303話:聖都の春霞
父王が、死んだ。
オルリアの聖王レクトルが、〈雲霧の客〉となったのは、ノザリアンナの月半ばのことだった。早朝だった。白濁した魔導師オルリアの紅い目は、前夜、力尽きたように閉じ、父王はしずかに息を引き取った。
本来、聖王が亡くなれば大々的にふれがあり、国葬となるのが常であったが、冬の寒靄からつづく春霞によって、残されたヴィクトル含め、オルリアの重鎮たちは、国葬の準備もままならない有りさまであった。
〈霧の厄禍〉の直前となるこの冬、オルリア聖王国は相次ぐ霧と蟲によって、疲弊していた。ヴィクトルも、ヒバリも、各地へ引っ張りだこで、次々と聖剣を払い、聖魔法による{浄化}を行わねばならない状態で、国政どころではなかった。
父の死も、二の次にせねばならず、国外への報せも遅らす他なかった。
(これが厄禍の前ぶれか)
不眠不休とも呼べる状態で、ヴィクトルはオルリア国内を東奔西走し、すでにぎりぎりの戦いを強いられていた。これがまだ、厄禍そのものではないと言うのだから、ヴィクトルは自身の体がそこまで保たないのではないかと思う。
さらには、アウロラ枢機卿の死より、ヒバリとの婚姻を声高に叫ぶものたちが、あとを絶たない。
(頭の痛い問題がひとつ片づくのはわかっている)
だが、ヴィクトルは、その手段を取るつもりは、毛頭なかった。
(まだ、私には……)
果たさねばならないことがある。
「──殿下」
友となって久しい頭の痛みと戦っていると、グスターに代わった新しい補佐官が、各地の陳情嘆願書を読み上げた。
ヴィクトルに上奏するより前に補佐室で片づくこともあるだろうに、すべて読み上げてくるのがこの新しい補佐官で、ヴィクトルはこれにもうんざりしていた。
(だめだな……)
ふっと、ヴィクトルは自嘲の笑みが浮かんだ。
感情を制することを得意としていたのが自分なのに、周囲への不満を募らせている。
(王太子として、あるまじき、だな)
もうヴィクトルには、己がなんのために動いているのか判然としない。
「少し、霧が深いようですな」
近くで手伝っていたベイドル・ロゼイユが、窓を見上げた。
真紅の窓布の先から見える外は、霞がかって見えづらい。薄靄の春霞は濃く、蟲が凝集する危険性がある。
「今日は、どこの隊が当番だ?」
ヴィクトルが新しい補佐官に尋ねるのと、ベイドルが立ち上がって格子窓に近づくのは同時だった。
公が外を見下ろし、ヴィクトルは補佐官から答えを聞く。
「殿下!」
ベイドルが声を上げた途端、窓の外で巨大な氷柱が急降下した。視界の隅にそれを捉えて、ちらっと見やる。
(魔法か?)
隊の飛翔師たちではない。あの規模の魔法が使えるものはいないだろう。
思っているうちに、ヴィクトルは、窓外にシェイラの下降する姿を捉えた。
音を立てて、無意識に立ち上がる。迷わず、{転移}を発動した。彼女が降り立つ場所を目算し、軸を定める。ぐんっと{転移}特有の感覚を覚えながら、出先で、シェイラの傾ぐ体を目にした。手を伸ばす。
「──ラータっ!!」
両腕で受け止めてから、ヴィクトルは事態の把握をはじめた。
シェイラの意識がない。ひやりと、摩耗しきったはずの感覚がつめたいものを帯びる。
なぜ、シェイラがオルリアに。
「殿下!」
追ってきたベイドルが、{転移}の光を払いながら娘の姿を認める。
「シェイラータ……」
なぜここに。
ベイドルが絶句する。
「──はて? 先ぶれを出しているはずですが」
ヴィクトルとベイドルが思い悩んでいると、背後から魔導師の男が空気を読まずに言った。
「我らはヴェッセンダリアから使者として参った次第」
「なに?」
使者として、シェイラがやって来たということだろうか。
「オルリア聖王太子聖剣使いヴィクトル殿下とお見受けしますが、よろしいですか?」
ヴィクトルが肯けば、その男──ラムルと名乗った魔導師が告げる。
「我らは、老師に命じられて、聖王国の事態を把握しに参りました。現状をお教えください。この霧の様相と、{通信}も取れない状況。異常としか思えませぬ」
ラムルの言葉に、ヴィクトルはベイドルと顔を見合わせた。
──{通信}が取れないということはないはずだ、と。
妙にいやな予感がもたげる。
「お話ができる場所の確保もお願いいたします。人払いができたほうがよろしいかと。……できれば、そちらの、シェイラータ準師のお体を休められる場所も」
ラムルの要望に、ヴィクトルは両腕のなかのシェイラを見つめた。一息吐き出して、返答する。
「私の部屋に案内しよう」
ヴィクトルはそう言うと、シェイラを抱えたまま、ラムルとベイドルを連れて、自身の私室へと{転移}した。




