたこと、起きている事態について、ラムルから説明がある。


「王国からは、都度ヴェッセンダリアには現状を報告していたとのこと。だが、伝わっていなかった。こちらからもですな。どうも王城内部の伝達も危うくなっている。今日の霧は、当番の隊が勤めを果たしていなかったようで……、それらが、現状わかったことでございますな」


 要約に、ヴィクトルと父の表情が悪くなった。オルリア国内の状況を、第三者から正鵠を射るように告げられて、事態の深刻さを理解したらしい。


「……私の不甲斐なさだ」


 ヴィクトルは、ぽつりと言う。


 シェイラは、なにも言えなかった。

 ヴィクトルの性格を考えれば、おそらく現状に至るまで、手を抜いたわけではないだろう。


 ──あなたのせいではありません。


 シェイラは今の自分の立場が、そういった気安い言葉をかけられるものではないとわかっていた。ただ、視線を下げて、感情をともにするしかない。


 岩よりも重い淵黙が満ちる。

 ふいに、さきほど夢へと侵襲してきた気配を、鼻の奥でわずかに感じた。部屋の空気にうまく混じり合った、白檀と沈香の誘うようなあまいにおいが、一端をみせる。


 ──呪術の気配だ。

 それが部屋全体に薄く香っている。


 シェイラは、顔を上げた。周囲を見渡す。くまなく、検閲するように視線を走らせる。


「この部屋は、殿下方以外にどなたが出入りをされますか?」


 突拍子のない問いに、ヴィクトルとベイドルはともに面食らったような顔をした。

 すぐに、気を取り戻したヴィクトルが返答する。


「私室だから制限されるが……一部の者は日々出入りする」


 受け取りながら、シェイラは、胸元の青銀石を握った。そっと手の内側に込められていた青銀の魔法の力が流れこんでくる。{隠匿}を見破る表象魔導。イディオンに込めておいてもらったもの。

 すうっと、雪原の針葉樹が香る気配を感じながら、視界が鮮明になった。


 シェイラは、両の目をヴィクトルの私室に走らせる。今まで見えていなかったものが黒白と渦を描くように視える。


 ──香炉だ。


 薬水瓶(ポーション)が多く並べられた棚の角に、不自然に霧除けの香炉が置かれている。白鑞(ピューター)製の香炉。フィシェーユで作られたような精巧な香炉が、ひっそりとある。


 シェイラは、そこから渦紋を帯びる呪いを視た。

 手に取って、尋ねる。


「これは、どなたからもらったものですか……?」

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